goo blog サービス終了のお知らせ 

ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第20回)

2015-01-12 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(3)

 マルクスは、労働時間の延長によって生み出される絶対的剰余価値と生産効率の向上によって生み出される相対的剰余価値とを区別したうえ、相対的剰余価値生産のための具体的な方法として、協業、分業、機械制工業の三つを歴史的に俯瞰している。現代は工業社会を超えた情報社会とも規定されるが、その情報社会の基底に機械制工業があることに変わりない。

そのほかの労働の生産力の発展がどれでもそうであるように、機械は、商品を安くするべきもの、労働日のうち労働者が自分自身のための必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきものである。それは、剰余価値を生産するための手段なのである。

 マルクスは発達した機械を動力機、伝導機構、作業機の三つに分けて考察するが、とりわけ作業機の変革に注目している。晩期資本主義を象徴する作業機は電脳(コンピュータ)である。それは単に労働作業を効率化するのみならず、人間の脳を一部代行するまでになっている。

機械は、筋力のない労働者、または身体の発達は未熟だが手足の柔軟性が比較的大きい労働者を充用するための手段となる。それだからこそ、女性・児童労働は機械の資本主義的充用の最初の言葉だったのだ!こうして、労働と労働者とのこのたいした代用物は、たちまち、性の差別も年齢の差別もなしに労働者家族の全員を資本の直截的支配のもとに編入することによって賃金労働者の数をふやすための手段となったのである。

 コンピュータ化は筋力のみならず頭脳をも必要としなくなったため、労働力における性差や年齢差がますます問題にならなくなりつつある。資本が「男女平等」を表面上唱えることの裏にはそうした事情が隠されている。とはいえ、賃金水準における性差は歴然と残されているが、そのからくりは労賃に関する箇所で明かされる。

機械は、労働の生産性を高くするための、すなわち商品の生産に必要な労働時間を短縮するための、最も強力な手段だとすれば、機械は、資本の担い手としては、最初はまず機械が直接にとらえた産業で労働日をどんな自然的限界を越えて延長するための最も強力な手段になる。

 機械は作業効率の向上により時短につながる可能性を持つ一方で、資本家にとっては機械作業によるいっそうの生産力増強への動機を搔き立てるため、かえって労働時間の延長が生じる。しかし労働時間を「どんな自然的限界を越えて延長する」ことは、さすがに現代では労働法によって制限されている。

しだいに高まる労働者階級の反抗が国家を強制して、労働時間の短縮を強行させ、まず第一に本来の工場にたいして一つの標準労働日を命令させるに至ったときから、すなわち労働日の延長による剰余価値生産の増大の道がきっぱりと断たれたこの瞬間から、資本は、全力をあげて、また十分な意識をもって、機械体系の発達の促進による相対的剰余価値の生産に熱中した。

 つまり機械化を促進し、「労働の生産力を高くすることによって、労働者が同じ労働支出で同じ時間により多くを生産することができるようにする」というやり方である。つまり、労働日の延長に対して労働の強化である。

労働日の短縮は、最初はまず労働の濃縮の主体的な条件、すなわち与えられた時間により多くの力を流動させるという労働者の能力をつくりだすのであるが、このような労働日の短縮が法律によって強制されるということになれば、資本の手のなかにある機械は、同じ時間により多くの労働を搾り取るための客体的な、体系的に充用される手段になる。

 マルクスはそうした相対的剰余価値を搾取する手段としての機械の利用法として、機械の速度を速めることと、労働者の作業範囲を拡張することの二つを区別するが、コンピュータ化はその両方法を同時に適用することを可能にした。

・・・大工業の諸部面で異常に高められた生産力は、じっさいまた、他のすべての生産部面で内包的にも外延的にも高められた労働力の搾取をともなって、労働者階級のますます大きい部分を不生産的に使用することを可能にし、したがってまたことに昔の家内奴隷を召使とか女中とか従僕とかいうような「僕婢階級」という名でますます大量に再生産することを可能にする。

 機械化の進歩は熟練労働者を必要としなくなるため、「不生産的な」未熟練労働者への置き換えが進む。労働力の非正規化はそうした流れの究極地点である。反面で、給仕的な労働に従事する者を増やす。マルクスの時代の英国では貴族・ブルジョワの邸宅で雇用される使用人であったが、現代なら各種サービス産業に従事する接客労働者がそれに当たる。

コメント

晩期資本論(連載第19回)

2014-12-31 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(2)

労働時間の延長、すなわち長時間労働は剰余価値生産の最も端的な方法であるが、それはモデル的な方法論にとどまり、実際にはさほど単純な話ではない。

・・・必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本の労働過程をその歴史的に伝来した姿または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長するだけでは、けっして十分ではない。労働の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的な社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。

