【1-4.時空の見当識の乱れは、ひとを狼狽させる】生存立の根本形式に空間とともに時間がある。その各々の一点に自分を定位して自らの存在を確かめて、ひとは生きている。自分の空間的な位置が不明となったとき、いま自分がどこにいるのかを確定しようと必死になることであろう。それは、時間的にも同じである。もし、自分の生きているその時間があやふやになったとしたら、動転することになる。
一寝入りしたあと目覚めて、「いまは、夕方なのか朝なのか」と見当がつかなくなったとしたら、うろたえてしまうことであろう。眠りは自分がひとりになるときであり、目覚めもひとりに始まる。起きた時、周囲の空間的状況が分からず、夕方と明け方は似ているから時間も同定できず、しんとした部屋で一人目覚めると、自分の存在する時空の見当識が失われて、自身の存在があやふやになるといったことが生じる。こどもなら、皆が自分を置いてどこかへ行ってしまったのではないかとか、天狗が自分を連れ出して、だれもいないところに置き去りにしているのではないかと感じるかも知れない。時空の同定ができず見当識を失わせるような事態になったとすると、自身の存在の足場を失なったように感じて、不安になる。自分の時間的空間的な位置がはっきりするまで落ち着くことができず、家人の帰宅の声を聞いて、それが夕方であり、住み慣れた我が家であることを確かめて、やっと安堵することができるようになる。
時空は、そのもとでみんなが同じひとつの世界に存在する根本的な形式としてあって、それからはずれてしまうようなことは、その同じ世界から根本的にはずれることとして、驚愕のことがらとなる。その同じ時空間のもとで、その社会は各個人に、父親とか先生とか陰気な男といった役を演じさせ、各自は、その役をもって自身の同一性・アイデンティティをつくりその生を営んでいる。その時空間的な世界の同定ができず見当識が崩れると、自己の存在の場そのものがあいまいになって、自己同一性も不確かになり、何をしたらいいのか分からなくなり、自己の存在がゆらいで霧散するように感じていく。自己そのものが失われていくというような思いにとらわれるのではないか。
この国では四季の区別が明確である。そのとき、春なのか、秋なのか不明になるような体験をすると、ひとは、自分の世界が崩れるような戸惑いをおぼえることであろう。初秋の穏やかな一日、いまは秋のはずと思っているとき、小川をみていると、春の桜の花びらがながれ、れんげ草の花が岸辺に咲き、空からは春のひばりのさえずりが聞こえてきたとすると、時間の見当識がみだれて、突如、この世界がゆらぎだし、自分もあいまいなものとなって、どぎまぎするのではないか。世界の根本形式である時間、これが異なってくるということは、世界を根本的に別にするということであり、異世界を知らせる衝撃的な手段となる。帰郷した浦島のような異常な時間体験は、客観的に反省するなら錯覚であって、客観的な現実自体がそうなっているのではないと理解しつつも、主観的な体験としてはけっこう一般的でもある。その体験においては、一瞬ではあれ、自身の世界が混乱し、動転させられる。
今浦島体験は、錯覚だと分かることで、納得し安堵することになるが、その奇怪な事態が持続するとしたら、世界と自身の在り方を根本的なところから見直していくべきことになる。昨日まで少年だった甥が、錯覚ではなく、真実、その次の日、青年になって現れたとすると、タイムスリップして10年後の世界に自分が時間移動をしたということである。自分がタイムマシンにでも乗って時間を飛ばして動いたのだと感じられればまだしも、自分は普段通りにしていたのであれば、身近な世界が自分を疎外した形で途方もないことを行っていると不気味さを感じることであろう。わけの分からない奇怪な世界に引き込まれているのかも知れないと不安をいだくこととなろう。空間的に異なったところに移されていたとしても、もとに帰るための手段はなんとか見出せる。だが、時間の場合、わずか1月前に自身が移されたとしても、帰る現実的な方法はない。水底の竜宮ぐらいの空間的な行き来なら、呼吸の心配を片付ければ、なんとかなろう。だが、時間を異にするところとなると、現実の中では、1日前の昨日というとなりに移動することすら不可能である。昨日起こした事故は、どんなに後悔しても取り返しがつかないのである。飛躍も停滞もなく、もちろん逆行することなどありえず、均一に流れる時間のもとにこの世界は営まれており、今浦島のような異時間は、単に主観の錯覚として生じるのみである。だが、浦島は、均一に流れる時間のはずなのに、異なった時間を体験したと語る。異時間をもっての異常な世界の在り方を浦島は想像させる。奇怪極まりない話として、心をざわつかせることになる。
