ザ・コミュニスト

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テレビ観戦拒否宣言

2021-07-24 | 時評

中止されないだろうと予見してはいたものの、理性的に考える限り誰も望まないはずの感染症パンデミック下でのオリンピック(パンデリンピック:pandelympic)がなぜ強行されることになったのか、考えあぐねてきた。

表層的には、いろいろな説明がされている。放映権料収入を確保したいIOCの算盤勘定、政権浮揚につなげたい与党の政治的打算、中止した場合に発生するするとされる違約金や賠償金(発生しないとの説も)の負担を回避したい組織委員会や東京都の金銭的打算、栄冠のチャンスを逃したくない出場選手たちの名誉欲等々。

しかし、どれも決定因とは思えない。結局のところ、これはもはやもっと集団的な人類=ホモ・サピエンス種の特性から考えるほかなさそうである。―以下は人類の生物種としての全般的な傾向を指摘するもので、ホモ・サピエンス種に属する個々人皆さんが以下のようだと言いたいのではないので、お気を悪くなさらないよう。

第一は、利己性が利他性を凌駕してしまったこと。すなわち、如上の様々な勘定・打算・計算・欲望とは要するに自己利益の確保に走る人類の本性の一端を示している。

一方、人類は時に自己利益を犠牲にしてでも、他人のために尽くそうとする心性=利他性をも持つ。今回で言えば、コロナ感染症の拡大を防止することや、現に感染して苦しみ、あるいは死の床にある人々を慮って、五輪中止を決断することであるが、残念ながら、そうした利他性は利己性の前に敗れ去ったように見える。

第二は、遊興なしには生きられないホモ・ルーデンス(homo ludens:遊興人)としての人類の本性が優勢化したこと。

近代オリンピックの創始者で、教育者・歴史家でもあったピエール・ド・クーベルタンは崇高な理念を掲げ、それは五輪憲章にも継承されているけれども、莫大な費用と労力を要し、負担が大きいばかりの五輪が消滅することなく、100年以上も続いてきたのは、崇高な理念のゆえというよりも、五輪の祭典としての面白さのゆえであり、まさにホモ・ルーデンスとしての人類の本性にマッチしていたせいである。

とはいえ、今回はさすがに事前の国内世論調査では中止論が8割などという数字が上がっていたが、一方で緊急事態宣言下でも休日の人出は顕著に減らず、中止世論との矛盾が見られたのも、ホモ・ルーデンスの本領発揮である。国際世論においても、圧力となるほどの中止論は見られず、結局、IOCはそうした日本内外の情勢に照らし、世界の人々は本気で中止を望んではいないとにらんで、開催を強行できると踏んだのである。

第三は、非理性が理性を凌駕してしまったこと。人類は理性的な存在ではあるが、常に純粋理性的に判断し、行動するわけではない。

これは先の第一と第二の分析とも関連することであるが、利己性やホモ・ルーデンスとしての本性は理性よりも非理性としての感覚やある種の本能に属する人類性向であるところ、今回はそうした非理性の要素が理性に打ち克ってしまったのである。

その点、大会モットーUnited by Emotionは象徴的である。この英語表現については、「『Emotion』は、制御の効かない不安定な感情を指す言葉です。そのため英語の世界では、『気紛れで不安な感情で結ばれて』というとんちんかんなモットーになってしまうのです」という英語通からの指摘もある(元外交官・多賀敏行氏)。とすれば、かえってパンデリンピックにはふさわしい意味での“エモーション”が支配する大会である。

さて、私はと言えば、自身もホモ・サピエンス種に属する一個人ではあるが、今回は人類性向に背くことにした。すなわち、強行されるパンデリンピックへの抗議を込めて、推奨されているテレビ観戦をも拒否する。これが一介の民草にできる最も簡単な抵抗行動だからである。

パンデリンピックの経済的利益の中でも最も中心的なものは、IOCに転がり込むテレビの放映権料だと言われているから、そうした言わばテレビ利権への抗議として、五輪をテレビ観戦しなければよいのである。

もっとも、テレビ利権の中核はアメリカのテレビ局であるから、日本人が日本のテレビ局による五輪中継を観なくても、抗議としての効果は薄いだろう。よって、同様の行動を他人に勧めるつもりはなく、たった独りの市民的抵抗である。

ただし、7月22日までは中止論だった人が、23日以降は一転してテレビ観戦はするというのでは言行不一致もしくはあまりにすばやすぎる変わり身であるということだけは言わせていただきたい。


[蛇足]
理性的判断ができなくなっている主催者総体がパンデリンピックの途中止を決断する可能性は低いと見るが、それでもせめてもの判断基準として、選手間の感染が拡大し、特に外国選手の感染が相次ぎ、脱落者が続出することにより、結果として日本人選手が表彰台を独占しかねない状況に達した時には、もはや国際大会としての意義を失うので、途中止を決断すべきである。
しかし、深読みすれば、日本政府筋などは、日本人選手の表彰台独占となれば、かえってパンデミックに打ち克って好成績を上げた日本人選手の活躍、ひいては日本の感染症対策の的確性を「世界に誇る」という形で五輪成功を内外にアピールできると逆算段しているかもしれない。


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