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戦後日本史(連載第28回)

2013-11-06 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

終章 「逆走」の行方:2009‐

〔二〕「逆走」の中だるみ

 民主党政権最初の首相に就いたのは、鳩山由紀夫であった。鳩山は55年体制最初の自民党首相となった鳩山一郎の孫に当たり、自民党議員を経て、新党さきがけ時代の同僚・管直人とともに民主党の共同創立者となった。
 ここで、安倍‐福田‐麻生‐鳩山と、政権交代をまたいで四代続けて父もしくは祖父が首相経験者という首相を輩出したのは、日本史と言わず、世界史上も異例―というより異常―であり、日本の戦後政治が議会制民主主義の衣を纏いつつ、議員職が特定の名望家系に世襲化されるブルジョワ寡頭政に近づいてきたことを示している。
 それはともかく、鳩山内閣は社民党を連立に引き込んだ関係上、一定のリベラル左派色を帯びていたが、このことが命取りとなる。鳩山内閣は沖縄の普天間基地移設問題をめぐり、自民党政権時代の日米合意で辺野古への移設が決まっていたのを覆し、県外移設の方針を打ち出したが、これは沖縄で一定の影響力を保持する社民党の主張に引きずられたに等しかった。
 当然にも米国政府及び外務省は強く反発し、外交交渉は難航、結局、鳩山内閣は県外移設を断念した。これに対し、県外移設にこだわる社民党閣僚が辺野古移設の最終的な日米合意の閣議決定への署名を拒否し罷免されたのを機に連立を離脱したことを契機に、鳩山内閣は10年6月、わずか9か月で総辞職となった。
 後任に就いたのは、党共同創立者の管直人であった。管は市民運動をバックとする小政党の出身であり、そうした経歴の首相としては史上初の異例な人物であったが、政治的には左派と右派の間を浮動する日和見で、ある意味ではイデオロギー的な軸が不明瞭な民主党を最も象徴する人物でもあった。
 管内閣は民主党が選挙公約に掲げた歳出抑制を通じた財政再建という方針を事実上覆し、自民党案に沿った消費増税の方針を突如打ち出したことで反発を買い、10年7月の参院選で与党は大敗、2年後の総選挙惨敗のきっかけを作った。
 こうして参議院では政権運営を困難にする野党主導の「ねじれ」が再び発生したところへ、管内閣は11年3月、福島第一原発事故を伴う東日本大震災という最大難局に直面する。
 管首相はとりわけ原発事故対応において、不適切な現場介入をしたとの批判を浴び、震災復旧対応でも被災者が満足する迅速な対応を打ち出せず、民主党政権への信頼を低下させるもとを作った。
 支持率が急落・低迷する中、結局、管内閣も11年9月をもって1年余りで総辞職となった。後任には野田佳彦財務相が昇格する形で就任したが、野田は政治歴や知名度では前二者に及ばず、役者不足の感は否めなかった。
 ただ、細川護熙元首相が率いた日本新党の流れを汲む野田は、信条面では保守色が強く、イデオロギー的には自民党に限りなく近い人物であった。
 実際、中国脅威論者の野田首相は、自民党政権時代にも棚上げされていた尖閣諸島領有の意思を明確にして同諸島の国有地化を実現し、その後の日中関係悪化のきっかけを作った。また消費増税の方針を管内閣以上に鮮明にし、野党自民党に歩み寄る姿勢を一段と強めた。
 結果的に、政権担当日数では野田内閣が鳩山・管両内閣を上回り、通算3年3か月間の民主党政権では最長となったが、この間、鳩山→管→野田の順で政権の保守色が順次強まり、自民党政権復活の下準備が整うのである。
 総じて言えば、民主党政権の3年3か月は「逆走」の中だるみ期間ではあったが、流れを本質的に止めることはなかった。ただ、「逆走」では従来自民党と競走関係にあり、小泉「改革」後の国家体制を承継した民主党に「逆走」を止める意思も能力もなかったのは無理からぬことではあった。


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