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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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勇気では、大胆・果敢よりは、恐怖の忍耐が根本をなす。

2013年02月09日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

3-2. 勇気では、大胆・果敢よりは、恐怖の忍耐が根本をなす。
 勇者は、「大胆」不敵で、勇猛「果敢」である。防御に無頓着で危険を些事と見下す「大胆さ」をもち、攻撃に情け容赦なく猛然と奮起する「果敢さ」をもって戦う。心中の「恐怖への忍耐」という勇気は見えないから、大胆・果敢の勇気の方が目立つ。しかし、勇気の根本は、恐怖への忍耐の方にある。へびに触れるために大胆な勇気を出すひとは、これが怖い者に限定される。怖くないひとは、かわいいへびに触るのにどうして勇気など出さねばならないのか理解できない。恐怖があっての、これに忍耐できた上での大胆・果敢の勇気である。
 大胆・果敢の攻撃的な、いわば殴る方の勇気は、自然的欲求に沿ったものでありうる。だが、恐怖の忍耐は、殴られる方で、怖くて逃げたいという自身の感性・自然を抑圧して反自然の対応に出ねばならない。殴られ怖いのを我慢して逃げず、これに耐えようというのである。勇気にとって、恐怖への忍耐は、大胆・果敢に比してよほど辛いことである。
 恐怖がなくなれば、おのずと大胆・果敢の攻撃もすすんでくる。猛犬からボールをとりかえそうとする子供は、怖くてなかなか大胆になれない。だが、犬が鎖につながれていると分かって危険と恐怖がうすらぐと、とたんに大胆になり必要ならバットをもって果敢にもなれる。恐怖を小さくしてこれに忍耐することがしっかりできれば、攻撃的に大胆・果敢の勇気を出すことは、容易である。勇気では、恐怖への忍耐が肝要である。


勇気の定義

2013年02月02日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

3. 勇気とは
3-1. 勇気の定義
 勇気は、強者のもつもののように一見思えるが、ネコとネズミのけんかでは、ネコには勇気はいらない。弱者のネズミが必要とするものであろう。弱いと危険になり、この危険に積極的な対処をするところに勇気は登場する。
 危険には、恐怖の感情をいだく。危険のさきの禍いを想像してこれを避けるために恐怖反応をして逃走したり萎縮することになる。危険に恐怖するのは自然の防御反応である。それで多くの禍いが回避できる。だが、危険を回避するには、これから逃げず恐怖を抑えて積極的に対決する方がよい場合も多い。ひとは、必要と思えば、恐怖にとらわれることを抑制して、危険に対して冷静になり適正な対応につとめて、勇気ある振る舞いができる。感性的自然を超越した理性存在として、ひとは、理性の制御のもとに、この危険・恐怖と対決することができる。
 勇気は、第一には、なんといっても危険なものへの恐怖を、理性の制御のもとしっかりとおさえて耐え、心の平静さを保つことである。だが、それだけでは、危険なものはそのままである。勇気は、第二には、危険を排撃しなくてはならない。危険に平然として大胆不敵のかまえをとり、危険排撃に勇猛果敢となることである。つまり、ひとの勇気は、「理性の制御のもと、危険への恐怖・不安に忍耐し平静さをたもち、この危険の適正な排撃のために大胆・果敢に振舞うこと」だと言えよう。簡略にいえば、「恐怖に耐え、大胆・果敢になる」ことである。


悪人も節制すれば、よりましな人間になるのではないか。

2013年01月26日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

2-6. 悪人も節制すれば、よりましな人間になるのではないか。
 悪人が節制して元気になると、悪行を一層大きくして、悪を促進する悪しきものとなる可能性があると一応はいえる。だが、節制の具体的内容を見ていくと必ずしもそうではなさそうである。
 かりに悪人であっても、性欲の節制をするとしたら、周囲は喜ぶことであろう。ヤクザが性的に節度ある振る舞いをする人間になったら、不倫や売春・レイプの日頃から足を洗うのである。周囲にとっては、ありがたい「節制さまさま」となろう。さらにヤクザには、ギャンブルや麻薬がつきものであるが、現代の節制は、これにも目を配る。それをやめたり節度あるものとする節制は、当然、社会から歓迎される。
 食の節制は、悪党を健康で元気一杯にして悪事に拍車をかけるから、悪の手助けをする面が生じる。しかし、かれが節制をするということは、おのれの傍若無人な我欲・感性的欲求を、食に関して制御・制限するということである。エゴを抑え、おのれの動物的感性を抑制して我慢できる人間になろうと、食を通して日々努めるのである。ということであれば、食の節制でも、元気になって悪事にいそしむ方面よりも、おそらくは、忍耐することを知って穏やかな市民として生きる方により近づいてくる。
 悪人であっても、節制は、食欲・性欲といった感性的動物的欲求を制御し理性的に振舞うことを押し進める。快楽にふりまわされる快楽主義の動物的底辺の生活を脱け出して、理性精神のもとに生きることを選び、これを習慣化していくのが節制である。極悪人とうわさのひとが「禁酒」「禁煙」「粗食」だと知ったら、そのうわさは信じにくくなるのではないか。それは、節制をもって、動物的感性を抑制して自律理性の人間的尊厳にかなった立派な生き方をしていると想定するからであろう。


