2-3. 節制は、快楽享受を抑制する。
食欲・性欲では、快楽を欲するかたちになるので、節制は、食欲・性欲を抑えるというよりは、多くの場面で快楽の享受を制限するという意識になる。節制のもとでも、快楽自体は、しっかりと味わえばよいが、快楽には、のめりこみやすいから、これを制御することがいる。快楽では、その対象と陶然と一体化して、外への意識は無化し、うっとりと陶酔状態になる。節制は、その快楽が生を停滞させたり損なったりすることがないようにと制御する。
食欲・性欲は、快楽を目的にしていて、その本源的な目的である個体の維持と類の保存そのものを欲すること(「元気でいたい」「子供が欲しい」等)はあまりない。その生保存の機能の本来から逸脱せず、人間的生活にふさわしいものとなるよう、これを制御し節制しなくてはならない。栄養不良にならないよう、反快楽のおいしくないものも食べるべきである。性生活では、社会秩序を乱すことになるような場合、禁欲に徹するのが節制であろう。これは快感にのめりこむ遊び・ギャンブルでもおなじことである。現実の生活を犠牲にすることなく、楽しむ程度にと節制することである。
節制は、快楽を拒否する禁欲主義ではないが、部分的には禁欲になる。食欲は旺盛でも、過食のレベルに到れば、舌鼓を打つことをやめて次の食事までは断食(禁欲)である。性欲では、節制は、夫婦間の睦まじい快楽授受を大いに首肯しつつ、それ以外の性交渉の厳格な禁止を求める。食の禁欲はいくらでもやり直しがきくが、性の禁欲では一回の過ちが人生を破綻させうる。性欲自体の節制・制御はやさしく、刑務所内では性犯罪者も穏やかに自制する。犬儒の金言にもあるように、食とちがい性欲の充足は、ただで自分の手だけで簡単にできる。酒は、節酒のひとも一週間に一日は禁酒するのが好ましい。肥満対策の節制では、砂糖入りの飲料は、制限ではなく、一切飲まない禁欲とすることもある。
2-2. 快楽を目的にして生を維持・推進するのは、食・性の動物的欲求に限られる。
食の節制では、おいしいものを制限・節制するだけでよい。おいしくない食べ物は、食べ過ぎない。(食や性の)快楽への欲求を制限するのが節制である。
性欲は、快楽が大目的であり、日本語で快楽主義というと、この性的快楽にのめりこむ状態を想起しがちである。ヨーロッパで快楽主義者(epicure)というとまず第一には食道楽である。性の快楽は刹那的だが、食の快楽なら、アメ玉をなめて終日この快楽にひたっておれる。なお、食の「おいしさ」の核心は、舌の味覚(甘い・からいの感覚)にあるのではなく、のど越しの触覚を通じた快楽にある。飲み込まねば快楽が得られないから、食道楽は肥満しがちとなる。
生の保護・推進は、快となるものを是とし、不快となる事態を避けることで可能となっている。しかし、快の感情自体を欲し求めて動くのは、食や性の動物的な生の営みに特徴的なことである。快不快の感情は、動物的なものから高次の精神生活までを貫いているけれども、高次層の感情になると、遊びやギャンブル以外では、快は目的ではなくなる。快系列の喜びや希望・幸福といった感情は、快を求めるのではない。喜びは快ではあるが、快は付随するだけである。食ではおいしければ(快楽なら)栄養はゼロでもかまわないが、喜ばせるだけの「ぬか喜び」に感謝するひとはいない。喜びとか幸福の場合は、価値物・恵みの獲得が目的で、それには快はともなわなくてもよい。
節制は、ひとの生の土台を担う動物的な基本欲求を、食欲と性欲、その推進力としての快楽を、この土台のうえにそびえる高度の精神的社会的な生活にふさわしいものにと制御しようというのである。
2.節制とは
2-1. 節制の定義
節制の節も制も制限することである。何をそうするのか。人間の動物的根本欲求、食と性の欲求の抑制である。個体の生は食欲をもって維持され、類の生は性欲をもって維持される。この二つの根本欲求がなくなれば、その生は滅びる。生維持をもたらすこの二つの欲求の充足には、大きな快楽のほうびが与えられる。この食と性の欲求と快楽への人間的に節度ある対応につとめるのが節制である。
