忍耐しても、しなくても、苦痛・辛さ自体は変わらない

2019年10月03日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-2. 忍耐しても、しなくても、苦痛・辛さ自体は変わらない
 忍耐は、苦痛を我慢する。それは、苦痛を押さえつけてこれを感じなくするのではない。苦痛を感じる状態をそのままにして、これを受け入れるのが忍耐である。忍耐は、自然を超越し、苦痛から自由になり、これを回避せず、受け入れる。だが、苦痛から自由になるといっても、それは、苦痛を感じなくする、苦痛感情から解放されて楽になるものではない。忍耐が苦痛から自由になるとは、苦痛回避衝動を抑止して制御・支配すること、苦痛から逃げないで苦痛(の回避衝動)から自由になるということである。忍耐は、苦痛を軽減するわけではない。 
 忍耐は、むしろ、自然的には回避できる苦痛をも受け入れるから、より多くの苦痛をそこでは感じることになる。忍耐は、苦痛を軽減するどころか、忍耐をしない(苦痛から逃げる)自然状態よりは多くの苦痛を、しかも長々と感じるものになる。かつて拷問で膝の上に重い石を載せて足に激痛を与える方法(石抱責)があったという。激痛に耐えられなくして自白に導くというものである。忍耐しても、忍耐できず自白しても、その拷問の間の苦痛は変わらない。石の重みで足に激痛が走ることは、忍耐するしないに関わりなく、同じである。が、忍耐する者は、その激痛に降参することなく耐え続けるのであり、より長く多い苦痛を味わうことになる。かつ、激痛に耐えきったものは、もう一枚の石を載せられるから、さらに大きな激痛が追加された。忍耐は、苦痛を受け入れることだから、苦痛を感じることについては、忍耐しないものに比してより多くの苦痛を感じることになるのが普通であろう。
 忍耐を貫くとは、苦痛から逃げないということであり、苦痛回避衝動に勝つということである。感覚感情的には、忍耐の有無にかかわりなく、苦痛には、さいなまれ煩悶し打ちのめされる。だが、忍耐する者の精神、理性の意志は、苦痛の自然的な回避衝動に支配されず、これを拒否して自由を確保する。ひとがひとであるのは、その精神においてであれば、苦痛から逃げない忍耐は、忍耐しないものに比して長く多く苦痛にさいなまれるとしても、自然感性から自由になって、苦痛という自然が精神を脅かそうとすることに負けないで、毅然としてその尊厳を保つ。