自然主義(穏やかな快楽主義)と積極的快楽主義

2013年06月22日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-2. 自然主義(穏やかな快楽主義)と積極的快楽主義
 ひとも動物的自然のもと、快・不快(おいしい・まずい)の感情にしたがって生きる。おいしさ(のど越しの快楽)をもたらすものは、栄養のあるもので摂取することが好ましいものである。逆に、まずいものは、しばしば腐敗していたり食べ物ではないものであって、この不快なものの拒否は生体を保護する。自然本性にしたがって、つまりは快を求め不快を避けるという自然主義としての快楽主義で、動物的生は維持されている。類の維持も、性的快楽にしたがう自然的な欲求のもとに可能となっている。
 ひとは、その自然本性にしたがって、食もさして過多にならず、性的にみだらでもなく、健やかな生を維持できていることが少なくない。この自然に素直な自然主義は、快を求めるといえばそうだから、消極的な穏やかな快楽主義である。快楽への欲求を抑圧したり禁じたりしなくても、健やかな生を維持できているのであれば、節制も不要ということになる。
 これに対して、この快楽享受にことさらに執着して、これを人生の目的にする快楽主義は、積極的な快楽主義ということになろう。高級な精神的人間的な営為があるときも、これを無視して、人間的生の底辺の快楽の方にと流れるのである。幸福への願いといった高級な欲求では、恵みの確保が目的となり、それには、しばしば苦労などの不快が伴い、かつ幸福が得られたとしても快でないこともある。快は、目的にはならない。快楽を目指して動くのは、食と性の動物的レベルの欲求である。積極的な快楽主義がひたすらに快楽追求に生きるということは、動物的な存在に己をしばりつけているのである。あるいは、快楽中枢を直接刺激する麻薬などによって快楽の虜になるのであれば、快楽の奴隷にと成り下がるのである。

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