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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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苦痛は、快で中和できるが、持続の点で難がある

2024年01月23日 | 苦痛の価値論
3-7-3. 苦痛は、快で中和できるが、持続の点で難がある   
 苦痛があっても、これに並行して別の快楽が生じれば、その苦痛は軽くなる。悲痛に打ち沈み小さくなっていても、同時に別のことで歓喜するとしたら、歓喜では大きく胸を張ることになるから、縮こまる悲痛は、その間相殺されることになろう。あるいは、脳内において、快と不快との相対立する作用をするホルモン類が分泌されて、両者は脳内で相殺しあうこともあろう。
 どの苦痛(不快)系の感情も、ながく持続することが多いが、快は、すぐに消滅する。苦痛は、損傷発生を語るのだから、それからの回復のなるまで注視が必要で長く持続しなくてはならない。だが、快は、事がうまくいったという褒美であり、これは長く続いたのでは、それにのめり込み不注意状態を続けることになるから、短時間で終わるのが理にかなっており、そのようになっている。価値喪失に抱く苦痛の悲しみは、その喪失の解消のなるまで続く。損したことは忘れない、いじめられた者は、仕返しのできるまでいつまでもこれを覚えている。だが、喜びは、価値獲得がなったということであるから、勝利のエネルギーの余剰分を出したら、それで終わりであり、すぐに忘れる。いじめた者は、いじめを覚えていることは少ない。その点からいうと、快苦の相殺は、簡単にはいかないかも知れない。苦痛は、長くつづくから、これを抑えるに快をもってするとしたら、種々に快を反復して与えなくてはならないことになる。
 どんな感情でも、ふつう、快は短く、不快は長い。身体反応として対立的になるから相殺しあうとしても、不快・苦痛は持続するのに対して、快は短期に終わり、その中和は、一時的なものに終わる。愛しい子供を亡くした親は、おそらく、死ぬまで悲しみを持続させることであろう。逆の喜びでこれを中和し慰撫するには、喜びの快感情は、価値獲得の瞬時といってもいいぐらいの短期になるから、重ねて快となるものが必要となり、困難極まりないことになる。幸い、ほかのどんな快でも、快として悲しみの苦痛をなぐさめうるから、長く簡単に得られる快をもって悲しみの苦痛を中和することになる。子供なら飴玉を与えれば、長く快が続くから好都合であろう。よく見られるのが、酒で憂さを忘れるというやり方である。それでも、酩酊の快は何時間か続くだけだから、醒めると、場合によると一層の悲哀状態を再開することにもなりかねない。
 快適な感情のもとにある者は、それで充実しているのであり、これを不快で中和して無化する必要などない。要は、不快・苦痛に囚われている者をなぐさめるために、快をどこかから仕入れてきて苦痛を若干でも小さくすることである。しかし、快は瞬時に消えるのが普通だから、苦痛の人を反対の感情をもって慰めるのは、困難である。悲嘆している者を慰撫し気力を回復させるには、反対の感情をもってくるだけでは、無理があるということになろう。悲しみの感情を中和し無化するには、快の感情をあてがうより、何といっても、悲しみの原因となった価値を回復して、喪失をゼロにすることであろう。傷の痛みをなくするには、飴を与えるより、傷を治すのが一番である。

