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世界共産党史(連載第16回)

2014-07-21 | 〆世界共産党史

第8章 アフリカ大陸への浸透

1:アフリカの共産主義
 アフリカ大陸では、オセアニアとともに共産党政権が成立した歴史がない(後述するように、他名称共産党の政権はある)。この事実は、アフリカ大陸が反共主義的であることを意味していない。アフリカの20世紀は西欧帝国主義の植民地支配に始まり、第二次大戦後も独立闘争に忙殺され、共産主義革命より独立達成が圧倒的に優先課題であった。
 しかし、その独立闘争にも共産主義は浸透していた。多くの諸国の独立闘争組織が、程度の差はあれ社会主義的志向性を持ち、マルクス主義を標榜するセクトを抱えていた。60年代以降、アフリカ諸国の独立が続くと、多くの諸国がソ連型一党支配体制の社会主義を標榜し、ソ連に接近していった。しかし、それはしばしば独裁政権や軍事政権の隠れ蓑にすぎず、重大な人権蹂躙や内戦を招くことも少なくなかった。
 そうした隠れ蓑政権の典型は、1969年の軍事クーデターでソマリアに成立した体制であった。この体制は完全な軍事政権であったが、間もなくマルクス‐レーニン主義を標榜する革命社会主義者党の一党支配の形態に移行した。しかし、その実態は独裁者バーレ大統領の属する氏族支配の隠れ蓑にすぎなかった。
 バーレ政権は同じくマルクス‐レーニン主義を標榜した隣国エチオピアとの領土紛争からエチオピアを支援したソ連を離反して親米に転向した末、冷戦終結後にはアメリカからも捨て駒とされ、折から強まった反政府ゲリラの攻勢に屈し、91年に崩壊した。その後のソマリアは内戦・無政府分裂状態のままである。
 異彩を放つのは、ザイール(現在のコンゴ民主共和国)東部で67年から88年まで存続した解放区的なマルクス主義のゲリラ国家である。これは当時のザイールのモブツ親米独裁政権に対抗して、ローラン・カビラが率いた山岳ゲリラ活動の一環であり、一時的にキューバ革命の共同指導者チェ・ゲバラが来援したが、カビラの怠惰に失望し、去っていった。
 その後、中国の支援でゲリラ国家が設立・維持されるが、その活動方法は密輸や強盗といった犯罪行為であり、結果はカビラの蓄財であった。ゲリラ国家解体後の97年に至り、カビラはモブツ政権を崩壊に追い込む革命に成功し、新大統領に就任するが、前任者に劣らない個人崇拝型の独裁体制となり、新たな内戦の中、2001年に護衛官によって暗殺された。

2:ポルトガル語圏諸国
 共産主義的な独立闘争組織が他名称共産党として独立後も持続的な成功を収めたのは、共にポルトガルから独立したアンゴラとモザンビークであった。両国は最も遅くまでアフリカ植民地の保持に執着したポルトガル本国のファシスト政権が74年の革命で崩壊したのを機に独立した。その独立闘争から独立後の政権までを一貫して担ったのは、マルクス‐レーニン主義を標榜する解放政党であった。
 アンゴラでは後に初代大統領となるアゴスティニョ・ネトらの知識人により56年に結成されたアンゴラ解放人民運動が、75年に独立を宣言した(77年、アンゴラ解放人民運動‐労働党と改称)。しかし、独立前から鼎立していた反共親米の二つの反政府ゲリラ組織との間で内戦に突入する。
 このアンゴラ内戦は米ソ代理戦の様相が強く、反政府ゲリラはアメリカやアパルトヘイト時代の南ア白人政権の支援を受け、ソ連とキューバの支援を受けるアンゴラ政府に対抗し、一進一退の内戦が冷戦終結をまたいで2002年まで続いた。この間の死者は300万人を超えるとされる。
 他方、モザンビークでは62年に結成されたモザンビーク解放戦線が75年の独立後政権党となるが、ここでも反共ゲリラ組織との間で内戦に陥る。しかしやはり南アに支援されたモザンビークの反政府ゲリラは残忍な暴力的活動が多く、支持は広がらず、こちらも100万人と言われる死者を出しながら、アンゴラより一足早い92年に内戦は終結する。
 内戦終結後の両国は共に憲法上は複数政党制を採りつつ、独立以来の解放政党が政権党の座にあるが、すでにマルクス‐レーニン主義を離れて市場経済原理の導入を通じた経済開発路線に転じ、とりわけアンゴラは油田開発を基盤に2000年代に高い経済成長を示した。
 これは、両国の支配政党がマルクス‐レーニン主義を標榜していた当時から比較的柔軟な現実主義路線を採用し、スターリン主義的な独裁者も出現しなかった幸運による。とはいえ、長年にわたる内戦の後遺症に加え、長期政権は市場経済化の中で政治腐敗を助長している。


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