ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第175回)

2020-12-04 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(3)革命の展開過程
 スペイン・アナーキスト革命は多くの革命で見られるような中央主導の革命とは異なり、各地方ごとに展開されていった。そのため、その革命過程を総括的にとらえることが困難である。そこで、ここでは、時系列ではなく、この革命の主要な特徴に即して、展開過程を述べてみたい。
 まず、その第一はゼネストから自然発生的に勃発したことである。このゼネストは1936年7月、人民戦線政府に対する保守派軍部の反乱に抗議し、対抗するために起こされたもので、単なる労働争議では終わらず、反乱への対処能力を欠く中央政府に代わって労働者らが武器を取って反乱軍と戦う内戦の方向へと流れていったが、同時並行的に、機能しない中央政府とは切り離して、州や郡、都市のレベルで革命体制を順次構築していく地方革命が実行されていく。
 そうした点で、これはかつて職業的革命家集団の指導する革命というテーゼを批判し、労働者大衆の自然発生的ゼネストを通じた革命を対置したローザ・ルクセンブルクの革命論に近い事例であり、その意味で、ロシア十月革命の対照事例でもあった。
 そこから必然的に、「中心なき革命」ということが第二の特徴となる。すなわち、中央指導部を持たないまま、地方ごとに遂行されたことである。そのため、これらの地方革命で成立した革命的自治体の名称や構造も様々であり、統一性を示さなかった。
 その点では、19世紀フランスのコミューン革命と類似しているが、そこでは首都パリにおけるコミューンが圧倒的中心であったのに対し、スペイン革命では首都マドリッドの革命的自治体としてマドリッド防衛評議会が設置されたものの、小規模にとどまり、革命の中心とはならなかった。
 ただし、革命が進展していった地方としてはカタルーニャが要地ではあったが、フランス・コミューン革命よりも広い範囲に革命が波及し、バレンシア、アラゴン、マラガ、アストゥリアス‐レオン、マドリッドからピレネー山麓のサルダーニャや離島のイビサにまで及び、最終的に全土に及ぶかの勢いを見せた。
 しかし、そうはならなかったのは、第三の特徴として内戦と同時並行的に進行したためであった。軍部の反乱は当初、海外領土モロッコで駐留軍が起こした地方的反乱にすぎなかったが、人民戦線政府により危険視され、離島のカナリア諸島へ左遷されていたフランシスコ・フランコ将軍がモロッコ入りしたうえで、本土へ進攻すると全土規模のものとなり、人民戦線政府による反カトリック政策に反発する保守層から幅広い支持を得て、本土でも急速に拡大していった。
 ゼネストに発した「中心なき革命」はまさにアナーキスト革命にふさわしいものではあったが、それゆえに脆弱でもあり、相互の連絡関係を欠き、後に独裁者となる指揮官フランコを中心に団結して内戦に対応した保守派に対抗するうえでは、明らかに力不足であった。

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近代革命の社会力学(連載第174回)

2020-12-02 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(2)人民戦線とアナーキズムの台頭
 スペインのアナーキスト革命が勃発するに当たっては、1930年代のソ連及びコミンテルンがファシズムに対抗するために採用した新方針である人民戦線戦略が大きな触媒となっている。人民戦線は、反ファシズムを旗印として、共産党をはじめとする革新政党・諸派が連合する新たな政治戦略であった。
 この方針は本来はソ連共産党主導の国際的な革命指令機関であったコミンテルンの1935年第7回大会で決議されたもので、従来、ロシア以外では共産党主導の革命が進展しない中、とりわけフランス、スペインのような西欧諸国において、共産党が他の革新政党と連合し、選挙で政権獲得を目指す新たな革新運動の戦略として現実性を持っていたことは確かである。
 このような人民戦線戦略が最初に実を結んだのが、スペインであった。スペインでは1920年に共産党が結党されていたが、弱小政党にすぎず、1931年の共和制移行政変後の総選挙では、33年にようやく1議席を獲得したに過ぎなかった。
 そうした中、36年総選挙を前に、共産党の他、より歴史の古い穏健派のマルクス主義政党である社会党、反スターリン主義のマルクス主義統一労働者党に、非マルクス主義の共和主義左派や、より中道的な共和主義同盟が人民戦線を組んで選挙に臨み、勝利したのであった。
 しかし、人民戦線の中心は最多議席の99議席を獲得した社会党とそれに次ぐ共和主義左派にあり、政権の顔となる首相(後に大統領)には共和主義左派のマニュエル・アサーニャが就任するというように、人民戦線政府は穏健な方向でまとめられていたため、マルクス主義統一労働者党は政権に参加せず、急進的アナーキスト団体は人民戦線に反対し、棄権していた。
 こうした中央政府レベルの人民戦線政府の樹立とは別に、スペインではアナーキズムの影響を受けた労働運動が隆盛化していた。中でもロシア革命以前の1910年に結成された労働者全国連合(CNT)と、1927年結成のイベリア・アナーキスト連盟(FAI)が中心を成していたが、後者は前者の傘下団体に近い存在のため、両者は一体的であった。
 こうしたアナーキスト系労働運動は、アナーキズムの祖国でもあるフランスで19世紀末頃に発祥し、フランスを経由してスペインにも持ち込まれていたものだが、特にスペインで隆盛化したのは、カトリック保守主義の歴史的岩盤が極めて強固だった反面として、権威的な束縛からの徹底した自由を志向するアナーキズムの反作用が強く働いたこともあったと考えられる。
 1936年に始まるスペイン・アナーキスト革命は、CNT‐FAIを主体としつつ、カタルーニャのような歴史的に独立志向の強い地方でナショナリズムと結びつく形で実行されていったのであるが、その直接的な動因となったのは、人民戦線政府の不安定さに付け入った36年7月の保守派軍部による反乱であった。

