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晩期資本論(連載第78回)

2015-12-07 | 〆晩期資本論

十六ノ2 ポスト資本主義の展望(1)

 『資本論』は全巻を通じて資本主義の構造分析の書であるため、資本主義の後に来るべき経済体制については、主題として展開していない。しかし、マルクスは所々で、ポスト資本主義体制の展望を抽象的な覚書きの形で述べている。特に、第一巻末では資本主義からポスト資本主義への転化が生じることを弁証法的定式によって示している。

資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である、しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。

 この簡潔な定式には、自分の労働にもとづく自給自足的な私有世界が否定されて、資本主義が成立するも、今度はその資本主義から自己否定的に生産手段の共同占有を基礎とする生産体制が発生することが言い表されている。そのような自己否定が生じるのは、以前にも引用したように、「生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達」した時である。マルクスは続けて、次のような時間軸を示している。

諸個人の自己労働にもとづく分散的な私有から資本主義的な私有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有から社会的所有への転化に比べれば、比べ物にならないほど長くて困難な過程である。

 これを裏返せば、資本主義は「事実上すでに社会的生産経営にもとづいている」ということになる。実際、マルクスは第三巻で、特に所有と経営が分離される株式会社の制度をもって社会的所有への過渡的形態とみなしていた。

それ自体として社会的生産様式の上に立っていて生産手段や労働力の社会的集積を前提している資本が、ここでは(株式会社では)直接に、個人資本に対立する社会資本(直接に結合した諸個人の資本)の形態をとっており、このような資本の企業は個人企業に対立する社会企業として現われる。それは資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止である。

 上掲の弁証法的定式で言われていた「否定の否定」とは、このように株式会社制度の段階に達した資本主義のことであった。言い換えれば、「これは、資本主義的生産様式そのもののなかでの資本主義的生産様式の廃止であり、したがってまた自分自身を解消する矛盾であって、この矛盾は、一見して明らかに、新たな生産形態への単なる過渡点として現われるのである」。

労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のなかでではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが。しかし、資本と労働の対立はこの協同組合工場のなかでは廃止されている。

 労働者たち自身の協同組合工場とは、「労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形で」運営される自主管理工場のことであり、マルクスはこの形態を株式会社からさらに一歩進んだ生産形態、資本と労働の対立が廃止されるポスト資本主義体制に向けた最初のステップとみなしていたようである。

このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのようにして自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。資本主義的生産様式から生まれる工場制度がなければ協同組合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展できなかったであろう。

 マルクスはこのように、労働者たちの自主管理工場も、資本主義的工場制度からの発展形態と規定し、その際に信用制度が重要な触媒となることを強調して、次のように総括する。

資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方では積極的に廃止されているだけである。

 しかし、その後の歴史の流れを見ると、マルクスが展望したように、「多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだんと拡張されて行く」ということにはならず、協同組合企業は未発達のまま、株式会社企業も次第に経営者専横型の権威主義的な生産形態として確立されるようになっている。
 株式会社形態からポスト資本主義へというマルクスの弁証法的展望はいささか楽観的に過ぎた面はあるが、マルクスも株式会社形態の限界性についてクギは刺していた。

・・・株式という形態への転化は、それ自身まだ資本主義的なわくのなかにとらわれている。それゆえ、それは、社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を克服するのではなく、ただこの対立を新たな姿でつくり上げるだけである。

 従って、さしあたり労働者の協同組合企業という次のステップに進むにはただ待つのみでは足らず、そこには何らかの人為的な変革という政治行動が必要とされるであろう。それはマルクスの言葉によれば、「民衆による少数の横領者の収奪」である。

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