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世界共産党史(連載第3回)

2014-04-24 | 〆世界共産党史

第1章 近代共産党の始まり

3:マルクスらの活動と挫折
 空想的な社会実験に終始した初期共産主義者を克服しようとした近代的共産主義者マルクスとエンゲルスは、当面する資本主義経済体制の学理的な分析に重点を置き、自ら共産党の結成に動くことはなかったとはいえ、生涯に一度だけ共産主義者団体の結成に関わったことがあった。
 それは1846年から翌年にかけてのこと、その名を「共産主義者同盟」と言った。これは政党というよりも、ヨーロッパ各国の共産主義者を集めた同盟組織であって、有名な『共産党宣言』も、この組織の綱領的文書として企画されたものであった。折から1848年、欧州各国で民主革命の波―諸国民の春―が起きると、まだマイナーな存在にすぎなかったマルクスらの共産主義運動にもいっとき道が開かれたのだった。
 この組織が持続していれば、史上初の近代的な国際共産党組織に発展したかもしれなかった。だが、時勢はそれを許さなかった。「諸国民の春」が反革命保守派の巻き返しで順次挫折していくと、1850年以降、同盟本部のあったケルンでプロイセン公安当局が同盟関係者の検挙に乗り出したのだった。マルクスは逮捕を免れたものの、国外退去命令を受け、パリ経由でロンドンへの亡命を余儀なくされた。結局、同盟は52年に解散、その命脈は結成からわずか5年で尽きたのだった。
 これ以降、共産主義者に対する欧州各国の取り締まりは厳しくなり、共産主義を標榜する活動そのものが危険にさらされた。そのため、表立った共産主義運動は不可能であり、それは労働者インターナショナルのような非政党的な労働運動内に潜り込むことによってしか生き延びられなかった。共産主義者にとって、19世紀後半の半世紀は冬の時代であった。

4:ドイツ社会民主党の結成
 転機は、マルクス死後の1890年になって起きた。マルクスの祖国ドイツで社会民主党が結成されたのである。この党はもともとマルクス存命中の1875年に結党されていたドイツ社会主義労働者党(社労党)が改名されたものであるが、結党当初はマルクス理論を採用せず、マルクスの論敵であった穏健な労働運動家ラサールの理論に基づいていたため、マルクスは論説『ゴータ綱領批判』で、同党綱領に対する痛烈な批判を展開したほどであった。
 しかし、当時のドイツではマルクス理論に基づく急進的な政党の結成はおろか、社労党ですらプロイセン当局によって弾圧の対象とされるという時代であった。しかし、社労党は弾圧の中を生き延び、巧みな選挙戦術で1890年以降、議会政党として伸張していく。1891年には党名変更後の新綱領でついにマルクス理論を採用した。史上初めてのいわゆるマルクス主義政党の誕生である。
 とはいえ、同党は共産党を名乗ることはなかったし、さほど急進的でもなかった。その理由として、社民党綱領の起草に助言を与えたエンゲルスがマルクスの理論を意識的に「科学的社会主義」と呼んでいたことがあった。また、いかに社民党が伸張しようと、当時の時勢上急進的な共産主義政党の結成はなお弾圧される危険があった。
 こうした事情から、ドイツ社会民主党をもって最初の共産主義政党とみなすことはできないが、この政党の直接間接の影響下で、やがてロシアをはじめ欧州各国の共産党組織が生まれていくことはたしかなことである。

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