異質で比較困難な快不快を、量化して比較する

2024年01月16日 | 苦痛の価値論
3-7-2-1. 異質で比較困難な快不快を、量化して比較する 
 快不快は、それを受けとる主観において、比較可能な量に還元して取り扱われる。どんな快も、食の快(美味)も数学の難問を解いての痛快さも、同じ主観における魅了され惹かれる快としては同じである。快楽となる脳内のホルモン分泌をして、心身を同じように弛緩・伸張させて快にと同質化される。同質のものとして量化されうる。快不快の諸感情のうち一つを選択するとしたら、それらを快不快のプラスとマイナスの量のちがいによって比較し、より小さな不快(苦痛)、より大きい快となるものを選択することになる。 
 感情は、かならず身体反応をもつ。これがない場合は、単に感覚であったり知的営為にとどまり感情にはならない。悲しみは、価値喪失という解釈(知)をもってはじまるが、感情となるのは、身体反応をもって萎縮し体温を下げ、目に涙を出すようなことがあってである。怒りでも、気障りと判断するだけでは怒りにはならない。筋肉が活発に動けるように血圧をあげ身体を緊張させ攻撃的反応をもってはじめて怒りの感情となる。その身体反応としては、どんな感情も快か不快か(弛緩・伸張か緊張・萎縮か)に同質化し量的にとらえることが可能である。美味の食べ物の快感情と怒りの不快感情というまるで異質の無関係の感情でも、快不快の心身反応をもつ感情に還元して、比較可能となる。
 もちろん、その快不快の量的差異は、その出来事の質やかけがえのなさなどといった価値を無視してなりなっているものである。本来、その各営為の本質、その固有性を大切にしている人間的生であるが、物の交換とか償いなどにおいては、異質のものを比較可能にする必要があり、これを等質化し量化することが行われる。同じ人間の営為として、償いでは同じものを返してほしいということがある。それが自然感性のレベルで計算される場合、すべてが快不快に還元可能であるから、快と不快の量的計算をもって行われることになる。相手に過失で打撲の苦痛(不快)を与えたのなら、相手に殴打してもらう同質の償いもありうるが、それでは痛み・損傷を二倍にするだけだから、多くは、それに相当する量の快となるお菓子などをもって償って帳消しにする。質を無視して量化した快不快に還元しての計算が行われる。ただし、快は多くの場合瞬時に終わり、苦痛は長く続くから、量的な比較・計算は、単純にその持続時間に還元はできない。かつ、同じ快でも、飴の快と、賛美された嬉しさの快は、希少性とか高貴さとかの質的違いをふまえた上での総合点としての快の量となろうから、快不快の計算は直観的にはスムースだとしても、厳密に分別して計算するのは意外とむずかしいかも知れない。
 しかも、快不快の計算で動くのは多くの場合、自然感性の世界になる。精神世界では、快不快は些事にとどまる。真実の価値は、快不快では決まらない。13より12の方が快だとしても(したがってそういう数入ったお菓子の袋を選択するときには、13の不吉不快を大きく感じて12個しか入ってない方を選ぶとしても)、6+7では、12をとることはできず、不快でも13にしなくてはならない。契約したことは、どんなに不快であってもこれを甘受して履行しなくてはならない。身近な自然的感性的生活レベルでは、しばしば快不快に還元しての量的計算をしているけれども、理性的合理的に動く社会生活においては、快不快は、無視しうる些事にとどまることが多い。

