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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

このブログ廃止で、以下に移る予定
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欲と禁欲の弁証法

2010年05月22日 | 節制論
6. 欲と禁欲の弁証法
 個別的感性的欲求は、普遍的合理的理性の意志に制御されて、ときに禁じられ、ときに制限される。その結末としては、一方で、欲を廃棄・止揚して無欲化して終結する場合があり、他方では、欲と禁欲のせめぎあいを持続させ、節制を永続化させる場合がある。
 麻薬やたばこは、生にとって元来無用の快楽であり、中毒になりやすく、節制よりは、欲を無化し無欲・反欲で終結するか、快楽に溺れて敗北し、再度挑戦する機会をうかがうことになる。
 だが、食欲は、これを無欲化・反欲化して、食べるのが不快で口にするものを嘔吐するとしたら、病的なダイエットでときにそうなるようだが、その生命個体の存続はあやういことになる。食欲については、無欲・反欲にはならないようにし、欲と禁欲のほどほどの相互制限の弁証法を永続させていくべきこととなる。欲に押されがちの者、肥満しがちの者は、この弁証法的葛藤を生涯つづけ、とくに年齢とともに必要なエネルギー量が減るので、その葛藤をより強めていくことになる。病弱で食欲のない者からいうと贅沢でうらやましい葛藤である。

理性的制御へ

2010年05月16日 | 節制論
5-5. 理性的制御へ
 感性的動物的欲求を律し、悪しき私的独断的理性(の欲求)を抑圧する必要があるが、これは、良識と良心にしたがった理性意志が担うことになる。甘くておいしいとしても、有毒と判断されれば、意志は、この食欲を抑え停止もできる。超感性の普遍的な理性は、狭い個別的な感性の視野を超えていて、これをあやまたないようにとリードしていく。それは、感性的欲望にとっては、抑圧され我慢させられることである。節制・禁欲の強制である。
 理性の制御は、悪しき理性自身にもむけられる。常に理性的全体・普遍の立場に立つ良心は、利己的独断の理性を批判し、私的な欲望の身勝手をいさめ厳罰を与える。あるいは、良識としての理性は、欲望に屈した理性をたしなめ押さえ込み、欲望を節し禁じる。さらには、自然的欲求をゆがめる理性に反省をせまる。
 節制は、適正と判断されるところにと、欲を制限していく。この制限は、場合によると、欲そのものの停止・禁止を求める。欲を制限するのは、量的にそうするのだとしても、その量の制限を越えるところは、量的にゼロとする全面禁欲となる。あるいは、空腹のはじめから、糖分は、紅茶・コーヒーには禁欲して全く入れずに、我慢する。制限としての節制は、時に欲と禁欲のほどよい兼ね合いとなる。

自然的欲求を理性が歪めているのでもある

2010年05月16日 | 節制論
5-4. 自然的欲求を理性が歪めているのでもある。
 食欲の停止は、満腹をもって自然的になされる。それが遅れ気味になるために、過食することになるが、ゆっくり味わって食べれば、過食する前に結構満腹し満足できる。ひとのせっかちな生活習慣がその自然的満足感を生じないように妨げていることがある。理性的に生きているその生き方が、自然的感覚を軽視し、しっかりかんで満腹感の自然に生じるのを待てず、スケジュールに合わせて食事を急がせる。自然的欲求とその満足感が悪いのではなく、理性が悪いのだとも言える。
 毎日の食事は、空腹感なくして、理性の立てたスケジュールにあわせて三食食べる。空腹なら砂糖漬けでなくても美味しいのに、自然の空腹にしたがわないから、砂糖たっぷりでないと食欲もわかない。自然的欲求にしたがって空腹感に素直であれば(余計に食べる惰性もやめれば)、過食にはならないし、砂糖漬け・脂肪たっぷりでなくても美味しく食べられる。自然欲求が悪いのではなく、杓子定規な理性的生活がまずい面もありそうである。
 性欲にしても、理性が歪めている面がある。禁欲主義は、そうだし、逆に快楽主義的になるのも、過度に性的に挑発する現代社会においてのことであり(寝室内限定であるべきものの公開)、あるいは、理性社会のストレスを快楽でごまかそうということであろう。自然的な欲求としては、男子でも、歌を歌い、ささげものをして鳥類のように紳士的に振舞えるものかも知れない。

欲求は、理性意志に背くものでもある

2010年05月14日 | 節制論
5-3. 欲求は、理性意志に背くものでもある。
 理性の意志は、合理性・普遍性・客観性に基づいてことを実行していく。だが、動物的欲求は、個人的主観的なもので、根源的ではあるが、理性に背いて、短絡的盲目的なものにもなる。それが有効に働く範囲は、狭く、遠くまでを見通すことはできない。肥満しても、食欲はなくならない。
 精神的世界に関わる欲求、欲望でも、その視野は、狭隘で主観的で身勝手なものとなりがちである。名誉欲にそそのかされて市長になろうとする者は、自分より対立候補の方が人品にすぐれているとよく分かっていたとしても、それは無視する。
 欲求は、食欲も性欲も、名誉欲も、生にとって不可欠で根源的である。だが、それは、しばしば、行き過ぎて、その個人にも、その属する全体にも有害になる。「過ぎたるは、及ばざるが如し」となる。ほどほどには制限し節することが必要となる。

欲求対象は、自由になるものには限定されない

2010年05月14日 | 節制論
5-2. 欲求対象は、自由になるものには限定されない。
 呼吸は、自由になるから、呼吸欲がありうる。胃や心臓は、鼓動や消化不良は意識できても、意志でどうこうできるものでもないので、「~したい」という鼓動欲とか消化欲にはならない。
 だが、自由にできるものだけが欲求の対象になるわけではない。背丈を伸ばしたい、若返りたいと欲し、太陽を逆行させて夕日をもっと留めておきたいと、不可能、非現実のことでも「~したい」と欲求できる。
 はるかな理想を想像で描き、これを目的としてあげるなら、非現実の夢・願望などにとどまるとしても、「したい」「ほしい」と欲求として意識できる。ただし、太陽を引き戻す欲求のレベルは、非現実的なものであることを心得ている。したがって、実在世界に実現するという実践のレベルでは欲求しない。心臓の鼓動も非現実の願望としては、ゆっくり動かしたいと欲求できるが、現実化する手立てはないから(深呼吸するように、随意の神経が心臓に直結しているわけではない)、現実的身体への働きかけの欲求としては、しても無意味なので、一般的にはもたない。