ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産論(連載第7回)

2019-01-29 | 〆共産論[増訂版]

第1章 資本主義の限界

(5)共産主義は怖くない

◇二方向の限界克服法
  これまでの叙述の中で、集産主義に対して「勝利」した資本主義は暴走などしていないし崩壊もしていないものの、いくつかの重大な点で限界に達している、と論じてきた。この資本主義的限界を乗り超える方法としては、大きく二つの方向性が考えられる。
 一つは、資本主義の枠内で上述の限界を克服しようとする方向である。これを医療にたとえて言えば、資本主義の限界に対する内科的療法である。
 かつて風靡した福祉国家モデルも、資本主義を原理的に貫いていったときに発生する労働者階級の窮乏化を防止するために、資本主義の枠内で公的年金・保険のような生活保障制度を充実させる有力な内科的療法であった。
 しかし、福祉国家モデルは第一の根源的な限界として指摘した環境的持続性に関わる限界への対策とは元来無縁であるし、当該モデル自体も多くの諸国で財政的に揺らぎ始め、それ自身の「持続可能性」に黄信号がともっているが、今のところ、福祉国家モデルに代替し得る新たな内科的療法はまだ発見されていない。
 この点に関して近年、国家が税財源その他の国庫収入を引き当てとして全市民を対象に一律に一定金額を基礎的生活費として給付することを主旨とするベーシック・インカム(Basic Income:以下、BIと略す。)という制度構想が提唱され、一部の国では試行され始めている。
 従来の福祉国家が稼得に関しては「自助努力」を原則としつつ、失業や老齢、疾病など一定の事由が生じた場合にのみ国家が所得保障を行うのに対し、BIはそうした特別の事由のいかんを問わず、国家が一律的に全市民に定額の基礎的所得を保障する点で福祉国家モデルを超える「究極の生活保障制度」として宣伝されることもある。
 この究極の大盤振る舞いにはそれに必要な巨額財源を調達するために歴史的な大増税が欠かせないという問題があることは当然としても、資本主義の生活憲章とも言うべき一つの大法則に抵触してしまうという原理的な次元での問題もある。
 資本主義的生活憲章とは、「稼げ、然らずんば死ね!」である。すなわち資本主義的生活原理とは稼働能力ある限り、基礎的所得も含めてすべて自ら稼ぎ出さねばならない―利子や賃料のような不労所得がある場合などを除いて―ということにあるのだ。
 逆に言えば、資本主義とは稼得、つまりはカネを稼ぐ能力がすべてという主義なのである。よって、ひとはこの能力さえあれば自力で豊かな暮らしを享受することができるが、そうでなければいかに人格高潔・博学博識であろうとどん底生活、さらには餓死さえも甘受しなければならない・・・。
 それに対して、BIは稼ぐ能力を公的な最低所得保障で下支えしてやろうという思いやりの制度ではあるのだが、計算高い資本の側では、BIによる最低所得保障を口実に「便乗賃下げ」や「便乗リストラ」といった戦術を用意している―だからこそ、BIには経営者層の一部も同調している―ことも忘れることはできない。
 またBIの財源としても、「全ブルジョワ階級の共通事務を司る委員会」(マルクス)であるところの資本主義国家は、資本の税負担を増す法人増税のような「企業増税」ではなく、消費増税や所得増税―それも高所得者層の負担を増す累進課税強化でなく、低所得者層の負担を増す非課税条件の引き下げによる―のような「庶民増税」でかかってくることは確実である。してみると、BIが福祉国家モデルに代わる究極の内科的療法であるかは極めて疑わしい。
 さて、以上に対して、資本主義的限界を克服するもう一つの方向として、ここでの主題である共産主義が出てくる。これは資本主義システムそのものを根本的に切除しようという意味で、資本主義の限界に対する外科的療法と言えよう。
 歴史上、人類は様々な経済システムを試行してきて現時点では資本主義経済にほぼ落ち着いているように見えるが、まだ一度も試されたことのないシステム―考古学仮説上の「原始共産制」は別としても―、それが共産主義である。

◇共産主義のイメージ
 共産主義への移行などと聞けば、所有権の剥奪とか、画一的統制社会等々の悪いイメージが先行し、果ては旧ソ連のスターリンによる大粛清や世界を震撼させたカンボジアのクメール・ルージュ(カンプチア共産党)による大虐殺などを持ち出してネガティブ・キャンペーンが始まりかねない。
 しかし、真の共産主義は個人の所有物を一切合財接収したりはしないし、統制社会云々というのも共産主義とソ連型社会主義=集産主義とを意図的に、もしくは誤解に基づいて混同するものである。
 共産主義社会は、たしかに平等な社会である。しかし、その「平等」とは基本的な衣食住の充足に関する平等である。すなわち貨幣のような特殊な交換手段を持たなくとも、誰もが基本的な衣食住を充たすことができるように協力し合う社会である。そのような社会を「画一的」として断固拒絶する人がさほど多いとは思えない。
 共産主義社会とはそうした社会的協力、つまりは助け合いの社会である。従って、偽りでなく真正の共産主義社会ならば粛清や虐殺のような強制的排除が起こるはずもない。そのような暴力的排除政策は、正しい意味における共産主義ではなく、政治的な全体主義と結びついた集産主義の行き着く先だったのである。
 共産主義にまつわる否定的なイメージは、そのほとんどが東西冷戦時代、主として米国を盟主とする西側陣営で流布された反共プロパガンダの名残であって、それらが冷戦終結・ソ連邦解体後の今日でも必要に応じて古いアーカイブから時折取り出されてくるにすぎない。
 ここでは、そうしたプロパガンダに惑わされることなく、今後、21世紀半ばへ向けてますますあらわになるであろう資本主義の限界を直視しつつ、資本主義の次に来たるべき共産主義を、単なる社会思想としてでなく、資本主義的現実と対比させながら、より具体的・実践的な姿においてとらえてみたい。この課題を、続く六つの章で順次追求していくことにする。

コメント