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近代科学の政治経済史(連載第2回)

2021-12-05 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ

近代科学の出発点を成す地動説。地球は宇宙の中心で静止し、太陽その他の惑星が地球の周囲を周回しているのではなく、地球が他の惑星とともに太陽の周囲を自転・公転しているのであるとする地動説は、その原論を作った学者の名を取って「コペルニクス的転回」と呼ばれるほど、それまでの普遍的な常識を覆す新理論であった。しかし、この理論は、後にカトリック教会によって抑圧されることになる。


地動説と教会当局

 近代科学の出発点に据えられる地動説の原点は元来、ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスが16世紀前半に構想をまとめた理論であるが、彼自身はその集大成となる主著『天球の回転について』の出版を長く渋り、死の直前1543年になって発表された。
 コペルニクスが出版をためらった理由は不明であるが、宗教上の理由よりも、従来、千年以上にわたって自然哲学上の常識化した定説であった天動説をひっくり返すことによって起きる学界からの猛批判を恐れたものと見られる。
 実際のところ、地動説は後に改めて地動説をより科学的な方法で証明したガリレオ・ガリレイ(以下、通例に従いガリレオと表記)が宗教裁判にかけられたことで、教会当局による禁止学説であったと理解される傾向にあるが、実際のところ、教会が天動説を公式見解としたことはなく、コペルニクスの主著も出版当初は教皇庁から禁書とされることはなかった。
 その点、コペルニクス自身もカトリック聖職者であったが、正式の司祭ではなく、終生下級職にとどまっており、その研究もほぼ科学的な分野に限定されていたことで、教会当局の特段の注意を引くことはなかったものと思われる。
 教会当局が地動説の抑圧に踏み出したのは、コペルニクスの没後、半世紀近くを経た教皇庁の膝元イタリアの司祭兼哲学者ジョルダーノ・ブルーノに対する異端審問が契機であった。ブルーノは当時の哲学者の常道として神学からスタートしているが、次第に汎神論的な宇宙観を提唱するようになり、教会当局から異端視されるようになる。
 ブルーノは天文学者ではなく、哲学者であったが、哲学的考察から宇宙論にも及び、その仮説的な性格から当時はまだマイナー学説であったコペルニクスの地動説を支持しつつ、宇宙の無限性を主張した。このようなブルーノ哲学は教会教義への挑戦とみなされ、ブルーノは異端審問にかけられることになる。
 ただし、ブルーノ告発の理由は、地動説そのものよりも、彼の神学理論や哲学体系全体にその重点があった。ブルーノがカトリック公認修道会ドミニコ会の司祭でもあったということも、身内の反逆として教会の逆鱗に触れる要素であったのだろう。
 結局、ブルーノは1592年に逮捕され、異端審問に付せられることになるが、審判が開始されたのは1600年に入ってからであった。異端審問の常として結論先取りの茶番であったから、自説の撤回に応じない限りは有罪であった。ブルーノは断固撤回を拒否したため、型通りに火刑に処させられた。
 この後、1603年に教皇庁はブルーノの全著作を禁書目録に登載したが、ブルーノも参照したはずのコペルニクスの著作は禁書とされなかった。結局のところ、ブルーノ裁判の時点では、教会当局はまだ地動説そのものの抑圧は意図していなかったということである。
 それが、後に地動説そのものを裁くかのようなガリレオ裁判に踏み込む理由は必ずしも明らかではないが、一つ注目されるのは、ブルーノ裁判の裁判官として有罪を宣告したロベルト・ベラルミーノ枢機卿がガリレオ裁判(第一回)も担当していることである。
 ベラルミーノは保守派の神学者としても知られた理論派の高位聖職者であり、特にプロテスタントの攻勢の中、プロテスタントとの論争の最前線に立ちつつ、カトリック改革に尽力したとして、20世紀に列聖されているほどの人物である。
 当初、地動説そのものに関心のなかった教会当局が地動説自体の抑圧に動くに当たっては、当時第一級の教会イデオローグであったベラルミーノのカトリック改革政策という教会政治上の動向が影響していたと考えられるところである。


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