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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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地獄なども、天国と似た時間をもつ

2020年07月13日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【3-3.地獄なども、天国と似た時間をもつ】永遠かごくゆっくりとした時間というあり方は、天国とか極楽のみではなく、地獄もまたしばしばそう解される。地獄へいったに違いない自分たちの身近な悪人たちも、みんな、いつまでも変わらない姿をもって、生者の夢のなかに現われてくる。ただし、体験される事実は、正確には、「ゆっくりと進む時間」「あの世の永遠」ではなく、死者が夢では年とらないままだということである。死者についての記憶は、死ぬときでストップして、その後の記憶更新がゼロにとどまるから、夢の材料としては、死ぬ時よりも前のものしか使えない。この記憶更新ゼロをもとにして、年とらないことになっているにすぎないといえば、身も蓋もないことになるが、それがあの世の不老不死の真実であろう。死者が永遠である原因は、あの世にではなく、この私(生者)のうちにあるということである。
 死者の永遠が、夢のなかでの勘違いにすぎないとすれば、かりに天国・地獄があったとしても、時間的な展開について、この世と異なるとするにはおよばないという話になっても、それはそれで、通用することになる。あの世も、そこでの異時間も、実証されているわけではない。この世との行き来をいう話であれば、時間的な差異のはいらない方がわかりやすい面もある。天国が雲のうえにある程度の遠さの、時空もこの世と共用の身近な世界とみなされている昔話も結構ある。
 天国(極楽)や地獄の、この世との距離・近さということでは、地獄は、よほどこの世に近い。快・楽(子供誕生の喜びなど)は、すぐ消えるが、不快・苦痛(子供を失った悲しみなど)は、いつまでも続くのがこの世である。この世は、「苦界」といわれることがあるように苦しみの世界で、生き地獄を味わうひとも少なくない。という点からいうと、地獄にいっているはずの知人たちは、一見、天国にいった者と同じく、死んだ時から年取らず現れるとしても、厳密にいえば、地獄は、この有限な現世に近いから、時間もこの世と天国の永遠との違いほどではないと想定してもよかろう。つまり、地獄には、それなりの時間があり、この世より多くの苦難を背負わされる世界としては、たっぷりと苦痛を味わうという点で、この世(苦界)と時間は違わないか、遅々として進まない時間ということが想像されてよい。
 おそらく、現代人の多くは、因果応報ということからは、これだけ堕落した世界の中で生きている以上は、地獄へいくこと必定である。その、地獄にいったと思われる人たちも、天国に行ったひとと同じように、夢には、死ぬまでの姿で現れる。そのことを踏まえてであろう、古来、地獄もまたゆっくりと時間が流れると想像してきた。この地獄の時間は、たっぷりと苦痛を味わう時間になるから、遅々として進まない時間ということになる。ただし、この世での悪事は、殺人から魚の刺身を食べただけのものまでがあり、罪の軽重には雲泥の差がある。これを踏まえたものを地獄では味わうべきということで、軽い刑罰の地獄から重いものまでが想像された。それを時間にまで及ぼして、軽く罪をつぐなうだけの軽犯罪的なものなら、時間もさっと過ぎる地獄世界を設定し、重罪の償いには、時間もたっぷりとかけて長々と苦痛を味わうように、時間は遅々として進まないものにと想定されることになった。天国・極楽は、時間があるとすると、極上の楽を味わう時間として、上等の世界になるほど、時間はゆっくりとなるはずであり、地獄は、重罪になるほど、下等の世界になるほど、やはり、たっぷりと苦痛を味わってもらうために、時間はのろのろとゆっくりと進んでいると想定された。 
