苦しむ者には、さらなる苦しみを

2023年08月08日 | 苦痛の価値論
3-5-4. 苦しむ者には、さらなる苦しみを  
 難病で苦しむものは、それだけでは済まないことが多い。その病気をはじめとして一層多くの苦難が待ち構えている。逆に、心身に恵まれている者は、それだけではなく、その上に、社会的に恵まれた活躍の場を得て、種々の恵みが与えられていく。例外も多いが、貧困に生まれたものは、死ぬまで貧困で、これを重ねていき、富者のうちに生まれたものは、恵まれた育ち方をし、一層の富者となって死ぬまで豊かに暮らすことである。
 恵まれた者がいよいよ恵みを多く享受していくことは、それから外されている者にも、それで害を受けるのでなければ、自分には運がなかったのだとあきらめがつく。あるいは、それが身近なひとであれば、ともに喜ぶこともできる。だが、恵まれていないこと、不運に苦難を甘受させられることには抗議したくなろう。自分に責任のあるものなら、やむを得ないこととして、我慢もする。だが、そうでないこと、例えば、美醜とか賢愚で、醜・愚をもって生まれた者には、それから種々の苦しみが一生付け加えられていくが、何の責任もないことである。これには納得できず、造物主に抗議したくなる。悪魔はいるとしても、慈悲の神など存在しないことを、何かあるたびに、苦痛が思い知らせてくれる。
 苦痛は、傷口に塩をぬって二重三重にひとを苦しめるもので、とんでもない反価値だということが生じるが、人生では、苦しみについて、重ねて塩をすり込むようなことが結構ある。次から次へと苦難が付け加えられていく。ただし、その不運続きに、それが自然・人生なのだと納得する人もいる。「憂きことの、なおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」(熊沢蕃山?)と居直り、チャレンジ精神を奮い起こす。恵まれているかどうかということ自体は一つの解釈であり、どんなに周囲からは苦難と見えていても当人はそうは思わず、それを自然と見たり、神与のありがたい試練ととらえることもある。苦しみは、これが続くと慣れてしまい、それが平常となって、苦と感じなくなることも多い。宗教にはまって、周囲の悲嘆をよそに、悲惨なはずの当人が至福にひたっているというようなこともまれではない。
 野生の動物など、生まれてから翌年まで生き残れるのは、わずかである。魚の卵とか稚魚など、ほぼすべてと言っても過言ではない数が、他の生き物のえさになって果てる。天候しだいで飢え死にしたり、獲物になって生を終わることもごくありふれた自然の営みである。ひとでも、最近まで、長く生きられるのは特殊で、七五三のお祝いはよくぞその年まで生きてくれたということであった。早世するのが普通であった。生存競争では、とくに戦争ともなれば、古くは、命を奪われることが普通で、奴隷として生き残れるのはラッキーだった。それらを、不運だ不幸だ苦痛だということで悲嘆するのは、それこそ特別に恵まれた王家の者ぐらいだったであろう(王も、不作、災い続きなら、責任をとらされ殺害されていた)。恵まれたものはいたが、ごくごくまれで、それ以外は、いまから見れば圧倒的に恵みの少ない人生だったということになる。が、その当時は、それが世の一般的状況であり、人は適応能力に富むから、それに慣れてこれを平常と見なし、不運とも不幸とも感じていなかったことが多かろう。