第2章ノ2 イスラーム世界における農民
砂漠の民アラブ人が創始したイスラーム世界は元来、遊牧民の世界である。遊牧という生活様式は、農業の延長的営為である牧畜が可動式に発展した後発の生活様式と考えられている。どのような経緯によってか砂漠地帯に進出したセム系民族のアラブ人は、先駆的な遊牧民の一つである。
かれらもオアシスで農耕をしないわけではなかったが、イスラーム教団の征服活動によって広がった非砂漠地帯での農業は被征服民の隷従的な任務であった。特に大穀倉地帯を擁するエジプトがイスラーム世界に入ってくると、この地の被支配層に組み込まれた農民たちは支配層のアラブ人とは区別され、フェッラーと呼ばれた。
フェッラーは西欧の農奴とは異なり、被征服者として重税を負担させられながらも自由農民であった。イスラーム世界では西欧のような形態の農奴制が成立することはなかった。フェッラーにはハラージュと呼ばれる一種の地租が課せられ、初期には負担に苦しみ逃亡する者もあった。
しかし、アッバース朝はハラージュをアラブ人土地所有者にも課す平等課税制度を確立したため、中近世西欧や日本で頻発する農民反乱はイスラーム世界では見られなかった。もっとも、アッバース朝下、イラク南部のメソポタミア文明故地では有力者が保有する私領地で、東アフリカ沿岸地域から連行した黒人奴隷ザンジュを使役したプランテーションが大々的に営まれた。
ザンジュの待遇は劣悪だったため、869年、一人のアラブ人革命家に煽動されたザンジュの大規模な反乱が勃発した。これはアッバース朝弱体化の隙をついて革命に発展し、10年以上にわたり、複数の都市を占拠して一種の地方革命政権を樹立した。しかし、これは農民反乱というより、奴隷反乱であった。
農奴制が成立しないことは、イスラーム勢力がイベリア半島を支配し、ヨーロッパ侵出を窺うようになった時代も同様であった。この時代のアンダルシア地方は8世紀から13世紀にかけてのイスラームの黄金時代と呼ばれる一時代におけるアラブ世界における農業革命の中心地ともなった。
この農業革命の土台は、水資源が限局された乾燥地帯でも農業生産力を確保するペルシャの地下用水技術(カナート)の導入にあったと考えられている。その点では、イスラーム勢力によるペルシャの征服が画期点となったのだろう。
ちなみに、アンダルシアは多数のすぐれた農学者を輩出しており、彼らの研究成果を基にした集大成が、イスラーム時代の12世紀セビリアの農学者イブン・アルアッワームが著した全35巻にも及ぶその名も『農書』である。