 経営者であれば、誰もが経験的に知っているイノベーションの必要性である。イノベーションは生産効率を上げるが、その真の隠された目的は労働力の価値の引き下げにあり、それは剰余価値の生産の現実的な二つ目の方法になる。

労働日の延長によって生産される剰余価値を私を絶対的剰余価値と呼ぶ。これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ。

 簡単に言えば、長時間労働による搾取で生み出される剰余価値が絶対的剰余価値であり、生産効率を上げることで生み出される剰余価値が相対的剰余価値である。相対的というのは、必要労働時間の短縮により、絶対的な剰余価値は減少しているかに見えながら、剰余労働は延長され、実質上は長時間働かせたのと同等かそれ以上の剰余価値を生産していることを意味している。

・・・新しい方法を用いる資本家が自分の商品を1シリングというその社会的価値で売れば、彼はそれをその個別的価値よりも3ペンス高く売ることになり、したがって3ペンスの特別剰余価値を実現する。

 ここでマルクスが挙げている事例は、一労働時間=6ペンス(半シリング)相当、商品一個の原料その他生産手段も6ペンスと想定して、12時間労働で商品12個を生産していたものを、イノベーションにより12時間労働で24個生産できるようになったいう場合、生産手段の価値が不変なら一個の商品の個別的な実質価値は1シリング(12ペンス)から9ペンスに低下するが、このうち生産手段相当の6ペンスを引いた残り3ペンスが新たに付加された価値となるというものである。この商品を資本家が1シリングで売るとすると、3ペンス分が特別剰余価値として実現される。これが、相対的剰余価値のからくりである。資本家の経験的な観点で言えば、安売り競争である。

ある一人の資本家が労働の生産力を高くすることによってたとえばシャツを安くするとしても、けっして、彼の念頭には、労働力の価値を下げてそれだけ必要労働時間を減らすという目的が必然的にあるわけではないが、しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである。

 資本家・経営者がどこまで理論上明確に意識しているかはともかく、従来、資本主義の全盛期には、技術革新が高度化するとともに、労働時間の規制も進み、相対的剰余価値の生産が安定的に行なわれてきたが、資本のグローバルな競争の激化した晩期資本主義にあっては―技術革新も一段落し、限界に達しつつある―、再び労働時間の延長による絶対的剰余価値の生産も展開され、両者が組み合わさってきている。

コメント

晩期資本論(連載第18回)

2014-12-30 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(1)

 今年11月時点で、日本における非正規労働者が2000万人、役員を除く被用者のおよそ4割に到達したという(総務省調査)。雇用状況改善の中身が、非正規雇用形態の増加にあることを裏づけている。こうした労働者の地位の弱化は晩期資本主義の典型的な特徴であり、マルクス的な視座からみれば、資本間の生き残り競争が激しさを増す中で、資本が剰余価値の効率的な生産のために躍起となっていることを示している。

・・・資本にはただ一つの生活衝動があるだけである。すなわち、自分を価値増殖し、剰余価値を創造し、自分の不変部分、生産手段でできるだけ多量の剰余労働を吸収しようとする衝動である。

 マルクスは続けて、「資本はすでに死んだ労働であって、この労働は吸血鬼のようにただ生きている労働の吸収によってのみ活気づき、そしてそれを吸収すればするほどますます活気づくのである。」といつになくオカルト的な描写すらしている。しかし、これが資本の自然な性質であって、資本に悪意はない。

・・・本質的に剰余価値の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の萎縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的および肉体的な発達と活動との諸条件を奪われるのであるが、それだけではない。資本主義的生産は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産する。それは、労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間のなかでの労働者の生産時間を延長するのである。

 剰余価値の生産は、最も端的には労働日(時間)の延長によって達成される。これは絶対的剰余価値の生産とも言い換えられる。その重大な結果は、過労/過労死である。
 年末に発表された政府系研究機関の調査によると、「心の不調」により退職した労働者は13パーセントに上り、中でも非正規労働者の割合が高いという。「体の不調」まで合わせれば、もっと高い率の退職者がいるだろう。晩期資本主義はこうして「労働力そのものの早すぎる消耗と死滅」を加速させることでも、墓穴を掘り進んでいる。

・・・資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争―総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争―として現れる。

 労働時間の延長によってより多くの剰余価値を生産しようとする資本に対して、労働者側は労働時間を適正な範囲に制限しようとすることから、資本家と労働者の闘争が始まる。この図式は基本的に晩期資本主義においても不変であるが、晩期には労働者階級側の闘争力の低下が目立つ。団結性の弱い非正規労働者の増加は、その原因でもあり、結果でもある。
 マルクスの時代には、非正規労働に相当するのは少年と女性の労働であったが、そうした搾取労働の結果引き起こされる事態として、パンに明礬を混ぜたりする不純製造や鉄道事故の頻発の例が挙げられている。現代でも、食品偽装事件や交通機関の重大事故の背後には搾取の構造がある。