快・不快(苦痛)は、重なることで加算・減算がなる 

2024年01月09日 | 苦痛の価値論
3-7-2. 快・不快(苦痛)は、重なることで加算・減算がなる 
 快・不快は、感じる主体に同時的に現れることがある。生の同レベルの層においてはもちろん、生理的レベルの快楽と精神的な苦痛といったものの並存状態になることもある。葬儀という悲痛の状態で、美味しい会食をし、久しぶりの友人や親せきと話をはずませることがある。それを感じるとき、それらの快不快を無関係に並列させておくこともあるが、多くの場合、それら快不快は影響しあうものとなる。どんな御馳走であっても、悲痛の葬儀の場においては、悲しみによって美味の快は小さめになる。逆に、その御馳走は、その悲しみを若干はなぐさめてくれる。 
 感情は、身体の表現をもつ。というより、身体的反応があるからこそ、単なる感覚、思いでなく、感情となるのである。悲しいから涙するのではなく、涙するから悲しくなるのだと言われるぐらいである。身体はひとつであるから、複数の快・不快の感情が並存するところでは、相対立する反応が生じれば、相殺しあうことになる。悲しみで身体が萎縮・緊張し無力状態になっているとき、反対の喜びが生じたら喜びの身体表現の伸張・弛緩、充実感をもつことになり、悲しみの反応と相殺しあうことになる。高貴な精神的な快も快感情としては身体反応をもち、弛緩・伸張の反応をもつ。味覚や皮膚感覚におけるものでも、快なら、弛緩する身体反応になる。逆に、不快も、精神的不快の絶望・悲嘆では、感情ということでの身体は、緊張・萎縮する。皮膚の生理的な不快・苦痛も、萎縮・緊張する。ということで、あらゆる感情は身体反応をともない、快は弛緩・伸張、不快は緊張・萎縮反応をもつから、不快系列の感情は、どんな快系列の感情とも、相殺しあうことになる。とともに、反対の感情は、相互をそれとして際立たせあうことにもなる。寒さの外気と室内の暖かさを感じあうような体験では、相互の快不快を強く感じることである。
 快系列の複数の快(食の快と会話の快など)があれば、快は大きくなる。美味を味わうことで快となり笑顔となる。さらに会話の楽しさの快が加わり、一層快適な笑顔になる。精神的に楽しい会食の場合は、食の味わい自体も、それが美味なら一層美味と感じられることになる。精神的に楽しさの快で弛緩・伸張しているのに加えて、美味の快が身体を一層弛緩・伸張させる。快の加算である。逆に、苦痛・不快とは、同様に、プラスの快からのマイナスの不快の差し引き計算となるであろう。相互に減殺・相殺しあうことになる。

怒りや驚きと、その反対の感情

2024年01月02日 | 苦痛の価値論
3-7-1-3. 怒りや驚きと、その反対の感情 
 各種の快と不快(苦)は、ペア(対)になるが、皮膚の痛みの場合、その反対の快は、無といってもよかった。その点では、悲しみや絶望などの対(喜び、希望)は、しっかりと感じられて、痛みの無とは相当に異なる。痛みとその無のペアに似たものとしては、それらよりは、怒りという不快と、それのおさまった穏やかさ・無を挙げる方が、よいかも知れない。皮膚の苦痛はその反対の無を想定しないように、怒りは、それらのおさまった心のさわやかさ、穏やかさを想起するだけで、普通には、積極的に反対の行動となる愛などをペアとして想定しない。希望といえば即絶望、喜びといえば即悲しみのような相即の対立関係はもたず、怒りは、皮膚の痛みと同様に、単独に存在する感情となることが多いように思うが、どうであろう。
 喜・悲では、価値物を得るのか失うのか、プラスかマイナスかということで、両者はしばしば並ぶ。だが、怒りは、普通の場合、一方的に攻撃することでその単独の感情で終わる。怒りでは、相手に、恐怖をいだかせたり、同じく怒りを生起させることがあるし、怒られるかと思ったら、喜ばれたとか、優しかったというようなこともある。何が怒りの反対感情になるかは、あっても時と場合によって異なる。怒りは、愛や恐怖とペア(対)になることもあるが、多くは、その怒りのおさまることをもって、つまり温厚・穏和の精神状態(さわやかな無)を怒りの反対とすることが多い。痛みとその無に近いものと見なせるだろう。怒りと対立的な積極的な振る舞いに注目してということなら、怒りの働きは相手を排除・攻撃し懲罰を加えるから、その反対は、大切にし慈しむというような働きに、愛の感情になる。怒りが愛に連なっていくことはあまりなさそうだが、逆の場合、愛では、それが強いほどに何かあったときに怒りとか憎しみになることは結構ある。その愛と怒りが自身のもとで同時的に生じれば、反対の心身反応をとり、相殺しあったり、相互を際立たせるものになろう。
 感情の中で、単独峰で、対(ペア)の感情を想定することがないものに、驚きがある。驚かないという反対には、微睡むとか、平常・平生状態とか、無頓着、無反応といったものがあがるだろうが、普通には、驚くのか否かということであって、驚きの反対は、それのないこと、無であろう。皮膚の苦痛と似た感情としては、この驚きが、他の感情類より近いものとして挙がるかもしれない。驚きは、新奇のものに目を見張る。その反対は、驚きのない平然とした無の状態であろう。皮膚の痛みも、損傷を受けて目を見張るのであり、それにと全心身・意識を集中する。苦痛も驚きも、損傷等の新奇の事態の発生に即応した反応であり、そういう事態を意識が全力をもって把握し対処すべきことを喚起する感情になる。苦痛・驚きを解消したその反対は、単にそれらが無いだけで、平生であり平常の状態になる。ただし、驚きは、純粋なそれは、知を興奮させ、しばしば快になる点が痛みとまるで違う。もちろん、新奇のものの中には痛みを生じるようなものもある。驚喜は快だが、驚愕や驚怖は、不快(苦痛)である。