節制は、良薬やリハビリに似た面をもつ。

2013年01月19日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

2-5. 節制は、良薬やリハビリに似た面をもつ。
 刑務所や病院では、食事の回数のみか量まで制限し栄養を考えて、日本の場合、おそらく食の節制では理想に近い状態になっている。出所時、改心しておればいいが、そうではなく悪事を再開するのだとしたら、節制は、心身を健やかにしていて、その悪行に拍車をかけることになりかねない。節制は、薬や治療に似た作用をする。悪人の健康もすすめるから、間接的にはときに悪行を支える結果になる。
 良薬が悪人も健康にするからといっても、この薬をけなすことはないであろう。薬の効用は、病気から治癒させ心身を健康にするに尽きる。それ以上のことを、社会における善行などを期待してはいけない。食の節制にこころがけるからといっても、ひとの心身を健やかにする程度で、ひとの高度の精神活動に直接的に作用するものではない。節制をし良薬をもって元気になったその個人がその後、悪に走るとしても、これらが悪行を引き起こすわけではない。薬や節制に原因があるのなら、善人も悪行へとそそのかされることであろう。
 札付きのゴロツキだとしても、市民として薬を買いにきたのをこばむことはできない。断れるのは、直接に悪行を手助けすることになる場合、悪用の明確な場合に限定されよう。「これから銀行に立てこもる。眠くなったら失敗するので、覚醒を持続させる薬や注射をくれ!」といって病院に来た場合は、直接に悪行を援助することになるから、これは断って、警察に通報することが必要となろう。
 節制は、ひとを健やかで元気にする。悪人であっても元気になる。間接的には悪行をささえることになる。だが、それは、良薬と同じで、生の土台をしっかりしたものにするのみである。善行・悪行は、その上に聳える精神が創り出すことで、土台は、その善悪に責任をもつことはできない。


食欲・性欲への社会的統制と理性の制御

2013年01月12日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

2-4. 食欲・性欲への社会的統制と理性の制御
 個人が自発的に食欲・性欲を制限するのが節制だが、食と性は、社会生活に重大な事柄なので、個人の意思にかかわりなく、社会は制限を加える。食欲の社会的制限では、食事を日に二三回に限定するのがその筆頭であろう。その時以外は、お腹がすいても禁欲の時間となる。摂取量は、ある程度各人の食欲にまかせるが、それでも、一人分の食事量を想定した食器や食料品が用意される。
 性の節制も、自身でというより社会から強制的に制限されるものが大きい。現代社会はむやみやたらに性欲を挑発し、これを肥大化させている。しかし、その性欲の充足は、両性の尊厳をふまえて他の時代以上に、夫婦の間だけに制限することが求められている。
 これに対して、自身が自発的に行う節制は、これが本来的に節制ということになるが、あるべき食と性の制御の理想を、その社会に強制され推奨されている節制を参考にしつつ描き、これに近づこうと努めるものである。社会的な規範を自己の規範として取り込み、自律的に制御していくのである。
 食欲・性欲は、感性的欲求で、目の前の事態に対応するのみであって、先を見通して動くものではない。現前の快楽に魅了されて、ときには、人間的精神的生活に大過をもたらすことも生じる。そうならないようにと理性が制御する。自律理性による感性・動物的欲求の制御である。
 食欲が旺盛で、おいしいものがふんだんにあるという、生にとり二重に恵まれた状態にあるのが現代の節制をするひとの前提である。その恵みを禍いに変じることがないように、理性は、自身の感性的欲求をしっかりと制御していかねばならない。感性の理性による自己制御、克己としての節制は、その生が恵まれている限り、永続する葛藤ということにもなる。