忍耐して苦痛を受け入れていると、苦痛でなくなる場合がある

2019年10月10日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-2-1. 忍耐して苦痛を受け入れていると、苦痛でなくなる場合がある
 苦痛に忍耐するが、これは、苦痛を小さく和らげるためにするのではない。忍耐する基本は、苦痛を受け入れること、甘受することである。忍耐は、その苦痛甘受を手段・踏み台にしての価値物獲得を目的にする。忍耐では、目的のための手段価値として苦痛があり、苦痛が価値ある目的を実現するから、その限りでは、この苦痛がたくさんになればなるほど、その苦痛をたくさん感じれば感じるほど大きい手段価値となり、より大きな目的物が獲得可能になる。その限度は、苦痛が大きくなりその蓄積で忍耐のできなくなる限界点ということになる。
 忍耐し苦痛を甘受すればするだけ、それの蓄積をもってして、より大きな苦痛を感じることになる場合が多いが、逆もある。苦痛に忍耐することが苦痛の軽減になっていく場合がある。麻酔の注射は痛いが、それは手術の大きな苦痛をなくするためのものである。熱い(あるいは冷たい)苦痛の風呂は、思い切って我慢して入ると、だんだん熱さ(冷たさ)の苦痛はなくなって、平気になる。暗闇にいた者には、強い光は苦痛になる。だが、辛抱していると、しだいにまぶしくなくなる。大音響なども我慢していたら、だんだん平気になる。
 その場で直ちに苦痛でなくなるのではなく、忍耐の回数を重ねてしだいに感覚などがこれに適応して平気になるようなものもある。現代音楽は、不協和音のみを重ねるから、普通の騒音とちがい、なかなか慣れないが、それでも重ねて聞いているとだんだん不快度は低くなる。発酵食品のなかには、他の地域からいうと腐敗とみなされるようなものがあり、腐敗臭の耐え難いものがあるが、これも何回か食べていると、その苦痛は小さくなり忍耐は小さくて済むことになる。さらには、それを美味とするまでになって、忍耐などとんでもない話にと変わっていく。
 スポーツでの忍耐も、苦痛に耐えることで同じ苦痛は平気になる。体力がつき、抵抗力ができて苦痛とまではいかなくなる。風邪のような病気でも、はじめは辛いが、苦痛軽減の風邪薬を使わないで我慢していると、だんだんと熱もさがり頭痛も軽くなって一週間もするとなんでもなくなっていく。耐性ができ免疫ができる。ひとの適応能力は大きく、苦痛がつづくと、これを平生のことにとできるように適応していく。

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