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近代科学の政治経済史(連載第7回)

2022-03-20 | 〆近代科学の政治経済史

二 御用学術としての近代科学

近代科学はその出発点においてカトリック聖界との摩擦を引き起こしたものの、俗権との関係は良好であった。それどころか、近代科学草創期の王侯貴族は新しい思潮である科学に関心を抱き、積極的にこれを擁護し、パトロン的な立場に立つことすらあった。おそらく、科学を統治に利用できる可能性を想定してのことであろう。このことは、近代科学の最初期の発展において強い追い風となった。
 

メディチ家の「実験アカデミー」
 地動説を開陳したがゆえに異端審問により弾圧されたガリレオであったが、郷里のトスカーナでは大公メディチ家から厚遇されており、メディチ家が事実上のパトロンであった。ことに第4代大公コジモ2世によって宮廷数学者に任命された縁で、ガリレオはトスカーナ宮廷の権威を借りて研究活動を展開することができた。
 コジモ2世を継いだ息子の第5代大公フェルディナンドも父親以上に科学に関心を持ち、ガリレオの影響ないし教示により、密閉ガラス温度計を自ら発明したとされている。しかし、彼の時代、トスカーナ大公国は斜陽化し、フェルディナンド自身も統治能力の不足から、斜陽化に拍車をかけた。
 そのため、彼はガリレオの救援に何らの助力もできなかったが、有罪判決を受けた後、郷里での自宅軟禁を許されたガリレオを慰問するなど、フェルディナンドは終生にわたり、ガリレオを後援し続けた。
 フェルディナンドは、ガリレオの没後も、その高弟で、物理学的な意味での真空の発見や流体力学の基本公式トリチェリの定理の発見者として知られるエヴァンジェリスタ・トリチェリの後援者となっている。
 さらに、フェルディナンド同様に科学趣味のあった末弟レオポルドは、1657年、兄とともに学術団体アカデミア・デル・チメント(実験アカデミー)を設立するに至った。これは正式な科学学会としては最も先駆的なものである。
 この学会の特徴は、単なる名誉的な集団にとどまらず、種々の実験器具の開発や測定基準の制定、さらには先駆的な気象観測まで行うなど、名称どおり、実験に徹した実践的な活動を展開した点で、一種の科学研究所の先駆けであり、正確な器具と単位を用いた実験とその結果の公表という科学的プロトコルの開発者でもあった。
 しかし、この学会は長続きせず、共同創立者レオポルドが枢機卿に叙任された1667年に解散された。創立からちょうど10年の節目であった。解散の経緯は複雑であったようであるが、決定的だったのは解散が枢機卿叙任の条件とされたことのようである。そうした政治的経緯には、なお近代科学に敵対的な聖界との相克が透けて見える。


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