自然的無目的の忍耐も後づけで目的化する

2017年09月01日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3-3. 自然的無目的の忍耐も後づけで目的化する
 ひとが忍耐する場合、典型的には目的を描きその不可避的な手段として苦痛の甘受をする。だが、そとから強制される場合とか、降ってわいたものなど、目的を描くことはなく、突然の苦痛の出現とこれの甘受という、未来の目的などなしの無目的の忍耐になることも多い。蜂に刺されて激痛に忍耐するとか、朝からけたたましいセミの声など、そうである。自然的な災害への忍耐は、苦痛・辛苦にはじまる。突如襲来した辛苦に、避難の方法も見つからず、下手に動くとマイナスになりそうで、さしあたり、じっとその受難を耐えるのである。
 だが、そういう自然的な災害への苦痛の忍耐も、目的を後づけはできる。おそらく、長く続く辛苦と忍耐には、目的を描き出していく。未来の目的が引きつけることで、現前の辛苦と忍耐をよりよく耐えていけることになるのである。その未来の目的は、積極的な目的であることもあろう。被災してこれの片づけをするなかで、復興のプランを描きだして、これの実現へと現前の辛苦を忍耐する。その一歩一歩を復興プランの実現と位置付けて、辛苦甘受を支えていく。
 消極的な目的定立もする。蜂に刺されての激痛の忍耐では、毒液をポイズンリムーバーで抜き出したらむやみにつつかず「我慢、我慢」で、やがて痛みのない安寧の状態になるのだと未来を描いてこれへと時間に耐えていく。現在の激痛が永劫つづくかもというような事態では耐えがたいが、時間とともにだんだん治るのだ、穏やかな状態が復活できるのだと前向きであれば、忍耐はしやすくなる。暴風雨に「ここでじっと我慢しておれば、やがて天気は回復する」と、むやみに騒がず事故を起こさないことに限るというような場合もある。無目的にはじまることへの後づけの目的設定である。
 

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