 死者については、死んでからは記憶の更新がないから、死んだ時までの記憶した材料をもって夢見るので、年取らない。その夢で同窓会の写真をとったら、生者は、みんな老人で写っているのに、地獄に(あるいは、お人好しで、ひとに生を譲って天国に)行った死者は、若いまま写っている。そしてよく見ると、生きているだろうと思われるが、長い間会っていない生者が、死んだ者と並んで若い姿に留まっているのを発見することになる。相当以前に会っただけで、以後会っていない者を夢にみるときも、あるいは夢でなくても、想像するということでも、同様に年取らないままに現れることになろう。引っ越ししてから20年経っておれば、もとの土地の人は、音信不通にとどまっていた場合、その20年前までの記憶しかなく、以後は、記憶更新ゼロだから、その20年前のままで夢に現れることになる(夢見るのがむずかしければ、想起してみるだけでもよい。20年前以降の姿では想起などできない)。天国・地獄に行った者のみが年取らないという特権をもっているのではない。会うことができない生者も、年取らない、取れないままに夢に現れる。記憶更新がなければ、その後の年はとらないということが核心である。あの世にいったひとは、天国であろうと地獄であろうと、当然そうなるし、長い間あっていない生者も、記憶更新ゼロであれば、あの世にいった人と同様に、若いままの姿で夢や覚醒時の想起に現れる。小学校卒業以後会うことなく、老人になったとき、その同級生に夢で再会したとすると、当時の幼い姿のままで現れるはずである。

死者の不老からあの世を永遠と判断する

2020年07月03日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【3-2.死者の不老からあの世を永遠と判断する】あの世という異世界がどうなっているかだが、行ってみれば、つまり、死んでみれば、即判明する。だが、生きている者たちは、ふつうには行きたくはないところだし、行ったものは、生身のままでは帰ってこられないから、確かなことは、分からない。だが、多くのひとの経験するひとつのことから推量すると、おそらくは、それは、永遠の世界であり、その時間は、あるとしたら、超スローに動いているものと想像される。時に死者があの世からこの世界へと生者に会いにもどってくることがあり、その様相から永遠が垣間見えるのである。それは、夢においてである。夢に死者は、ときどき出てくるわけだが、死んでから何年たっても年をとらない。この世に残っている者は、みんな、時とともに年取っていく。だが、夢に現れる死者の場合、いつまでも、歳をとる様子が見えないのである。その夢の中で同窓会の写真をとったら、生者は、皆老人になって写っているのに、死者は、死んだ若い時の姿のままに写っていることになる。あの世は、時間が動かないか、動くとしても、この世では測れないほどにゆっくり動いていると見なさなくてはならなくなる。   
 夢は、自由な想像の世界のできごとではない。古くは、おそらく、もうひとつの現実だった。いまでも、不吉な夢を見たら、それは単なる夢空事としておけず、現実的な気がかりをいだくことがある。かつては、もっと夢は尊重されていて、お金を貸した夢をみたら、返却期日には、ちゃんと返してもらいにいき、相手もそのことに「そうだったのか」と応じるようなことがあった(かしこい人は、もちろん、夢の中で返した)。そういう現実的な夢に、死者は、いつまでも変わらない姿で、あの世にいったときの若さのままで現れてくる。ということであれば、あの世では、時間的展開はないか、きわめてゆっくりしていると推量するのが自然となる。
 結婚式の途中で死んで、あの世にいった花婿が、死んで30年ぐらいたって、花嫁の夢の中に帰ってきたとしたら、その花婿は、30年まえの若さのままで現れることであろう。おばあさんになりつつある花嫁は、目の前に、青年の、まるでわが息子のような花婿が現れてくるのを見て、「まるで歳とっていない」「あのときと全然変わってない」と仰天し、天国の無時間・永遠性を感得することになろう。自分の30年の時間と、花婿の30年前のままのギャップに、時間展開の奇怪さを感じさせられることになる。こういう体験は、ごくふつうのことであって、でたらめな作り話ではない。死んで以後の記憶更新はゼロにとどまるのだから、いつ想起し夢見ても死ぬ前の記憶を手掛かりにし、その記憶を素材として夢に見るから、死ぬ前に留まっていて、年取らないように思えてくる。むしろ、その花婿が、同じように年とって帰ってきたとしたら、それこそがでたらめな作り話だといわれねばならない。体験に見合う、つまり真実の話においては、やはり、永遠の国へいった者は、年とることなく、永遠に若いままで(夢のなかに)帰ってくるのである。
