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「女」の世界歴史(連載第29回)

2016-06-13 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

④トスカーナ女伯の戦い
 封建制の時代、女性が内戦に関与することは時にあったが、外戦となるとさすがに稀有である。そうした中で、イタリア北部カノッサを本拠に、神聖ローマ皇帝の侵略に抵抗したトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサは例外的な存在であった。
 彼女は今日でもイタリア北部ロンバルディアにその名を残すゲルマン系ランゴバルド人を祖とするトスカーナ辺境伯家の出身であったが、幼少期に父を暗殺により失った後、母の再婚相手ロートリンゲン公ゴドフロワ3世の息子で、後の下ロートリンゲン公ゴドフロワ4世と幼くして婚約、後に結婚した。
 当時、堕落・腐敗したローマ教皇庁の権威が失墜していたことに付け入り、実力をつけ始めたドイツ王にして神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世がイタリア遠征に乗り出していた。これに対し、イタリアの実力者だったゴドフロワ3世は抵抗し切れず、家族を捨てて本拠ロートリンゲンに逃亡した。
 その結果、マティルデは母とともにハインリヒ3世に捕らわれてしまう。その間、跡取りの兄が急死したことから、マティルデがトスカーナ伯相続人となった。間もなく、ハインリヒ3世死去に伴い釈放され、しばらく平穏な生活を送った後、義父ゴドフロワ3世の死去を受けた69年にゴドフロワ4世と正式に結婚した。
 しかし、結婚生活は幸せなものではなかった。生まれた男児をすぐに失ったばかりか、政治的にも教皇支持派のマティルデに対し、夫はハインリヒ3世を継いだ神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を支持していた。夫妻は間もなく別居状態となった。
 ゴドフロワ4世は76年に暗殺されたが、この件にマティルデ自身が関与していたという説もあるほどである。いずれにせよ、マティルデが軍権も持った強力な女性領主として台頭してくるのは、夫の暗殺後、単独の女伯として大所領を手にしてからである。
 当時のローマ教皇グレゴリウス7世は「グレゴリウス改革」として知られる一連の教会改革によって教会の権威の回復に努めつつ、父の遺志を継いでイタリア支配を図るハインリヒ4世との激しい叙任権闘争を展開していた。
 この間、マティルデは終始一貫してグレゴリウスを支持し続けた。それを象徴する事件が、1077年、ハインリヒ4世がマティルデの居城カノッサ城に滞在していたグレゴリウス7世による破門措置の解除を請うため、城門で裸のまま断食と祈りを続けたという「カノッサの屈辱」であった。この件で、マティルデはグレゴリウスを庇護するとともに、赦免の仲介役も務めたとされる。
 しかし、ハインリヒ4世の謝罪はうわべだけのもので、カノッサ事件後、イタリア遠征を再開した。これに対し、マティルデは教皇派を束ねて武力抵抗した。その結果、いったんは所領の大半を喪失する敗北を喫したが、間もなく反攻に転じ、1095年頃までに皇帝軍をイタリアから撃退した。
 1111年には、ハインリヒ4世を継いだ息子のハインリヒ5世との間で和議が成立、ハインリヒはマティルデに「皇帝代理兼イタリア副王」の称号を授与した。これによって、マティルデにイタリアの実質的な最高実力者の地位が認められたのであった。
 こうして生涯を教皇防衛戦争に捧げたマティルデは1115年、相続人なくして死去した。その結果、彼女の遺産の所領は教皇領と皇帝領とに分割されたうえ、諸都市は自治都市として事実上独立し、後のルネサンス諸都市へとつながっていく。
 さらに、マティルデ死後の1122年には、長年にわたった叙任権闘争に終止符を打つ「ヴォルムス協約」が成立し、曖昧さを残しながらも、叙任権は教会に留保され、皇帝は俗権のみ掌握するという一種の政教分離原則が確立されたのである。


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