時代によって節制の内容自体は異なってくる。食糧難の時代の節制は、現代のような肥満に注意する節制ではなく、ゲテモノ食いはいけないとか、おいしい物ばかりを大食することはいけないといったものになる。性の節制も、時代と民族により相当に異なったものとなる。禁欲的宗教のもとでは、しばしば性の快楽自体が否定され、夫婦でも生殖目的以外の性交は控えるようにとか、不倫・同性愛はもとより自慰すらも止めるようにと説かれた。
なお、現代の節制は、あそびやギャンブルも対象にしている。いずれも、快楽にのめりこんで生を乱すものである。食と性の節制では快楽の制限が中心になり、その快楽制御という点で、快楽(快感)のとりこになるギャンブルなども節制の領分とするのであろう。
現代の節制は、古代・中世の食欲と性欲の制御から少し範囲をひろげて次のようにこれを定義しておけるのではないか。
節制とは、「食欲・性欲、或いは嗜好のものごと・遊び等、快楽を目的とする欲求への耽溺で、生の健全さが損なわれるような時に、その欲求を理性でもって適正なものにと抑制して行くこと」である。
1-4. 悪人が正義のひとになれば、その悪行は停止する。
ヤクザが、自分の脅迫した老人の自殺の報を耳にして、哀願していた孤老の顔を想起しながら、自分の邪悪な生き方につくづく嫌気がさしたとしよう。もうこれ以上悪いことはやめようと、自身の悪行をくいて正義に生きる決心をしたとすると、かれは、善人にと生まれかわるのである。正義を守り不正をしないという決心をつらぬくことは、悪人としての自身の否定となる。
暴力団であっても、正義の味方になって町のゴロツキ退治に積極的になるなら、たぐいまれな義人団体となる。さらには、自身に正義を実行・貫徹するとしたら、無法者の組織を解散して、みんなに歓迎されることであろう。正義は、悪人が実行しても善となる。
ただし、なにが正義と見なされるかという点では、節制や勇気とちがって、問題となることが多い。海賊は、国家から承認されておれば、堂々の水軍・海軍である。政治的な確信犯は、崇高な正義の旗手と自身を確信しているが、国家や批判的市民からいうとやっかいな犯罪者にすぎない。正義をになう国家は、その確信犯からいうと不正・邪悪の牙城である。
戦争は、自国の正義と敵国の邪悪の間の戦いである。その各々の国からいうと、正義と正義の戦いである。裏返していうと、不正義と不正義の戦いである。先の世界大戦でもそうだったが、力があり勝った方が正義となり、負けた方は不正義・悪として裁かれるのが常である。太平洋戦争の最大の戦争犯罪は原爆投下であろうが、勝った米国は「過ちは繰返しませぬから」と反省するどころか終戦をはやめた正義だといい、日本人の少なくない者もこの強弁を受け入れている。攻撃的な軍事大国の米国・中国は、自分たちの主張・暴力を正義として通用させる力をもつ。正義は、弱者をだまらせ、強者の横暴を正当化する巨悪になることがある。
1-3. 悪人の勇気は、悪行を支え促進する。
ヤクザが節制して健康になったからといって、直ちに市民への悪行が大きくなるわけではない。だが、かれらが勇気をもつと、まちがいなく市民は大きな禍いをこうむることになる。ヤクザも、警察や裁判所は怖い。こわいから、大きな危険はさけて、警察に捕まらない程度にと、恐喝もおさえ気味にしている。そのとき、やけっぱちなヤクザの男が「死刑なんか平気だ」と勇敢であったら、かれは、脅しも過激になり実際に殺人事件も起すことになりかねない。勇気が殺人をそそのかすのである。勇気は、ヤクザの悪行を大きなものにしてしまう。
ヤクザの勇気のみではない。一般市民のもとでも、勇気は、ときに悪を助長する。道ばたで100万円の札束を見つけたとしよう。ねこばばしようかと一瞬魔のさすことがあったとして、これを実行しないで交番にとどけようというのは、良心がうずくこととともに、ばれたときがこわいからである。そこで勇気をだせば、ねこばばしてしまうことになる。臆病ならそういう邪心は自身でおさえつけることになろう。あるいは、不正はいけないと正義感を発動させれば、ねこばばは自制される。だが、勇気は、日ごろ善良な一市民のこころにひそむ悪をそそのかすことになる。
節制は、とくに食のそれなど、自分の身を健やかにするだけで、社会に直接影響するものではない。しかし、勇気は、周囲の危険なものごとへの大胆な対応として、悪人のそれは、社会に対して直接的に、より大きな害悪をもたらすことになる。