【3-3.地獄なども、天国と似た時間をもつ】永遠かごくゆっくりとした時間というあり方は、天国とか極楽のみではなく、地獄もまたしばしばそう解される。地獄へいったに違いない自分たちの身近な悪人たちも、みんな、いつまでも変わらない姿をもって、生者の夢のなかに現われてくる。ただし、体験される事実は、正確には、「ゆっくりと進む時間」「あの世の永遠」ではなく、死者が夢では年とらないままだということである。死者についての記憶は、死ぬときでストップして、その後の記憶更新がゼロにとどまるから、夢の材料としては、死ぬ時よりも前のものしか使えない。この記憶更新ゼロをもとにして、年とらないことになっているにすぎないといえば、身も蓋もないことになるが、それがあの世の不老不死の真実であろう。死者が永遠である原因は、あの世にではなく、この私(生者)のうちにあるということである。
死者の永遠が、夢のなかでの勘違いにすぎないとすれば、かりに天国・地獄があったとしても、時間的な展開について、この世と異なるとするにはおよばないという話になっても、それはそれで、通用することになる。あの世も、そこでの異時間も、実証されているわけではない。この世との行き来をいう話であれば、時間的な差異のはいらない方がわかりやすい面もある。天国が雲のうえにある程度の遠さの、時空もこの世と共用の身近な世界とみなされている昔話も結構ある。
天国(極楽)や地獄の、この世との距離・近さということでは、地獄は、よほどこの世に近い。快・楽(子供誕生の喜びなど)は、すぐ消えるが、不快・苦痛(子供を失った悲しみなど)は、いつまでも続くのがこの世である。この世は、「苦界」といわれることがあるように苦しみの世界で、生き地獄を味わうひとも少なくない。という点からいうと、地獄にいっているはずの知人たちは、一見、天国にいった者と同じく、死んだ時から年取らず現れるとしても、厳密にいえば、地獄は、この有限な現世に近いから、時間もこの世と天国の永遠との違いほどではないと想定してもよかろう。つまり、地獄には、それなりの時間があり、この世より多くの苦難を背負わされる世界としては、たっぷりと苦痛を味わうという点で、この世(苦界)と時間は違わないか、遅々として進まない時間ということが想像されてよい。
おそらく、現代人の多くは、因果応報ということからは、これだけ堕落した世界の中で生きている以上は、地獄へいくこと必定である。その、地獄にいったと思われる人たちも、天国に行ったひとと同じように、夢には、死ぬまでの姿で現れる。そのことを踏まえてであろう、古来、地獄もまたゆっくりと時間が流れると想像してきた。この地獄の時間は、たっぷりと苦痛を味わう時間になるから、遅々として進まない時間ということになる。ただし、この世での悪事は、殺人から魚の刺身を食べただけのものまでがあり、罪の軽重には雲泥の差がある。これを踏まえたものを地獄では味わうべきということで、軽い刑罰の地獄から重いものまでが想像された。それを時間にまで及ぼして、軽く罪をつぐなうだけの軽犯罪的なものなら、時間もさっと過ぎる地獄世界を設定し、重罪の償いには、時間もたっぷりとかけて長々と苦痛を味わうように、時間は遅々として進まないものにと想定されることになった。天国・極楽は、時間があるとすると、極上の楽を味わう時間として、上等の世界になるほど、時間はゆっくりとなるはずであり、地獄は、重罪になるほど、下等の世界になるほど、やはり、たっぷりと苦痛を味わってもらうために、時間はのろのろとゆっくりと進んでいると想定された。
死者については、死んでからは記憶の更新がないから、死んだ時までの記憶した材料をもって夢見るので、年取らない。その夢で同窓会の写真をとったら、生者は、みんな老人で写っているのに、地獄に(あるいは、お人好しで、ひとに生を譲って天国に)行った死者は、若いまま写っている。そしてよく見ると、生きているだろうと思われるが、長い間会っていない生者が、死んだ者と並んで若い姿に留まっているのを発見することになる。相当以前に会っただけで、以後会っていない者を夢にみるときも、あるいは夢でなくても、想像するということでも、同様に年取らないままに現れることになろう。引っ越ししてから20年経っておれば、もとの土地の人は、音信不通にとどまっていた場合、その20年前までの記憶しかなく、以後は、記憶更新ゼロだから、その20年前のままで夢に現れることになる(夢見るのがむずかしければ、想起してみるだけでもよい。20年前以降の姿では想起などできない)。天国・地獄に行った者のみが年取らないという特権をもっているのではない。会うことができない生者も、年取らない、取れないままに夢に現れる。記憶更新がなければ、その後の年はとらないということが核心である。あの世にいったひとは、天国であろうと地獄であろうと、当然そうなるし、長い間あっていない生者も、記憶更新ゼロであれば、あの世にいった人と同様に、若いままの姿で夢や覚醒時の想起に現れる。小学校卒業以後会うことなく、老人になったとき、その同級生に夢で再会したとすると、当時の幼い姿のままで現れるはずである。