 あの世の存在の確かさと時間がこの世と異なることは、かなり本気でそう思われていたもののようである。よぼよぼになって死んだ者は、あの世に生まれ変わってもよぼよぼで苦しみつづけながら夢に帰ってくるので、元気であの世に再生するためには、エジプトのツタンカーメン王のように、若いときに、元気なうちに死なねばならないというようなことがあった。今と違って、老人になっての自然死はよいことではなく、若い元気な姿のままでの死が求められた。元気では死ねなかったとしても元気な格好をさせてあの世に送りだすことが、つまりは、死体を勇者らしく葬送することにして、わざわざ、死体に戦士らしく弓矢をつきさして葬るようなことがあったともいう。これを見とどけた者たちの夢には、死者は、そういう勇ましい姿でよみがえってきたはずである。
 命をささげてもよいとするだけの大きな価値をもったものとして、この世を超越した神の世界がどこの民族にも想定されていた。あの世を本拠地にする神々にささげられて尊い犠牲になった者たちは、そういう姿でいつまでも年取ることなく夢によみがえってきて、あの世の永遠を確信させることになったであろう。子供の姿の天使の類いは、おそらくその原型は、幼いときに殺されて神にささげられたものが、そのままの姿で永遠に無垢のこどもの姿で現れていたことによる。(羊を生け贄にするのと同じ方法でアブラハムが息子のイサクを神にささげようとしたように)わが子を神にささげたひとたちには、夢に出てくるその子供は、自分たちが年取るのに、少しも年取らないで現れてくる。永遠の国で、神の使い、幼い天使として生き生きとしているのを、時に涙をもって、時に諦念と安らぎの気持ちをもって見続けることになった。 

あの世での生は、永遠とみなされる

2020年06月23日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
3.永遠の国(天国と地獄) 
【3-1.あの世での生は、永遠とみなされる】昔話(メルヘン)では、この世界と端的に異なる世界、しかも時間のあり方までが異なる世界といえば、浦島太郎の話のような実在的な異世界に関わってのものとともに、死者のいく霊的な世界にかかわってのものがよく語られる。後者の代表は、「永遠」の「あの世」の体験というものになろう。あの世は、この無常の有為転変の世界とちがって常世の永遠のもとにあり、その時間があるとすると、非常にゆっくりと、我々には感知できないぐらいスローテンポで展開するものと考えられるのが普通である。  
 キリスト教世界での、「永遠の国へ行った花婿」の話は、あの世の永遠、あるいはあの世の時間が超スローであることを垣間見せてくれている。それは、結婚式の途中のことだった。花婿のまえに、死んだ友人が現れて、ほんの30分ほど、彼は、天国へとさそわれて行ってみることになった。だが、帰ってみたら、30分どころか、もう100年もこの世では経っていたという(山室静『新編世界むかし話集2 ドイツ・スイス編』 社会思想社 1981年 「永遠の国へ行った花婿」 参照)。
 他方では、天国へいってきても、時間は、この世界と同じで、同じ速度、同じ時間経過をもって展開するというのもある。グリムの「天国のからざお Der Dreschflegel von Himmel」(KHM112)によると、かぶらの種から芽が出て大きくなり巨大な幹となりそれが天までとどき、これをのぼっていった百姓は、天国にあった「つるはし」などをもって、もどってくる。が、穴におちてしまい、そのつるはしで階段をつくって地上にでられた、という話である。ここでは、天国とこの世との時間的差異などなかったかのようである。
 あの世の時間がこの世と異なるのか同じなのかは、実際のところは、分からない。第一、あの世自体があるのかどうかということもある。しかし、あの世があると前提した場合、天国でも極楽でも、生は永遠で、時間があるとしてもごくゆっくり過ぎるとの理解は、昔話がかたるのみではなく、宗教界での一般的な理解でもある。極楽は不老不死の世界で、想定される時間は、極めてゆっくりと動くものと見なされている。常世としてのあの世と、無常のこの世である。
