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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

捕鯨と死刑

2014-04-02 | 時評

日本政府が国際社会の勧告・批判を押して強行してきた二つの殺生がある。その一つについては、一応の司法判断が下された。3月31日の国際司法裁判所での南極海調査捕鯨中止の判決がそれである。 

政府は判決に従うとしながらも、何らかの形で調査捕鯨の継続を探っていくらしい。今回の判決は調査捕鯨を全面的に禁ずるものではなく、日本政府が主張する調査の科学性を否定するというものであったから、継続の技術的な理由をひねり出すのは不可能ではないかもしれないが、そうまでして鯨殺しに執着するのはなぜなのか。

現在漁業全体の中で大きなウェートを占めているとは言えない捕鯨産業を維持したいためだろうか、それとも庶民の食卓に日常並ぶことのない美食の鯨食文化を護持するためだろうか。

どちらにせよ、調査捕鯨をやめることが日本にとって重大な死活問題とは思えない以上、国際的には批判の多い調査捕鯨を中止することは決して大きな不利益にはならず、むしろ国際的な評価を高めるだろう。

日本政府が決して手放さないもう一つの殺生は、死刑である。こちらは国連が人権裁判所の制度を持たないため、行政的な人権委員会での拘束力のない勧告にとどまり、判決の形にならないのをよいことに、政府は簡単に従わないことができる。

ただ、近い将来、死刑廃止に積極的な欧州諸国を中心に、死刑執行をある種の反人道的国家犯罪とみなして、日本の法相らを欧州の裁判所などに起訴するというような奇策が飛び出してくる可能性もなくはない。

捕鯨も死刑も賛成する側にとっては、たかが動物あるいは動物並みの犯罪人を正当な理由に基づいて殺すだけだという認識かもしれない。だが、どちらも哺乳類の殺生である。哺乳類の殺生には、いかに「正当な理由」があろうと、倫理的な抵抗を感じるというのも、一つの人間的な感情なのではないか。

もっとも、反対者も豚や牛のような哺乳類は平然と殺して食べているではないかという反駁もあり得る。だが、豚や牛でもの場面を見た後では食欲を失うということは大いにあり得ることであるし、者も無感情ではないはずである。 

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死刑再審の明と暗

2014-04-02 | 時評

3月末に相次いで出された二つの死刑確定事件に対する再審請求審で、一つは再審開始・釈放、もう一つは棄却と明暗を分ける司法判断が下された。

明の判断となったのは、静岡県下で1960年代末に起きた一家強盗殺人事件で死刑が確定していた袴田死刑囚の再審開始・保釈決定である。死刑確定から34年、逮捕から48年ぶりの釈放であった。

暗の判断は、袴田決定から4日後の31日、福岡県下で1990年代初頭に起きた女児誘拐殺人事件で死刑が確定し、2008年に死刑が執行された故・久間死刑囚に対する死後再審を棄却する決定である。

両者の判断が分かれた技術的な理由は、袴田事件では辛うじて衣類に残されていた血液のDNA型に関する最新技術での再鑑定が決め手となったのに対し、飯塚事件では鑑定試料が使い切られるという不当な扱い―それ自体、再鑑定を不能にする隠蔽の疑いもある―のゆえに再鑑定ができなかったことにあろう。

ただ、飯塚事件のDNA鑑定は先に再審無罪が確定していた類似の足利事件(無期懲役事件)と同じ旧式の手法と鑑定者とによって行われており、その鑑定の信頼性に重大な疑義が生じていたところ、裁判所はDNA以外の証拠で十分有罪は裏づけられるという肩透かしの論法で棄却したのだった。

もしも飯塚事件が再審無罪となれば、日本司法史上初の死刑執行後の冤罪判明事例であり、死刑廃止論を勢いづかせる大失態となる。これは死刑存置に執着する司法部を含めた日本支配層にとって由々しき事態であり、何としても阻止したい。久間氏への死刑執行が判決確定からわずか2年、足利事件の再審が動き出したタイミングで断行された事実を含め、そうした支配層暗黙の集団的意思をさら感じさせる決定であった。

他方、およそ半世紀ぶりに自由の身となった袴田氏にしても、検察の即時抗告に基づく抗告審で逆転・再審不開始となる危険がなお一定残されている。しかし、こちらはとにもかくにも袴田氏が存命しているので、史上5件目となる死刑再審無罪も半ば覚悟できているというわけだろう。

実際、生きているからこその冤罪救済なのであって、たとえ将来、飯塚事件でも再審無罪となったとしても、本人はもうこの世にいないのだから、救済にならないのである。

死刑制度は再審制度と決して両立しない。どちらか一方を取るしかない。健全良識は前者を捨て、後者を取るだろうが、権力意識は後者を捨て、前者にしがみつくのだ。

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