竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

進歩と進化? (歴史と人類学のはざ間で) その3

2010-10-30 15:12:07 | 歴史と人類学
(秋はどんどん深まっていきます。
朝のジョギング中に撮った花の写真3枚、
シラヤマギク

シロバナサクラタデ

リンドウ、昼になったら開きます。


私が何故このような未開民族に関心を持ったか、
それは歴史の進歩と言う考え方に疑問を抱いていたから。
 
学問としての歴史学では歴史の進歩と言う考え方は否定されている。
だが一般常識としては抜きがたい力を持っている。
特に先進国の豊かな社会に住んでいる私達は、
この安全で安楽な便利な暮らしが当たり前になっている。
でもそれは一方で私達の精神を蝕む側面を持っている。
 
今心を病んでいる人たちが多い。
私達の周りの子供達はあまり生き生きしていない。
仲間同士のいじめなどに脅かされている。
貧しい後進国の子供達の方がキラキラした目をしている。
私達の豊かさは、貧しい世界によって支えられている。
 
ペナン族その他の少数民族は、現代のグローバリズムの世界に組み入れられると、
彼等の生活を支えていた土地を奪われ、文化を奪われ、
社会の最下層に組み入れられていく。
 
それは南北アメリカのインデイアンやオーストラリアのアボリジニ、
日本のアイヌ民族も全く同じ過程をたどっている。
 
実は日本人もこのグローバリズムの中で貴重なものを失ってきた。
渡辺京二は「逝きし世の面影」の中で、
江戸時代に栄えた文明が、明治10年ごろまでに、
近代化の中で失われてしまったと語っている。
 
日本史は抜きがたく進歩史観の枠で見られている。
渡辺の著書はそれを真っ向から否定する、重要な貢献だと思う。
宮本常一の著作も、かっての生活や人間性を復元する重要な業績である。
 
グローバリズムの世界の貧しさを痛感しているので、
いわゆる未開民族の研究は、もうひとつの世界を示唆してくれる。
とは言え元に戻りことは出来ない。
グローバリズムの波は歴史的にはヨーロッパから始まった。
コロンブスのアメリカ大陸発見をその象徴的な出来事と見る人もいる。
 
ただ同じような流れは日本の中にもあった。
江戸時代の日本の社会システムは、
かなり進んだものになっていた。
初等教育の普及などはヨーロッパに引けをとらない。
 
グローバリズムの流れは文明から文明へと受け渡しされながら、
ヨーロッパで爆発したのだろう。
 
これを進歩と見るにはあまりにも犠牲が大きすぎる。
ジェノサイドが起こったのは私達が生まれた頃のこと。
それ以前も以後も辺境地帯では、
少数民族が抹殺されたり圧迫されてきている。
豊かな社会はいっそう豊かになるために、
貧しい国の資源を貪り続けている。
 
グローバリズムは進歩というより、進化とでも言ったものかもしれない。
歴史を進化としてみるのはそれこそ歴史に逆行する見方なのだが。
 
しかしグローバリズムの波に直面したとき、
かっての明治維新がそうだったように、
苦渋の決断をしなければ植民地化されてしまう危険があった。
日本はその波に対応できたのだが、
同時に日本が周囲を植民地化する方向に向かう、
いっそう危険な道に進むことになった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