 民間信仰の神祇や身近な神の使いの蛇やきつねが死なずに永遠の生を見せるのは、これをまつるひとびとが時間設定を怠って、いうなら時間的には無(無記述)になっているのを、時間的展開(老化等)ゼロと錯覚していることに起因する。あるいは、古池の主の大蛇が、殺されたはずなのに、不死身でよみがえっていると思うのは、本当は死んで別の蛇と入れ替わっているのに、細長い奇怪な蛇というだけのことしか見ておらず、違いを見ないで、違いが分からないから、つまり、認識にルーズだから不死になっているだけのことである。常陸坊とか柿右衛門とかが、初代から何百年経っていても同じ名前なので、彼らがずっと生きていると錯覚するようなものである。
 単に消極的に時間設定にルーズだから時間経過がなく不死というのではなく、時間自体がないのが神の世界だという考え方をすることもある。この有限な人間界が有限なのは時間のうちでの存在だからで、その時間という無常の世界を超越した恒常・恒久のものが、永遠が神の世界だということである。超越神の世界にいう超越性の一端は、時間という有限の世界を超えたところに、無限に、永遠に見出される。時間そのもののないのが絶対神のあの世なのだとするが、それは民間信仰の神祇や霊獣が抽象的で時間をもって描くことにルーズだから不死になっているのと同じく、その時間超越は、この世的な時間が拒否・否定されているだけで、実証されている話ではない。今浦島の異時間感覚は、錯覚でも実際の、だれでものに可能な体験である。だが、絶対神の時間の超越自体は、その神の有と同様に、その時間の無も、そう想定・希求されているだけであって証明されているわけではない。

未来の時間に、浦島的な異時間を語るのは難しかろう

2020年06月13日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【2-4.未来の時間に、浦島的な異時間を語るのは難しかろう】異時間体験を語る浦島のような昔話は、過去・現在・未来の時間について、過去と現在を問題にするが、未来は、語ることがない。時間の長さの感覚は、記憶を踏まえる。過去の記憶が抜け落ちているところでは、時間経過はゼロで、それと、記憶更新をつづけている時間とのギャップに二つの時間を感じて奇怪な浦島体験となった。この記憶という点からは、未来方向には、異時間感覚は成り立たない。記憶することで蓄積される時間は、まだないのだからである。未来は想像・予期をもってなりたつ。未来の時間は、なお、どこにもない。未だ来ていない時間である。一つもない時間についての二つの異なった時間という異時間体験など、成立しようがない。  
 しかし、陶潜『捜神後記』の桃源郷のように、空間重視で、時間については過去に固まったままで古い生き方をしている異境ということでは、異境・異世界を介して未来的なものを語ることがありうる。過去の古い時代のままに孤立し固定している異境の者、桃源郷の住人の方からいうと、そとの世界に踏み出していけば、自分たちの未来になるような先進的な世界を垣間見ることになるはずである。空間化された時間は、時間自体とちがって逆方向にも、つまり、彼我の世界は現に共に存在しているものとして、未来から過去へも過去から未来へも進みうる。 
 西洋の昔話(メルヘン)は、日本では、自分たちには未来になるような世界だったのではないか。豊かな王さま・おきさきさまのメルヘンは、貧しい日本の明治期からつい最近までの子供たちにとっては、夢のような世界であり、「むかし、あるところに」と語り始められたとしても、過去ではなく、その「あるところに」とは、欧米という自分たちの夢であり、ありたい未来ではなかったか。昔話(メルヘン)以上に、現実の社会そのものにおいて、欧米は自分たちの夢のような未来であった。日本から欧米に行くことは、未来の世界へと旅することであった。最近でも、アメリカにいき、郊外での大型店舗の隆盛をみて、自分たちの未来を見出し、帰ってから、そういうことへの先進的な投資をするといったことがあった。古い時代の遣隋使・遣唐使では、もっと大きな時代のギャップが感じられていたことであろう。隋や唐は、未来の国へと旅することであった。その帆船は、タイムマシンであった。帰りは、未来の国から後進的な祖国日本に向かうことであった。日本人にとって、この国の外は、異邦人の異世界は、過去の時代に留まっている世界ではなく、逆で、自分たちにとっては未来の異世界であることが多かった。未知の世界、異世界を見知ることは、過去方向ではなく、未来方向に見出されるものだったといえる。
