自責の念は、苦痛で慰められる

2023年08月29日 | 苦痛の価値論
3-5-7. 自責の念は、苦痛で慰められる   
 損傷・苦痛をひとに与えてしまい、その責任を深刻に受け止めることがある。責任を果たすには、自身がその損害・苦痛をできるかぎり償うようにすることであるが、それでも、なお、その過失への後悔の念に苦しむ者は、単に償うだけではなく、厳しく自身を罰しなくては自らを許せず、自身を痛めつけて、与えた苦痛の何倍もの苦痛を甘受しなくては落ち着けないというような場合がある。
 報復律にしたがって同じ損傷で報いて一応の相互の納得はいくことであろう。「歯には歯を」にしたがい、同じ損傷、補償をもって体裁は整う。だが、真にその損傷・苦痛に責任を感じている者は、それでは気が済まず、相手が自分の過失で苦痛を抱いたであろう、そのあらゆる苦痛をしっかりと感じようとすることであろう。敵対している者とか無縁の者への損傷・苦痛であった場合は、報復律で済ませられることが多かろうが、自身の過失で、味方、有縁の者に損傷・苦痛を与えた場合、後悔してもしきれず、与えた苦痛の何倍もの苦痛を自身に加えるのでないと、気が済まないこととなる。損壊という愚かしい行為へのお詫びは、同じものを弁償すれば一応片付くことではあるが、与えた主観的な苦痛は、そうはいかない。犯したことへの償いの苦痛は、自身で測る以外ないが、自身の気が済むようにするには、なるべく大きく、耐え難い苦痛をもってしなくては収まらないであろう。苦痛で自身をいためつけることが大きいほど、こころは慰められることになる。
 傷に塩をぬりこんで苦痛を幾重にも加えることは、一般的には唾棄されることで、苦痛は悪魔的な反価値となるが、損傷・苦痛を過失で与えてしまった場合、そしてそのことを取り返しのつかないことをしたと、悔やんでも悔やみきれない思いを抱いている場合、自身がその何倍もの損傷・苦痛を被るのでないと、心は落ち着かない。ここでは、二重三重の苦痛の在り方を自身が求めることになる。いじめられた者は、一生その苦痛を忘れないという。いじめを猛省する者は、それを想像して一生自身苦しまねばならないと思う。死亡事故の責任を感じる者は、残された家族が一生悲しみ苦しみを味わうのだと思うと、どんな償いをしても、どんな苦痛をもってしても償いきれないと悔み続ける。傷に塩をぬりこむような苦痛が、むしろ、自身を慰めることになる。