標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行なわれていた内乱の産物なのである。

 今日、多くの資本主義国で労働時間の規制を軸とする労働基準法が制定されている。こうした規制は決して自然発生したものではなく、資本家vs労働者の闘争の結果として生まれたものであった。
 しかし、晩期資本主義においては、こうした闘争の歴史も忘れられかけており、「労働ビックバン」などの名において再び労働時間規制が骨抜きにされようとする揺り戻し現象が起きている。晩期資本主義は労働基準法が欠如していた18世紀ないし19世紀とは異なり、法がありながら、労働者の対抗力の弱化のために絶対的剰余価値の生産が再び活発になり始めた時期とも言えるだろう。

コメント

晩期資本論(連載第17回)

2014-12-16 | 〆晩期資本論

三 搾取の構造(6)

 生産物の価値a=不変資本c+可変資本v+剰余価値mという基本定式のうち、c+vが前貸し資本の総額Cであるが、これに剰余価値mが付加されて増殖された資本 C'が得られる。ただ、cは不変資本価値がそのまま生産物価格に移転するだけであるので、これを捨象すると、価値生産物v+mが残る。この縮小定式のうち、mをvで割った商、すなわち「可変資本の価値増殖の割合、または、剰余価値の比例量」が剰余価値率を示す。

可変資本の価値はそれで買われる労働力の価値に等しいのだから、また、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定しており、他方、剰余価値はまた労働日の超過部分によって規定されているのだから、そこで、可変資本にたいする剰余価値の比率は、必要労働にたいする剰余労働の比率であ(る)。

 価値を時間の凝固として把握するマルクスの理論に従えば、ここで言う必要労働/剰余労働とは、それぞれ必要労働時間/剰余労働時間の対象化として把握されるが、この場合、必要労働時間とは「労働力という独自な商品の生産に必要な労働時間」―生活及び生殖に必要な労働時間―の意味であり、これまでの「一般に一商品の生産に社会的に必要な労働時間」の意味ではないと注記されている。つまり、同じ術語が二重の意味で用いられるという煩雑な説明となっている。ただ、労働力を一つの無形的な「商品」とみなすのであれば、両者は実質的に同じことを言っていることになる。

それゆえ、剰余価値率は、資本による労働力の搾取度、または資本家による労働者の搾取度の正確な表現なのである

 一番単純な例で言えば、必要労働6時間、剰余労働6時間なら、剰余価値率すなわち労働搾取度は100パーセントであり、必要労働の倍働かせる完璧な搾取となる。もちろん100パーセントを越えるような超搾取も想定できる。反対に、搾取度は100パーセント未満であっても、労働内容が過酷であれば、実質的な搾取度は高度であることもあり得るので、この指標はあくまでも形式的な尺度にとどまるが、マルクスの労働分析では最重要のキー概念となる。

・・この剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態だけが、いろいろな経済社会構成体を、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から、区別するのである。

 奴隷制は、人身そのものを商品として売買の対象とし、主人が所有・使役することで成り立つ経済社会体であるのに対し、資本制は、自らの労働力を商品として売る労働者に、その買い手である雇用主が剰余労働を強いることで成り立つ経済社会体であることが、確認される。

必要労働時間と剰余労働時間との合計、すなわち労働者が自分の労働力の補填価値と剰余価値とを生産する時間の合計は、彼の労働時間の絶対的な大きさ―一労働日(working day)―をなしている。

 残業習慣のある社会の労働者ならば、この理は経験的に理解されるであろう。ただし、剰余労働=残業ではない。残業は典型的な剰余労働となり得るが、残業代が支払われる限りでは完全な不払い剰余労働ではない一方、残業なしでも、本業の長時間化によって実質的な不払い剰余労働が生じていることもある。

☆小括☆
以上、「三 搾取の構造」では、『資本論』第一巻第四章「労働力の売買」の積み残しから始めて、第五章「労働過程と価値増殖過程」、第六章「不変資本と可変資本」、第七章「剰余価値率」までを参照しながら、マルクスの解析に沿って資本主義的労働搾取の構造を見た。

コメント

晩期資本論(連載第16回)

2014-12-15 | 〆晩期資本論

三 搾取の構造(5)

マルクスは剰余労働による資本の価値増殖という「貨殖の秘密」を解明しようとしたが、それをより抽象度の高い法則として定式化していく前提として、ある仮定をする。

・・・どの価値形成過程でも、より高度な労働はつねに社会的平均労働に還元されなければならない。たとえば、一日の高度な労働はx日の単純な労働に。つまり、資本の使用する労働者は単純な社会的平均労働を行なうという仮定によって、よけいな操作が省かれ、分析が簡単にされるのである。

