3-7-3. 苦痛は、快で中和できるが、持続の点で難がある
苦痛があっても、これに並行して別の快楽が生じれば、その苦痛は軽くなる。悲痛に打ち沈み小さくなっていても、同時に別のことで歓喜するとしたら、歓喜では大きく胸を張ることになるから、縮こまる悲痛は、その間相殺されることになろう。あるいは、脳内において、快と不快との相対立する作用をするホルモン類が分泌されて、両者は脳内で相殺しあうこともあろう。
どの苦痛(不快)系の感情も、ながく持続することが多いが、快は、すぐに消滅する。苦痛は、損傷発生を語るのだから、それからの回復のなるまで注視が必要で長く持続しなくてはならない。だが、快は、事がうまくいったという褒美であり、これは長く続いたのでは、それにのめり込み不注意状態を続けることになるから、短時間で終わるのが理にかなっており、そのようになっている。価値喪失に抱く苦痛の悲しみは、その喪失の解消のなるまで続く。損したことは忘れない、いじめられた者は、仕返しのできるまでいつまでもこれを覚えている。だが、喜びは、価値獲得がなったということであるから、勝利のエネルギーの余剰分を出したら、それで終わりであり、すぐに忘れる。いじめた者は、いじめを覚えていることは少ない。その点からいうと、快苦の相殺は、簡単にはいかないかも知れない。苦痛は、長くつづくから、これを抑えるに快をもってするとしたら、種々に快を反復して与えなくてはならないことになる。
どんな感情でも、ふつう、快は短く、不快は長い。身体反応として対立的になるから相殺しあうとしても、不快・苦痛は持続するのに対して、快は短期に終わり、その中和は、一時的なものに終わる。愛しい子供を亡くした親は、おそらく、死ぬまで悲しみを持続させることであろう。逆の喜びでこれを中和し慰撫するには、喜びの快感情は、価値獲得の瞬時といってもいいぐらいの短期になるから、重ねて快となるものが必要となり、困難極まりないことになる。幸い、ほかのどんな快でも、快として悲しみの苦痛をなぐさめうるから、長く簡単に得られる快をもって悲しみの苦痛を中和することになる。子供なら飴玉を与えれば、長く快が続くから好都合であろう。よく見られるのが、酒で憂さを忘れるというやり方である。それでも、酩酊の快は何時間か続くだけだから、醒めると、場合によると一層の悲哀状態を再開することにもなりかねない。
快適な感情のもとにある者は、それで充実しているのであり、これを不快で中和して無化する必要などない。要は、不快・苦痛に囚われている者をなぐさめるために、快をどこかから仕入れてきて苦痛を若干でも小さくすることである。しかし、快は瞬時に消えるのが普通だから、苦痛の人を反対の感情をもって慰めるのは、困難である。悲嘆している者を慰撫し気力を回復させるには、反対の感情をもってくるだけでは、無理があるということになろう。悲しみの感情を中和し無化するには、快の感情をあてがうより、何といっても、悲しみの原因となった価値を回復して、喪失をゼロにすることであろう。傷の痛みをなくするには、飴を与えるより、傷を治すのが一番である。
苦痛があっても、これに並行して別の快楽が生じれば、その苦痛は軽くなる。悲痛に打ち沈み小さくなっていても、同時に別のことで歓喜するとしたら、歓喜では大きく胸を張ることになるから、縮こまる悲痛は、その間相殺されることになろう。あるいは、脳内において、快と不快との相対立する作用をするホルモン類が分泌されて、両者は脳内で相殺しあうこともあろう。
どの苦痛(不快)系の感情も、ながく持続することが多いが、快は、すぐに消滅する。苦痛は、損傷発生を語るのだから、それからの回復のなるまで注視が必要で長く持続しなくてはならない。だが、快は、事がうまくいったという褒美であり、これは長く続いたのでは、それにのめり込み不注意状態を続けることになるから、短時間で終わるのが理にかなっており、そのようになっている。価値喪失に抱く苦痛の悲しみは、その喪失の解消のなるまで続く。損したことは忘れない、いじめられた者は、仕返しのできるまでいつまでもこれを覚えている。だが、喜びは、価値獲得がなったということであるから、勝利のエネルギーの余剰分を出したら、それで終わりであり、すぐに忘れる。いじめた者は、いじめを覚えていることは少ない。その点からいうと、快苦の相殺は、簡単にはいかないかも知れない。苦痛は、長くつづくから、これを抑えるに快をもってするとしたら、種々に快を反復して与えなくてはならないことになる。
どんな感情でも、ふつう、快は短く、不快は長い。身体反応として対立的になるから相殺しあうとしても、不快・苦痛は持続するのに対して、快は短期に終わり、その中和は、一時的なものに終わる。愛しい子供を亡くした親は、おそらく、死ぬまで悲しみを持続させることであろう。逆の喜びでこれを中和し慰撫するには、喜びの快感情は、価値獲得の瞬時といってもいいぐらいの短期になるから、重ねて快となるものが必要となり、困難極まりないことになる。幸い、ほかのどんな快でも、快として悲しみの苦痛をなぐさめうるから、長く簡単に得られる快をもって悲しみの苦痛を中和することになる。子供なら飴玉を与えれば、長く快が続くから好都合であろう。よく見られるのが、酒で憂さを忘れるというやり方である。それでも、酩酊の快は何時間か続くだけだから、醒めると、場合によると一層の悲哀状態を再開することにもなりかねない。
快適な感情のもとにある者は、それで充実しているのであり、これを不快で中和して無化する必要などない。要は、不快・苦痛に囚われている者をなぐさめるために、快をどこかから仕入れてきて苦痛を若干でも小さくすることである。しかし、快は瞬時に消えるのが普通だから、苦痛の人を反対の感情をもって慰めるのは、困難である。悲嘆している者を慰撫し気力を回復させるには、反対の感情をもってくるだけでは、無理があるということになろう。悲しみの感情を中和し無化するには、快の感情をあてがうより、何といっても、悲しみの原因となった価値を回復して、喪失をゼロにすることであろう。傷の痛みをなくするには、飴を与えるより、傷を治すのが一番である。