快楽と欲求への接し方-快楽主義・禁欲主義と、中庸の節制

2013年06月01日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2. 快楽と欲求への接し方-快楽主義・禁欲主義と、中庸の節制
 節制主体の理性は、動物的な根本欲求の食欲・性欲を制御しようとするが、この快楽を求める欲求に対しては、快楽主義と禁欲主義の相対立する極端な考え方がある。節制する理性は、その両極端の中間で中庸をとる。
 ひとの自然に備わっている快楽への欲求と、不快なものへの回避欲求によって、われわれは、ことさらに意識しなくても自然的動物的にうまく生きている。快楽(おいしいもの)を求めることで自ずからに生の促進(栄養摂取)がなる。この自然的欲求充足に生きておればいいのだと、快即善とみなすのが快楽主義である。だが、過度の消費をさそう社会においては、快が善とならず、食の快楽追求では栄養過多・肥満といった悪しき生の状態をもたらしてしまう。 
 他方、ひとは自然を超越した理性存在であって、快・不快で動く動物的な欲求を超越する必要があると禁欲主義を求める立場がある。快楽は悪で、禁欲こそが善だと主張する。確かに、快に引かれ不快を避けていたのでは、不快・苦を契機に含む人間的営みでの喜びや希望などは得がたいものとなってしまう。だが、禁欲を徹底して食欲・性欲を禁じて絶つことは、個体の生の維持を困難にし、類の存続を危ういものにしてしまう。
 節制は、この快楽主義と禁欲主義の中間をいく。快楽への欲求をほしいままにはさせず、これに制限を加えて節する。かつ、快楽と欲求を根本的に禁じて禁欲生活をというのではなく、生の維持に一致した適正な限度までは、その快楽・欲求を肯定する。