 つい最近まで、庶民にとっては、都市と田舎のギャップは大きく、都会の者には、田舎は過去の世界にいくことであったし、田舎の者には、都会にいくことは、未来の国に行くことであった。田舎のいろりを囲んでの者には、ガスや電気での生活は、未来のことであった。桃源郷のひとたちが現代史の只中に入ることは、未来に飛躍することであったろう。ただし、そういう未来を望んだかどうかは、分からない。のんびりした時間のすぎる田舎の鼠と、時間に追われる都会の鼠のどちらがよりよい生であるのかは、好みの問題になろう。これまで主として歴史の時間は、田舎を都市化し、後進国も先進国化するという未来への展開をしてきた。だが、その(空間的な)未来は、時間そのものとちがい逆方向に動くことも可能である。豊かな自然に囲まれて生きるのんびりした過去風の田舎の方こそが、人間らしい生活になるかも知れない。田舎の生活水準が都市と同じになっているいまは、田舎の方がよいとする人も多くなっている。 
 異時間体験のなりたつ浦島的な時間は、記憶をもとにした過去・現在の時間である。だが、時間には未来がある。これは、既定の過去とちがい、なお未定で未だ来たらずの未来であり、記憶にかかわる異時間体験は存在しないが、想像によって成り立ち、未定のものとして、自分たちが自由に選択し切り開いていける時間・世界である。過去のことは、どんなに後悔しようとも、タイムマシンでもないと変えようがない。だが、未来は、そんな夢のマシンを使わなくても、万人、自分で思うように変えていける自由の時間である。浦島も、過去や現在に目を奪われず、いわゆる浦島体験は些事として放擲して、未来に生きることをしたならば、「たちまち太郎はおじいさん」とはならずに済んだことであろう。いくら失敗してもこれを過去に流して、未来は、希望をもって幾度でも自由に時間を展開させてくれるから、浦島も、みじめな最期は送らないで済んだ可能性が高い。老い先短いとしても、ともに生きている人たちの未来に託すものがあろうし、すぐ先に、あの世を、極楽も地獄も自由に、妄想たくましく描いていけることである。


懐かしさと奇怪さ

2020年06月03日 | 昔話の異時間・異世界-浦島太郎と山幸彦-
【2-3.懐かしさと奇怪さ】昔話類において、異境・異世界とこの現実世界を結ぶものとして、一方に、秘境・異境への空間的な移動と、しばしば、そこでの古い時代のままにとどまった生活を語ることをもってするものがあり、他方に、奇怪な異時間の存在をもってするものがある。『捜神後記』や山幸彦は前者、『幽明録』や浦島太郎は後者である。異時間の有無は、聞き手の現実世界とのかかわりということでは、親・疎のちがいを感じさせるものとなろう。奇怪な異時間など語らず、山中の奥深くに古い時代を残している秘境を見るという陶潜の桃源郷のようなものは、この世界と連続した世界で、素朴な昔のままの生活でなつかしさを感じさせ親しみをいだかせて聞き手を引き付ける。他方、浦島のような異時間をいう場合、異境・異世界の在り方がまるで異なり、奇怪なことで疎遠・疎隔の距離をもって好奇心を誘うものになろう。   
 陶潜の桃源郷は、古い時代をそのままに残している隔絶した世界であった。はるかな過去の時のままに時間が止まっているかのような客観的に存在する社会を語る。その古い時代の生の在り様を見出すことは、自分たちの過去を見出すことと重なり、懐かしさをいだかせる。かつて自分たちがそうしていたこととして、その古い生活様式に親しみを持ち心が引かれ、愛おしくも思う。
 ひとは、空間に生きるとともに常に時間のうちに生きている。その点では、時間を無視はできない。奇怪な浦島のような異時間は、身近な今浦島体験なども後押しして、世界の根本形式の時間が異常をきたしているということであれば、ひとは、その奇怪さに目を奪われざるを得なくなる。だが、陶潜の桃源郷の話では、異境にいくにもかかわらず、それは言わない。時間を無視するわけではない。どんな所でもどんな人でも、時間のもとに、その生き方に応じて色づけられた時間を生きる。それを陶潜は語る。古い時代のままに化石化したような穏やかな生活を続けている異境を語る。
