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戦後日本史(連載第24回)

2013-10-08 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔三〕右派・小泉政権の登場

 1999年の画期を作り出した小渕政権は、2000年4月、首相の発病、内閣総辞職によって突然終わった。その後党幹部の密議により、森喜朗が後継首相に就く。森は岸信介の流れを汲む右派派閥の領袖で、田中派、次いでそれを引き継ぐ竹下派の党内支配が続く中、長く閉塞していた同派閥からは76年‐78年の福田赳夫以来の首相誕生であった。
 しかし、森首相は就任早々から大きくつまづく。まず「日本は天皇を中心とした神の国」という発言が波紋を呼んだ。これはメディア上では「失言」という受け止めをされたが、実際のところ、国旗国歌法制定の直後にあっては、出るべくした出た明治憲法回帰的な「逆走」発言と言えた。
 結局、森内閣は首相自身の「資質」が疑問視されて低支持率に終始し、00年6月の解散・総選挙をはさんで1年余りで退陣した。後任には同じ派閥のベテラン小泉純一郎が就いた。
 小泉は森の辞任表明を受けた自民党総裁選挙で、当初本命視されていた首相返り咲きを狙う橋本龍太郎を破ってのサプライズ登板であった。しかし、01年4月に発足した小泉政権の性格は、まさに99年を起点とする「逆走」の急進化にふさわしいタイムリーなものだったのである。
 その基本性格と施策は、様々な点で「逆走」再活性化の流れを作り出した20年前の中曽根政権に酷似していた。特に外交防衛面では、対米協調に重心を傾けた事大主義的保守主義を基調とし、当時のレーガン共和党政権と親密な関係を築いた中曽根政権と同様、小泉政権もレーガン政権の流れを汲むブッシュ共和党政権と親密な関係を取り、ブッシュ政権が主導した01年のアフガン戦争、03年のイラク戦争に全面協力したのである。
 ただ、観念論的な“不沈空母”発言にとどまった中曽根とは違い、戦争協力にまで踏み込んだことも含め、小泉政権の右派的性格は中曽根政権のそれをはるかに上回っていた。その象徴と呼ぶべきものを三つ挙げるとすれば、有事法制、靖国神社公式参拝、新憲法草案である。
 有事法制は、従来机上論にとどまっていたものを99年の周辺事態法制定を契機にさらに歩を進めた実質的な戦時体制法であり、内容上憲法的疑義を持たれるものであった。
 靖国神社公式参拝は中曽根も一度敢行したが、中国の異議を受けて以後差し控えたのに対し、小泉は中国の異議を押し切って連年の参拝を繰り返した。これによって対中関係は冷却し、中国では05年、日本政府の教科書検定に右派的傾向の歴史教科書が合格したことを契機に大規模な抗議行動が起き、一部が暴徒化する事態となった。
 新憲法草案は政権末期に提案されたもので、長年自民党が棚上げしてきた「自主憲法」制定論を初めて明確な形にして公表した点で画期的であった。その内容は自衛隊を「自衛軍」に転化し、基本的人権を「公益」「公序」によって制約することを容認するなど、明治憲法回帰的な「逆走」の到達点を指し示すものでもあった。
 小泉政権と中曽根政権の類似性は、大胆な解散・総選挙に打って出て自党に圧勝をもたらした点にも見られた。中曽根が86年6月に違憲の疑いも指摘された衆参同日選に打って出て圧勝し、国鉄分割民営化を断行したように、小泉も05年8月、持論である郵政民営化を断行すべく、解散・総選挙に打って出て圧勝をもたらしたのである。
 ただ、その政治手法には明確な相違があり、ともに官邸主導のトップダウンによりつつも、所詮は官僚出身の超然的な中曽根に対し、生粋の政党人である小泉は「ワンフレーズ」とも称された単純なプロパガンダを巧みに利用した大衆扇動的手法に長けていた。この点では、従来の日本の首相には見られなかった―強いて類例を挙げるとすれば、田中角栄か―新しいタイプの首相でもあった。
 そうした手法にもよりつつ、小泉政権はやはり中曽根政権とほぼ同じく約5年に及ぶ長期政権の中で、「逆走」の急進化を本格的に主導していったのである。

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