ひとの苦痛は、目的実現の手段価値になることがある

2024年08月06日 | 苦痛の価値論
4-2. ひとの苦痛は、目的実現の手段価値になることがある  
 ひとは、快不快の自然を超えて自由になり、どんな苦痛であっても回避せず受け入れる意志をもてる。その苦痛甘受は、目的を立ててのことが中心になる。だが、その中には、いい加減な手段の設定で目的実現は不可能と思われるようなことについて、苦痛甘受することもある。「くたびれもうけの骨折り損」という無意味な忍耐となる。緻密なプロセスを踏まえることなく、単なる願望・妄想(の目的)を描いて、無暗に快を絶ち苦痛に耐えても、良い結果は得られない。本人は、価値ある目的を描いて、そのために苦痛を甘受しているのだとしても、客観的には無駄骨でしかないこともある。神に願掛けをして大きな辛苦を背負い込むとしても、それは、本人の気休めになるのが関の山で、無意味な苦痛の甘受をするだけである。竜神に雨乞いをと命を捧げ自身を生贄に差し出したとしても、川から水を引くために崖に水路を切り開いて命がけになるのと違って、100%無駄な苦痛となる。
 引き受けている手段は、未来の目的を実現できるように、因果連鎖などを踏まえて合理的に塩梅しておかねばならない。その目的に達しうる手段を的確に選ぶことが必要である。その手段は、ときには、快であることもある。そういう場合は、誰でもがこの手段をとって目的を実現する。だが、苦痛甘受が手段の場合は、いやな苦痛のことで、できれば回避したいのが自然である。それをあえて目的の実現のために必須と選択するのが忍耐である。苦痛自体は、嫌悪すべき拒否したい反価値である。それをあえて選ぶのは、未来にそれを凌駕する大きな目的が実現可能となるからである。その目的実現に不可欠のものとして、手段としての苦痛の甘受、忍耐はある。
 目的論は、因果論とは反対に、まずは結果から原因へと遡源する。それは、結果を生み出すためにその原因となるものを探してのことである。目的を実現するために、目的を結果とするものを探し出し観念のうちで因果連鎖を逆にたどり手元の原因にまで到る。つぎに、実在的に、手元の原因を作動させることで、因果を実際に発動させて、結果=目的を実現する。そこで大きな障害となるのが、苦痛である。苦痛は、自然的には回避するから、目的実現に至る過程で苦痛が不可避である場合は、これを自覚して甘受し忍耐することが必要となる。苦痛甘受の忍耐が目的実現の要となる。その苦痛を回避せず受け入れることが、目的を可能にする。苦痛は、目的達成の肝要な手段価値となる。