惨めさや痛みは、主観的で変えることができる  

2023年08月15日 | 苦痛の価値論
3-5-5. 惨めさや痛みは、主観的で変えることができる
 現代から見ると過去の世界は、貧富・身分等の差が大きく、劣等に置かれた者の惨めさは耐え難いものに見える。生来の素質にしても、美醜等の扱いでの差別は、露骨であった。だが、そこで差別される者たちは、意外に平穏に過ごしていたように思われる。現代からいうと、到底我慢できないような差別を当然として、これを平然と受け流していた。差別とか優劣は、まずは、これを比較することの可能な場をもたねばならないが、その場がなく無関係にと放置できれば、劣等とか醜貧の意識は意外にもたないで、したがって、惨めな思いも持たずに済んだ。現代は、情報過多で、アメリカのお金持ちの贅沢な私生活も、世界の僻地といわれるようなところでの飢餓線上にあるような生活も手に取るようにわかることである。生活は、プライバシー保護を言わねばならないほどに白日の下に晒され、比較は、天から地までのものがなされうるから、下位にあるものは、下位をしっかりと自覚させられて、下位ということを意識すれば、惨めさを感じさせられることである。
 たとえ貧苦にある自分と富者・恵まれた者との関係が敵対的というのでなく、友好関係にあったり家族・親戚の者だとすると、自分もその恵まれているものたちの一員に近いものと感じて、惨めさとは反対の、恵みを感じるのではないか。貧困の親が、わが子や孫の社会的成功を快としても、不快に思うことはない。社会生活では、家族は一体的で、もう一人の自分扱いだが、その外の者については、現在は個人主義が支配的だから、他者が恵まれていても自分が恵まれてない場合、優劣を敵対的な関係のもとに感じて、惨めさを感じるであろう。だが、個人主義的でない社会では、底辺の者でも、頂点に生活する者の在り様を見聞きした場合、嫉妬などすることなく、無縁の別世界と見るか、自分の家族のそれに抱くように、喜びを共有できていたことでもあろう。極貧の少女は、王家のお姫様の不幸の話に涙し、そのハッピーエンディングに喜びを感じえた。敵対・個人主義の下では、相手の価値は自分には無価値・反価値だが、味方・同類といった見方においては、いまでも家族の喜びは自分の喜びであるように、喜びとしえたのではないか。
 惨めとか貧困とか醜さ等は、かなり主観的評価であって、その価値評価は簡単に変えることができる。美醜とか貧富などの価値観自体をどうでもいい些事とみなせるなら、そこでの劣等などに自身を卑下することも、悲観的な感情をもつこともなくなる。個人主義の社会でも、共に暮らす家族の喜び・悲しみは、自身のそれにすることが可能である。祖先にまで自己同一化するなら、祖先の因果を身に引き受けて、「親の因果が子に報い」を穏やかに受け入れることができるようにもなろう。自身が醜・貧等にあって苦痛であるとしても、美・富と無関係と諦念するか、個を自覚することなく美・富の保持者に一体感を抱けるなら、それから疎外されているとは感じず、苦痛でもなくなる。生理的苦痛は簡単ではなかろうが、社会的精神的苦痛なら、よいことかどうかは分からないが、簡単に「火もまた涼し」という転倒した心境になりうる。