死者の永遠が、夢のなかでの勘違いにすぎないとすれば、かりに天国・地獄があったとしても、時間的な展開について、この世と異なるとするにはおよばないという話になっても、それはそれで、通用することになる。あの世も、そこでの異時間も、実証されているわけではない。この世との行き来をいう話であれば、時間的な差異のはいらない方がわかりやすい面もある。天国が雲のうえにある程度の遠さの、時空もこの世と共用の身近な世界とみなされている昔話も結構ある。
天国(極楽)や地獄の、この世との距離・近さということでは、地獄は、よほどこの世に近い。快・楽(子供誕生の喜びなど)は、すぐ消えるが、不快・苦痛(子供を失った悲しみなど)は、いつまでも続くのがこの世である。この世は、「苦界」といわれることがあるように苦しみの世界で、生き地獄を味わうひとも少なくない。という点からいうと、地獄にいっているはずの知人たちは、一見、天国にいった者と同じく、死んだ時から年取らず現れるとしても、厳密にいえば、地獄は、この有限な現世に近いから、時間もこの世と天国の永遠との違いほどではないと想定してもよかろう。つまり、地獄には、それなりの時間があり、この世より多くの苦難を背負わされる世界としては、たっぷりと苦痛を味わうという点で、この世(苦界)と時間は違わないか、遅々として進まない時間ということが想像されてよい。
おそらく、現代人の多くは、因果応報ということからは、これだけ堕落した世界の中で生きている以上は、地獄へいくこと必定である。その、地獄にいったと思われる人たちも、天国に行ったひとと同じように、夢には、死ぬまでの姿で現れる。そのことを踏まえてであろう、古来、地獄もまたゆっくりと時間が流れると想像してきた。この地獄の時間は、たっぷりと苦痛を味わう時間になるから、遅々として進まない時間ということになる。ただし、この世での悪事は、殺人から魚の刺身を食べただけのものまでがあり、罪の軽重には雲泥の差がある。これを踏まえたものを地獄では味わうべきということで、軽い刑罰の地獄から重いものまでが想像された。それを時間にまで及ぼして、軽く罪をつぐなうだけの軽犯罪的なものなら、時間もさっと過ぎる地獄世界を設定し、重罪の償いには、時間もたっぷりとかけて長々と苦痛を味わうように、時間は遅々として進まないものにと想定されることになった。天国・極楽は、時間があるとすると、極上の楽を味わう時間として、上等の世界になるほど、時間はゆっくりとなるはずであり、地獄は、重罪になるほど、下等の世界になるほど、やはり、たっぷりと苦痛を味わってもらうために、時間はのろのろとゆっくりと進んでいると想定された。
死者については、死んでからは記憶の更新がないから、死んだ時までの記憶した材料をもって夢見るので、年取らない。その夢で同窓会の写真をとったら、生者は、みんな老人で写っているのに、地獄に(あるいは、お人好しで、ひとに生を譲って天国に)行った死者は、若いまま写っている。そしてよく見ると、生きているだろうと思われるが、長い間会っていない生者が、死んだ者と並んで若い姿に留まっているのを発見することになる。相当以前に会っただけで、以後会っていない者を夢にみるときも、あるいは夢でなくても、想像するということでも、同様に年取らないままに現れることになろう。引っ越ししてから20年経っておれば、もとの土地の人は、音信不通にとどまっていた場合、その20年前までの記憶しかなく、以後は、記憶更新ゼロだから、その20年前のままで夢に現れることになる(夢見るのがむずかしければ、想起してみるだけでもよい。20年前以降の姿では想起などできない)。天国・地獄に行った者のみが年取らないという特権をもっているのではない。会うことができない生者も、年取らない、取れないままに夢に現れる。記憶更新がなければ、その後の年はとらないということが核心である。あの世にいったひとは、天国であろうと地獄であろうと、当然そうなるし、長い間あっていない生者も、記憶更新ゼロであれば、あの世にいった人と同様に、若いままの姿で夢や覚醒時の想起に現れる。小学校卒業以後会うことなく、老人になったとき、その同級生に夢で再会したとすると、当時の幼い姿のままで現れるはずである。