4.正義は、徳か。
4-1. 適法、法に合った「正しさ」としての正義
正義は、正しい義(すじみち)、正しいことである。正しいとは、道理や法に「合っている」、道を外していないということであろう。1+2=3が「正しい」というが、それは、これが十進法(四進法以上)の法則に「合っている」、あるいは、イクオール(=)の前後が「合っている」「一致している」ということである。
その正しいこと、法(則)に合致するというきわめて広義のことばが、なぜ、狭義の正義において使用されるのであろう。狭義のとは、「不正は許されない。正義を守れ!」という、厳しい利害対立の世界での正しさ、つまり、なにが正しいかを厳格に定めている法律世界での正しさ・正義である。
利害の厳しく対立する世界では、不正は許されず適法・合法が必須で、正しさが一番きわだつところである。他の方面でなら、正しくなくても許容されることがある。食を節する正しさ(=節制)を守っていないひとなど町中に満ち満ちている。あるいは、自然物は法則をはずして不正状態になることはないから、正・不正が問題にならないようなこともある。
だが、利害対立の厳しい場面では、正しさ、適法かどうかは重大な問題である。法から外れてでも出来れば利を得たい。損害を被る側は、当然これを許さない。その外れは、懲罰をもって厳しく糾弾される。正・不正は、利害対立の場では、つねに注目の的となる。正しさ・正義というと、なにはおいても利害対立の場に集中するので、狭義には、ここでの正しさを指すことになっているのであろう。
3-6. 大勇では、理性制御がしっかりしている。
勇気は、悪しき目的のもとでは、悪へとひとをそそのかし先導して、悪の尖兵自体となる。さらに、目的が悪でないとしても、見栄・虚勢を張るためだけに使うのでは、せっかくの勇気も、愚行となり、匹夫の勇、小勇に成り下がる。
ひとの勇気は、理性で恐怖を制御するものとして理性的であるが、その理性使用は、恐怖抑制に注がれるのみでは、悪用を阻止したり無用な使用を制止する大局的な視座はもてない。勇気のそとに超越して理性は、これをさらに強く確実にリードすることがいる。大勇は、大局的な見地からの理性の制御をもったものになる。
勇気は、悪行の促進に使われてはならない。虚勢を張って大怪我をして、「あの蛮勇なかりせば・・」とあとで軽薄な小勇を後悔することがないようにもしたい。それには、臆病、卑怯といった非難にも平然と勇気をもって対処できることである。「大勇は、怯なるが如し」である。
ひとは、勇気をもつことで、危険・恐怖に対処するに大きな力を発揮できる。だが、それを何に対して出すのかについての制限は、勇気の恐怖忍耐・大胆さ・果敢さのうちにはかならずしもない。くれぐれも悪用・誤用には注意しなくてはならない。自律的な理性の確固とした制御のもと、小勇に堕すことなく、大勇にと心がけておくことである。
3-5. 勇気は、悪に使えば、邪悪な凶器そのものとなる。
節制は、動物的欲求を理性的に制御することで、誰が節制しようとも、おおむね善に向かうことになろう。だが、勇気は、悪の企図のもとに発揮される場合、その悪を確実で大きなものにする。節制は、自分を節し制するのであれば、周囲に迷惑はかけないが、勇気は、攻撃的になって周囲に関わる。勇気をもっての悪行は、その悪を勇気の分だけ凶悪にする。
勇気は、攻撃・破壊に優れた力を発揮する鋭利な刃物である。善用も悪用もされる。万引きを思い立った者は、勇気を悪の尖兵とする。見つかったらどうしようという不安や恐怖を抑圧して、その勇気は、ためらいをすて決断・実行へと踏み出して、万引きを率先する悪しきものとなる。
