ひとは、甘やかされれば、動物になりきる

2024年09月03日 | 苦痛の価値論
4-2-3-1. ひとは、甘やかされれば、動物になりきる  
 飲酒が過ぎてアルコール中毒になったとき、これは自分の意思では対処できない、入院、薬物療法が必要と言われることがある。アル中ではなく、精神的病が問題の場合は、後者の治療となり、自分だけで解決することが困難なこともあろう。だが、純粋に快楽に溺れるだけのアル中なら、かなりの場合、当人が理性意志を強く働かせれば、克服できるのではないか。それを、飲酒を続ける者は、幼児のように甘えた状態にとどまって、困難に挑戦する意志をもつことなく動物的自然状態のままに、なにかと理屈もつけて中毒に甘える。自身を甘やかせているから、甘えられるから、自身の意思では対処できないということにしているのである。周囲の誘惑があってこれに負けてしまうと言い訳をするが、それなら、山中の一軒家など誘惑のないところへ移ればいいのである。本気になれば、理性的な解決策はいくらでもあろう。同じ頃禁酒を誓った知人は、刑務所に入って即日禁酒をはじめて、アル中からとっくに抜け出しているのである。 
 ひとには動物的衝動が当然あり、これは自身を強くその方向へと向ける。だが、それを抑止できるのが人間である。理性をもって、快不快を制御して、苦痛に忍耐し、快楽を我慢して、ひとは、社会的にしっかりと秩序をもった生活を可能にしているのである。性と食の強い欲求、動物的な衝動をひとは、普通に制御している。日に三食とか二食に限定した食事も、制御してなりえていることである。おいしそうなものを見たら即ほしくなるが、食事時まで我慢できるのである。性欲も、ほしいままをする犬畜生と唾棄される者以外は、しっかりと抑制して一夫一婦制を守っている。畜生と言われるものでも、刑務所に入ったらしっかり我慢でき(させられ)、刺激がなければ、性欲は消滅さえする。薬物乱用者でも刑務所では何年でも禁欲できる。強い欲求でも、環境を整理しその気になれば、適切に抑制できる。
 ひとは、自然的には回避する苦痛も、回避せず甘受でき、我慢・忍耐ができる。そのことで自然を超越した存在となる。自然の衝動・欲求を抑制して、超自然の存在となるのである。快享受を制御するより、苦痛の甘受の方が厳しい意志の働きを要する。苦痛では、苦痛、損傷が現に生じているのを、逃げずに、耐えるのであり、強い意志を必要とするものが多い。これから逃げたとしても、「弱虫」と批判されるぐらいで済む。だが、快の方は、これを享受するのを抑止するのであり、その快はまだ現前していない、想像の段階である。その快の享受を控えて我慢するとしても、苦痛のように生が損傷を受けるという深刻なものではない。比較的に容易なのが快の抑止である。したがって、快享受について我慢できない者は、「人間に悖る」と嘲笑される。苦痛に負けるのは、弱い人間である。だが、快楽に負ける人間は、人間に悖るもの、動物である。