 陶潜の桃源郷の時間のもとでは、古い時代に置き去りにされ隔絶して、以後の変化のない古い生き方をしていたということが中心の話題になるが、それは、また、都市の文明化したあわただしい生活の時間とは違う、時間感覚も異にする、素朴でのんびりとした穏やかな生活に重なり、心安らぐものを感じうる世界であろう。それは、桃源郷でなくても、都市から一歩はずれれば、つい最近まで、日本でも、感じられた。古い時代ののんびりした生が展開していた。都市のできた古代から、都市と農山漁村の、時間を含めた生き方のちがいは顕著であった。古代ギリシャのイソップ寓話に、町の鼠に招待された田舎の鼠の話がある。町では豊かな暮らしだが、あわただしくて落ち着きがない。田舎の鼠は、やはり、自然の素朴な生活の方がいいと、田舎に帰っていく。田舎では、物質的な豊かさには欠けるとしても、のんびりとした穏やかな時間がながれる。陶潜の桃源郷では、古い時代の時間のもとで、のんびりとしていて、おだやかな生の営みがあった。遠くに犬の声がし、小川のせせらぎも聞こえてくる。ひとの密集した都市生活は、豊かではあるが、落ち着きがない。時間に駆り立てられる生活でもある。その違いは、異境のゆったりした常世に近い時間と、身近な世界のあわただしく無常に動いていく時間の違いということに近似的であろうか。
 これに対して、異時間を語る浦島や『幽明録』などの場合は、住まうこの世界の根本形式の時間そのものが故郷と異境では異なるという。異時間によって自分の生きていた世界の見当識をゆさぶり、この世界を相対化しこれと異質の世界のあることを感じさせる。異時間がない陶潜の世界は、この実在の世界の連続的延長に、実在する異境を見るが、異時間をいうものは、時空間の見当識を失わせることで、この実在世界を超えて疎遠で自分たちの親しんできた時空間を疎外する奇怪な異界にと向かわせる。この世界にとっては疎遠な奇怪な世界であることを、時空という世界の根本形式のちがい、時間の異質をもって示す。そのことでひとの好奇の心を誘う。 
 もっとも、陶潜のような異世界も、懐かしさよりは、奇怪さを感じさせることもかつては多かったであろう。方言は通じないし、ましてや外国語となれば、これが同じ人類かとさえ感じ、得体の知れない奇怪な異民族・異世界と感じることもあったろう。生活様式も懐かしい素朴なものを残しているといっても、油断していると首狩り族の犠牲になることでもあった。不安・恐怖をよぶ奇怪なことに気づいていく羽目にもなったであろう。古い時代が懐かしさを感じさせるというのは、平和で合理的な生活にひたりきって、その視点のみから、穏やかな上っ面のみで過去も見る現代人の錯覚というべきかもしれない。ごく最近の昭和とか明治の文明開化の世界ですら、貧しい衣食住で命の軽んじられた悲惨な生活であった。昭和が懐かしいのは、その素朴な生活の背後に満ち満ちていた悲惨さ(母子はしばしば死に、青年は戦場で工場で若い命を奪われていた。どこが懐かしいのか)を忘却しているからにすぎない。陶潜桃源郷的な異世界が古いのんびりとした世界で懐かしさを感じさせることは確かであるが、その向こうには、あるいはその穏やかな表面の背後には、しばしば、奇習をもち部外者を受けつけない、おどろおどろしい世界が広がっていたのでもある。
 異時間をもって振り返る方は、二重に異世界を際立たせる。はじめは、陶潜「桃花源記」と同じように、怪しげな洞窟などの先に空間的に異世界を、『幽明録』でも見出す。かつ、もとの世界に帰るとき、異時間を語ることで、奇怪な異世界だったことを一層際立たせる。が、異時間の体験は誇大に語らないと驚きをうまないので、人生を遥かに超えるような長大な時間経過という誇張を必須とする。フィクションの世界ではあっても、虚偽をきらうものには、受け入れにくい面をもつ。
 浦島の場合は、帰ったときに限定しているが、かりに時間の速度がこの世界と異境で違うのであれば、竜宮・異世界へ行った時点でその異時間は作動しているのだから、それを語ることもある(異時間は単なる錯覚なのに、これを真実とし、しかも誇大にかたるのみでなく、異界・秘境では時間の速度が違っていたとかたるのは、陶潜的立場からいえば、うその上塗り、二重三重の虚偽となる)。常世の異境に入って、仙人のような老人たちが将棋をしているのを見ていて、ふと気が付いたら、自分のもってきていた杖や釣り竿が朽ちてぼろぼろになっていたり、乗ってきていた愛馬を振り返ってみたら骨だけになっていた等とかたる。主人公自身もそうなるはずであるが、それでは話が続かないので、それには目をつむって(沈黙による虚偽をもって)、話を進めることである。