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近代革命の社会力学(連載第173回)

2020-12-01 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(1)概観
 1700年以来、フランス系のボルボン朝が支配してきたスペインでは、1873年に共和制移行政変が起きたが、この史上初の第一共和政は一年と持たずに自滅し、たちまち王政復帰した。
 しかし、この後、19世紀末から20世紀初頭にかけてのスペイン王国は、新興のアメリカとの戦争に敗れて、まだ残されていたフィリピンやキューバといった植民地を喪失し、弱体化が著しかった。
 スペインは第一次世界大戦を中立政策で切り抜けたものの、戦後は不況に見舞われ、労働運動が促進された一方、バスク地方やカタルーニャ地方の分離独立運動の激化、さらには「アフリカ分割」に乗り遅れたスペインにとって希少なアフリカ植民地であったモロッコでの現地部族の大反乱などの内憂外患に陥った。
 こうした苦境打開のため、時の国王アルフォンソ13世は保守的な職業軍人ミゲル・プリモ・デ・リベーラのクーデターを承認し、権力を委任する形で、1923年から30年までイタリアのファシズムに類似した疑似ファシズムの軍事独裁体制を通じて君主制を護持した。これには、政情不安と革命を恐れるカトリック保守層や地主階級の支持もあった。
 しかし、公共支出を増大させたプリモ・デ・リベーラ政権の放漫財政により財政が悪化し、通貨ペセタの下落を起きていたところへ、大恐慌の影響がスペインにも及び、ペセタが暴落、1930年には見切りをつけたアルフォンソ13世がプリモ・デ・リベーラ首相を辞職させ、委任独裁統治を終わらせた。
 翌年1931年4月に施行された統一地方選挙で共和派が勝利すると、革命の勃発を恐れたアルフォンソ13世は自ら退位・亡命する道を選択した。このような革命予防的な君主の自主退位は稀有の事象であるが、この決断により、スペインは革命によらずして共和制に移行した。
 この第二共和制下で地方自治や女性参政権を保障するスペイン史上最も民主的な憲法が制定され、新生スペインが動き出すが、君主制の軛から解放された保革の党派対立はかえって激化し、政情不安が続く中、1936年の総選挙で共産党を含む革新派の政党連合・人民戦線が勝利して、革新派連立政権が発足した。
 このような選挙を通じた中央の新政権の成立を大状況としつつ、カタルーニャ・アラゴン・アンダルシアなどの地方のレベルで、労働者自主管理を基調とする革命が順次進展した。この地方革命は、急進的な労働運動団体とアナーキスト団体が共同戦線を張る形で実行されており、全体としてアナーキズムの理念で統合された革命であった。
 このようなアナーキスト系の革命としては、1870‐71年のフランス・コミューン革命が先駆けであったが、一定期間持続したものとしては、1936年スペイン革命が最初のものである。
 その意味で、その後、1938年にかけて続いた地方革命体制は、他国の諸革命とは大きく異なるユニークな様相を示した。それだけに、内(人民戦線政府)と外(保守派軍部)二方向からの圧迫にさらされることにもなった。

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