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弁証法の再生(連載第18回)

2024-07-24 | 〆弁証法の再生
Ⅵ 現代的弁証法の構築

(17)弁証法の展開過程Ⅰ:遡行
 弁証法は、形式論理学に比して、動的なダイナミズムを帯びた論証法である。中でも、対立項を統一する止揚の思考過程では、形式論理学的には論理飛躍と言えなくもない思考操作が行われる。
 反面、この止揚を通じて、個別的なものを軽視する同一性思考にも結びつきやすい。それが政治思想に(不適切に)援用されると、全体主義に陥る危険がある。近代弁証法の二大巨頭ヘーゲルとマルクス双方にその危険が内包されている。このことは、アドルノが否定弁証法という弁証法の言わば脱構築へ赴いたゆえんでもあった。
 それに対して、西洋近代の弁証法とは全く異なる思考によって、ある種の弁証法を示したのが、東洋古典哲学の老子である。老子は、二項の対立が発生する以前の根源にまで遡って、原初的な同一性へ復帰しようとする。
 そうした老子哲学のエッセンスと言えるのが、「有と無と相い生じ、難と易と相い成り、長と短と相い形われ、高と下と相い傾き、音と声と相い和し、前と後と相い随う」の詩的な対句で知られる『老子道徳経』第二章の万物相同論である。
 有無、難易、長短、高下、音声、前後のような二項対立の発生源となる「何か」を、老子は「道(タオ)」と名付けた。老子はあらゆる事物の根源を「道」で説明するので、これもある種の同一性哲学と言える面はあるが、近代弁証法の前進的な止揚とは異なり、根源へと復帰する遡行的な思考操作による統一である。
 その限りで、老子の復帰の思考はある種の弁証法でもあるが、前進的な弁証法に対して、遡行的弁証法と名付けることができる。もちろん、老子は弁証法という用語を示してはいないが、二項対立の根源に遡る老子的思考は、弁証法を再生するうえで有力な一助となり得る。
 ただし、根源に遡行して仕舞いということではない。それだけでは、ある種の反動思想あるいは老子から派生した荘子のような神秘思想に傾き、実際、道教のような宗教実践に転化するからである。
 遡行的弁証法を現代社会に適用するためには、ひとたび対立の根源まで遡行したならば、今度はそこから一挙に反転・前進し、止揚するという前進的弁証法と同じ思考経路をたどらる必要がある。言い換えれば、止揚の前段階として遡行するという趣意である。
 そうすると、例えば、国家と個人の対立という基本的な問題にあっても、対立以前の国家なき原初の共同態(イメージとして、老子的小国寡民を想起してもよい)にひとたび遡行するが、そこから一挙反転し、国家という政治体によらずして個々が結ばれる新たな共同関係体へと止揚する道も拓かれてくるだろう。
 このような新たな共同関係体にあっては、個人を法令で縛って従わせるという強制は必要最小限度に限局され、むしろ社会を運営する個々の自発的な協力と責務とが強調されるようになるだろう。
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