一寝入りしたあと目覚めて、「いまは、夕方なのか朝なのか」と見当がつかなくなったとしたら、うろたえてしまうことであろう。眠りは自分がひとりになるときであり、目覚めもひとりに始まる。起きた時、周囲の空間的状況が分からず、夕方と明け方は似ているから時間も同定できず、しんとした部屋で一人目覚めると、自分の存在する時空の見当識が失われて、自身の存在があやふやになるといったことが生じる。こどもなら、皆が自分を置いてどこかへ行ってしまったのではないかとか、天狗が自分を連れ出して、だれもいないところに置き去りにしているのではないかと感じるかも知れない。時空の同定ができず見当識を失わせるような事態になったとすると、自身の存在の足場を失なったように感じて、不安になる。自分の時間的空間的な位置がはっきりするまで落ち着くことができず、家人の帰宅の声を聞いて、それが夕方であり、住み慣れた我が家であることを確かめて、やっと安堵することができるようになる。
時空は、そのもとでみんなが同じひとつの世界に存在する根本的な形式としてあって、それからはずれてしまうようなことは、その同じ世界から根本的にはずれることとして、驚愕のことがらとなる。その同じ時空間のもとで、その社会は各個人に、父親とか先生とか陰気な男といった役を演じさせ、各自は、その役をもって自身の同一性・アイデンティティをつくりその生を営んでいる。その時空間的な世界の同定ができず見当識が崩れると、自己の存在の場そのものがあいまいになって、自己同一性も不確かになり、何をしたらいいのか分からなくなり、自己の存在がゆらいで霧散するように感じていく。自己そのものが失われていくというような思いにとらわれるのではないか。
この国では四季の区別が明確である。そのとき、春なのか、秋なのか不明になるような体験をすると、ひとは、自分の世界が崩れるような戸惑いをおぼえることであろう。初秋の穏やかな一日、いまは秋のはずと思っているとき、小川をみていると、春の桜の花びらがながれ、れんげ草の花が岸辺に咲き、空からは春のひばりのさえずりが聞こえてきたとすると、時間の見当識がみだれて、突如、この世界がゆらぎだし、自分もあいまいなものとなって、どぎまぎするのではないか。世界の根本形式である時間、これが異なってくるということは、世界を根本的に別にするということであり、異世界を知らせる衝撃的な手段となる。帰郷した浦島のような異常な時間体験は、客観的に反省するなら錯覚であって、客観的な現実自体がそうなっているのではないと理解しつつも、主観的な体験としてはけっこう一般的でもある。その体験においては、一瞬ではあれ、自身の世界が混乱し、動転させられる。
今浦島体験は、錯覚だと分かることで、納得し安堵することになるが、その奇怪な事態が持続するとしたら、世界と自身の在り方を根本的なところから見直していくべきことになる。昨日まで少年だった甥が、錯覚ではなく、真実、その次の日、青年になって現れたとすると、タイムスリップして10年後の世界に自分が時間移動をしたということである。自分がタイムマシンにでも乗って時間を飛ばして動いたのだと感じられればまだしも、自分は普段通りにしていたのであれば、身近な世界が自分を疎外した形で途方もないことを行っていると不気味さを感じることであろう。わけの分からない奇怪な世界に引き込まれているのかも知れないと不安をいだくこととなろう。空間的に異なったところに移されていたとしても、もとに帰るための手段はなんとか見出せる。だが、時間の場合、わずか1月前に自身が移されたとしても、帰る現実的な方法はない。水底の竜宮ぐらいの空間的な行き来なら、呼吸の心配を片付ければ、なんとかなろう。だが、時間を異にするところとなると、現実の中では、1日前の昨日というとなりに移動することすら不可能である。昨日起こした事故は、どんなに後悔しても取り返しがつかないのである。飛躍も停滞もなく、もちろん逆行することなどありえず、均一に流れる時間のもとにこの世界は営まれており、今浦島のような異時間は、単に主観の錯覚として生じるのみである。だが、浦島は、均一に流れる時間のはずなのに、異なった時間を体験したと語る。異時間をもっての異常な世界の在り方を浦島は想像させる。奇怪極まりない話として、心をざわつかせることになる。