喜び・悲しみや希望・絶望では、対立感情は互角となる 

2023年12月26日 | 苦痛の価値論
3-7-1-2. 喜び・悲しみや希望・絶望では、対立感情は互角となる
 絶望や悲しみ(苦痛)の反対の希望・喜び(快)は、皮膚の快とか危険への安心とはちがって、無でも一時的なものでもなく、その快感情は、反対(苦)の感情と対等かそれ以上に積極的に感じられるものであろう。それらの快・苦(不快)の感情は、対等に存立し、相互にしっかりと際立たせあうものにもなる。
 喜びと悲しみは、価値物の獲得と喪失の感情であろうが、ここでは、苦痛の悲しみに対応した積極的なものとして喜びの感情がある。皮膚でいえば、冷覚と温覚のように、価値をめぐって、その獲得と喪失の二つを独立した感情が担っている。皮膚の苦痛感情の場合、その無は無感情であり、安心・不安では、危険(の可能性)への不安が中心で、それのなくなった消極的感情として危険の無を安心と感じる。だが、喜び・悲しみでは、価値の獲得と喪失の事態への感情として、それぞれが独立的にいだかれる。価値を新規に獲得すれば、喜びの感情となる。価値を奪われ、喪失すれば、悲しみとなる。皮膚の痛みとその無、危険への不安とその無の安心では、マイナスになるかそれがゼロに回復するかを測る感情だが、喜び・悲しみは、プラスの価値になるか、マイナスの反価値(価値の剥奪)になるかである。喜びと悲しみは、心身の伸張と萎縮の反対の反応をもって相互に際立たせあうが、それは同一人における同じ価値物をめぐっての対立感情になることは少なかろう。一人の者が別々のことで喜悲の感情をいだく。それでも、同じように反対の反応を心身はするから、相互に際立たせるとともに、相殺しあいもする。
 希望と絶望の感情の場合、絶望がより強く感じられることでは、普通の苦痛感情と同じであろう。だが、絶望(苦痛)がなくなったからといって、不安の解消で安心がなるようにはならない。絶望や悲しみ自体は、無化しても、希望や喜びは生まない。独立した反対感情である。喜びの感情が生じるには、単に喪失が無化するだけではなく、積極的に価値物が新規に獲得されることが必要である。絶望の場合も、暗黒の絶望が無化しただけでは、おそらく、希望は生じない。もっとも、絶望の場合は、喜び悲しみとちがい、絶望の無化がなるには、暗黒の精神状態にかすかな希望の光が見えることが一番であろうから、絶望の無化は、即希望となる場合が多いだろう。絶望の無化によって希望が生じるのではなく、希望が生じてきたから絶望が無化するという展開である。絶望は、希望を必死に求め、希望を際立たせる。希望も、未来にあるから、放置しておくと絶望の結果になる可能性があり、絶望を意識する。絶望・希望の相互が相互を際立たせる。