「勇敢な奴じゃ!」という評価をするとき、善行をそう言っているとは限らない。勇気の向かう危険は、悪事を企てるところには頻出する。山賊も海賊も、とくにその首領となるようなものは、まちがいなく勇敢である。勇気は、攻撃的であり、悪のもとでは、悪しき凶器にとなりかわる。
勇気が悪の手段になることなく、徳として、善の手段にとどまるためには、いうまでもなく、善目的のみに使用すればよい。勇気は、使い方しだいでは凶器に変じる。大局を見て善目的を見定めて、勇気の誤用・悪用をさけられるようにと、理性が全体をリードできなくてはならない。
3-4. 恐れ知らずは、ほどほどがよい。
ひとの勇気は、反自然的で、恐怖を抑制し危険と対決する。だが、日頃は、ひとでも圧倒的に自然にしたがい、危険に恐怖すれば自然反応のままに萎縮し危険を回避してすごす。勇気を出す場面は、ごくまれである。
節制の場合は、食事のたびに過食を気にし、体重計にのって毎日でも節制を意識する場面はありうる。しかし、勇気の場合、危険への恐怖に自然的にしたがうことが日頃であって、勇気を出す場面は、ごく限定される。危険と恐怖自体は、食と性に限定される節制と逆に、動物的生から精神生活のあらゆる層にわたって存在している。したがって、勇気は、節制とちがい、低位層から高位層のあらゆる生の場に求められるものでもある。
その危険と恐怖に対して勇気を出すべきことになるのは、だが、まれである。町に出るだけでいたるところに危険があるが、そこでは、概ね、恐怖にしたがって臆し慎重に対処することで危険をやりすごす。暴走車をまえに勝ち目のない勇気を出しているようでは長くは生きておれない。クレジットカードを使うのは危険だと思えば、勇気を出すよりは臆して現金で済ます。
では、どういう場面で、ごく例外的である勇気を出すのであろうか。それは、恐怖する自然にしたがうことがそのひとの生にマイナスになるときである。高所から飛び降りようとすると、自然的には恐怖で足がすくむ。それで、羽根をもたないひとは、落ちて禍いを被ることがなくてすんでいる。だが、火事のときには、飛び降りて怪我をする危険をひきうけ、恐怖を抑えて、勇気をだす者が助かるのである。勇気は、恐怖を抑えその自然反応を超越して理性的に振舞うべき場面に発揮される。
3-3. 理性による恐怖の忍耐が、ひと固有の勇気。
動物は、自然に埋没していて、恐怖にとらえられたら百獣の王であっても、この感性にしたがって逃走する。しかし、ひとは、弱者であっても、自然を超越した自律的な理性のもとに、おのれの恐怖する自然感性を抑制・制御して、逃走しないで耐えることができる。恐怖を甘受しつつこれに忍耐できる勇気は、自律理性をもった人間ならではのものであろう。
動物も勇気を見せることがある。食や性などの衝動が恐怖よりも強くなって恐怖を打ち消すといった形での勇気がありうる。ひとは当然この自然的な勇気ももつ。猛犬に恐怖していても、我が子が襲われる段になると、母性本能は、恐怖を凌駕して、猛犬に対して果敢に戦う勇気を出す。
恐怖を忍耐するひとの理性的な勇気の特徴は、恐怖を小さめに受け止めて、しっかりと耐えうるようにと工夫することであろう。突然だと過度に恐怖するから、予め構えられるようにと危険の予知につとめる。恐怖では身体反応が顕著であり、恐怖の反応と反対の動きをするようにすれば、恐怖心自体も小さなものにできる。いっそ攻撃に出れば、攻撃に気が向くから、恐怖は消えても行く。理性は、種々に恐怖を抑制して勇気を出す。
大胆さの勇気は、危険に無頓着となるが、無闇では、敵に隙を与えるのみとなる。果敢さも、盲滅法では危険排撃はおぼつかない。ことを的確に洞察し深慮遠謀をもって、勇気は、理性のヘゲモニーのもとに発揮されねばならない。