苦痛回避が可能だとしても、しばしば後が大変になる

2019年10月24日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-2-3. 苦痛回避が可能だとしても、しばしば後が大変になる
 苦痛の原因を遠ざければ、苦痛はなくなる。自然的にはそうして、苦痛とその原因の傷害を回避できている。だが、それの難しいこともある。不可避の苦痛とその原因を受け入れるのが忍耐だが、そういう事態になっても、なおも苦痛から逃げたり、排撃することもある。逃走や排撃がうまくいけば、苦痛なく、忍耐なしで済むかもしれないが、これに失敗するとより大きな苦痛の待っていることが多い。忍耐した方がまだ小さな苦痛で済むと思えば、逃げないで忍耐することに傾く。欲求抑制の辛苦に忍耐している場合は、忍耐をやめるとは、欲求実現へと向かうことで、抑制での苦痛をなくして楽になりもする。ただし、そのことの結果がより大きな辛苦をもたらすから大体が忍耐しているのであり、忍耐をやめて一時的に楽になることは、想像力のある者ではとりにくいことになる。
 忍耐をやめて破れかぶれになり自暴自棄になる者は、辛苦に耐え難くなってそうするのであり、辛苦の甘受をやめるという限りでは、楽にはなる。だが、自暴自棄の後は、耐えて苦痛甘受をもって可能になる大きな価値の維持なり獲得を断念することになるのみでなく、その見境ない暴発・破壊のもと一層の苦痛が押し寄せてくる。先を読める想像力あるものは、それを思って忍耐の方をとる。
 自殺は、責任をとっての自決などとちがい、忍耐できなくなり、破れかぶれで、目先の苦痛から逃げて楽になるためにすることが多い。その生に残されているのは苦痛のみということなら安楽死もやむを得ない。が、そうでないのなら、耐えればよりよい生の可能性が残っているのである。西洋ではレイプ犯による受精卵にすら「人間的尊厳がある、殺すな」ということがある。ましてや、生身の人間は、現に実在している尊厳で、受精卵が人ならば、絶対者であり現生している神そのものである。それの神々しくありうる未来を断ち、それを灰燼に帰すのが自殺である。人生に絶望して苦悶していても、これを耐え切るなら、あるいは自分の生き方、生きる場所を変えるなら、苦悩からは解放される。苦痛・苦悩の現在に囚われて、早まったことをしてはならない。