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世界共産党史(連載第17回)

2014-07-22 | 〆世界共産党史

第8章 アフリカ大陸への浸透

3:エチオピア革命の破綻
 アフリカ大陸で唯一、社会主義革命と呼び得る出来事を経験したのは、エチオピアであった。エチオピアは西欧帝国主義の攻勢下で一時イタリアに占領されたが、イタリア・ファシスト政権の崩壊後、いち早く独立を回復する。とはいえ、長年にわたる独裁的な帝政国家であり、状況的にはロシア革命時のロシアと類似していた。
 1970年代に入ると、少数民族の反乱や、大干ばつにオイルショック後の物価高騰などの政治経済的な情勢は悪化、反帝政デモが大規模化する中、74年に軍部の左派青年将校グループが決起し、帝政は打倒された。最後の皇帝ハイレ・セラシエは廃位され、翌年拘禁中に死亡したが、これは革命政権による超法規的処刑と見られている。
 ここまではロシア革命の経過と酷似するが、エチオピア革命の主体は共産党ではなく、上述したような左派青年将校であった。他名称共産党としては革命に先立つ72年に結成された人民革命党があったが、74年革命では脇役であった。そのため、革命政権は臨時軍政評議会(通称デルグ)を名乗る軍事政権の性格を持ったが、単純な非常時政権でもなく、75年以降、農業協同組織ケベレの設立など革命的な農地改革にも着手した。
 こうした中から、強硬派の青年将校メンギストゥ少佐が台頭し、77年までに革命政権の実権を掌握する。メンギストゥは77年から78年にかけて大々的な赤色テロを断行し、人民革命党を含む反対勢力を大量粛清して独裁体制を固めた。彼は、エチオピアのスターリンとなった。
 メンギストゥ体制はソ連型の国家社会主義を志向し、強権を発動して企業や土地の急激な国有化を進めていった。しかし、一方で少数民族を主体とした内戦が勃発しており、干ばつにも見舞われ大規模な飢餓が発生した。ただ、隣国ソマリアとの領土紛争ではソ連やキューバの支援を得て勝利を収めた。
 メンギストゥは盟主国ソ連の圧力もあり、84年になってようやく他名称共産党としての労働者党を設立し、自ら大統領に就任して形の上では民政移管を実行したが、この隠れ蓑はかえって自己の権力基盤を弱める結果となった。冷戦終結後は反政府勢力の攻勢が一挙に強まり、政権は91年5月、盟主国ソ連の解体に先立って崩壊、メンギストゥ大統領はジンバブエに亡命した。
 結局、メンギストゥ政権下では数十万単位の粛清が行われ、内戦と干ばつで100万人を超える難民が発生した。新政権はメンギストゥを人道に対する罪などで起訴、有罪死刑判決が出されているが、彼は今なお類似の社会主義独裁体制が続く亡命先ジンバブエで庇護されている。
 こうして、エチオピア革命はロシア革命と類似の経過をたどりつつも、実効的な党組織が欠如していたため、軍政の性格を脱することができないまま、スターリンの大粛清同様の惨事に飢餓難民化というアフリカ的な副産物が付加される悲劇だけを残して、破綻したのであった。

4:反アパルトヘイト闘争
 アフリカにおいて、共産党が平和的革命の中で間接的にポジティブな役割を果たした稀有の事例が、南アフリカ旧白人政権の人種差別政策に抵抗する反アパルトヘイト闘争であった。
 南アフリカ共産党は1921年に結成され、当初は白人労働者を主体とする政党であったが、コミンテルンの指示で20年代から黒人党員の組織化と黒人国家樹立を活動方針に採用する。しかし、40年代以降非現実な黒人国家樹立方針を放棄すると、反アパルトヘイト闘争の中心団体であったアフリカ民族会議(ANC)と共闘するようになった。
 白人政権が50年に共産主義者抑圧法を制定して、共産党を非合法化すると、党は公式にANCの内部で活動するようになる。その結果、白人政権はANCそのものを共産主義団体として抑圧対象とするようになり、「反アパルトヘイト=共産主義」という図式を作り出し、弾圧の口実とした。
 こうして政権側の弾圧が強まると、当初非暴力路線を採っていたネルソン・マンデラらANC指導部も武装闘争路線に転換していった。そうして結成されたANCの軍事部門ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)は共産党が主導した。特に長く同部門の参謀長を務めたユダヤ系白人ジョー・スロボ(後に共産党書記長)は、ANC急進派の理論的な指導者でもあった。
 こうした武装闘争方針への転換の結果として、ANC全体の指導者となっていたマンデラも62年に逮捕され、終身刑判決を受けて64年以降投獄を余儀なくされた。
 この間も、ANC自体は全体として中道左派的な包括団体の性格を保持するが、内部政党としての南ア共産党は結党以来の白人党員を通じて異人種間をつなぐと同時に、ANC内部の最も急進的なセクトとして、反アパルトヘイト闘争のエンジンのような役割を果たしていた。
 反アパルトヘイト闘争全体ではマンデラの存在感が圧倒的に大きかったが、90年にマンデラが釈放された後、アパルトヘイト廃止へ向けた和平交渉が進む中で、反発した白人極右政党議員らに暗殺された共産党書記長クリス・ハニは当時、黒人青年層の間では強い支持を受けており、マンデラに次ぐ人気を誇っていた。ハニの暗殺は、暗殺者の思惑に反し、その翌年に初の全人種参加選挙が実現するきっかけともなった。
 その結果、選挙戦に勝利したANCがついに政権与党に就くと、共産党もそのまま内部政党として与党入りし、閣僚も輩出した。ただ、アパルトヘイト廃止後は事実上の一党支配政党となったANCは新自由主義的な方向に流れており、内部政党としての共産党も本来の共産主義からは遠ざかり、長期政権に伴う利権腐敗の共同責任も免れない。


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