 この仮定において、マルクスは複雑な高度労働を単純労働の倍数的集積として単純化していることがわかる。しかし、複雑労働ほどまさに複雑な内容を持ち、単純労働の倍数では表せないものである。晩期資本主義ではそのウェートが高まっている知識労働では特にそうである。また、多種類の労働について社会的平均労働なるものを平均値として正確に算出することは労働という営為の性質上困難であり、まさに仮定とならざるを得ない。このように分析を簡単にするために、二重の仮定操作が行なわれることで、マルクスの定式はいささか現実の資本主義労働の実態とずれた観念論に踏み込んでいくことにもなる。

労働者は、彼の労働の特定の内容や目的、技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値を諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、みいだす。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。

 先の仮定どおり、労働の内容等を捨象した「単純化」により、価値増殖過程についてより抽象度の高い定式化へ進もうとしている。ここで言われる生産手段の価値移転は、労働過程の中で行なわれることを指摘しつつ、マルクスはその仕組みを縷々検討し、次の定式を抽出する。

 ・・・生産手段すなわち原料や補助材料、労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。

 例えば、マルクスが例に取る紡績でいうと、綿花や紡錘などの生産手段が含有する価値量は、綿糸という生産物にそのまま移転される。ただし、「不変資本の概念は、その諸成分の価値革命をけっして排除するものではない」。例えば、1ポンドの綿花が今日は6ペンスであるが、明日は1シリングに値上がりすることは当然あり得るが、「この価値変動は、紡績過程そのものでの綿花の価値増殖にはかかわりがない」。つまり、不変資本であることに変わりない。

 これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化して行く。それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。

 剰余価値論を踏まえた定式化である。つまり、「労働過程は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象につけ加えられる点を越えて、なお続行される。この点までは六時間で十分でも、それではすまないで、過程はたとえば一二時間続く。だから、労働力の活動によってはただそれ自身の価値が再生産されるだけでなく、ある超過価値が生産される」。すなわち剰余価値であり、このような価値増殖をもたらす資本部分が可変資本と抽象化されたことになる。

 以上の不変/可変資本の関係を記号的に表すと、不変資本c、可変資本v、剰余価値mとして、生産物の価値a=c+v+mなる基本定式が得られる。
 ちなみに、この不変資本と可変資本の割合は、技術革新によって大きく変動することがある。マルクスが挙げている例でいえば、従来は10人の労働者がわずかな価値の10個の道具で比較的少量の原料を加工していた町工場的な経営から、1人の労働者が1台の高価な機械で100倍の原料を加工する最新工場に転換された場合、不変資本の価値量は飛躍的に増大するが、可変資本は逆に大幅に減少する。
 この資本構成の割合の変化は、不変/可変資本の相違自体には影響しないが、しかし、搾取の割合には影響してくる。この問題が次の課題となる。

コメント

晩期資本論(連載第15回)

2014-12-02 | 〆晩期資本論

三 搾取の構造(4)

 前回見たように、マルクスによれば、「労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である」のであった。この命題をさらに詳細に解明することが、『資本論』の本題である。その前提として、労働力が資本家に消費される過程で見られる二つの現象について整理される。

労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。・・・・・・第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接生産者である労働者のものではない。

 資本主義社会に生きている者たちにとっては釈迦に説法であるが、労働者は資本家の指揮命令に背くことはできず、自分が生産した製品を無断で持ち帰れば、窃盗罪に問われる。この点で、自らの判断に従って労働し、自ら生産した製品はまず自分の所有物となる自営業者とは大きく異なるわけである。

・・・われわれの資本家にとっては二つのことが肝要である。第一に、彼は交換価値をもっている使用価値を、売ることを予定されている物品を、すなわち商品を生産しようとする。そして第二に、彼は、自分の生産する商品の価値が、その生産のために必要な諸商品の価値総額よりも、すなわち商品市場で彼のだいじな貨幣を前貸しして手に入れた生産手段と労働力との価値総額よりも、高いことを欲する。

 今度は、資本家の視点で見た資本主義生産過程であるが、要するに、資本家は「ただ使用価値を生産しようとするだけではなく、商品を、ただ使用価値だけではなく価値を、そしてただ価値だけではなく剰余価値をも生産しようとするのである」。

価値形成過程と価値増殖過程とをくらべてみれば、価値増殖過程は、ある一定の点を超えて延長された価値形成にほかならない。もし価値形成過程が資本の支払った労働力の価値が新たな等価によって補填される点までしか継続しないならば、それは単純な価値形成過程である。価値形成過程がこの点を超えて継続すれば、それは価値増殖過程になる。

 マルクスが挙げているいささか古典的な紡績労働の例―彼の時代には典型的な資本主義的労働であった―で言えば、こういうことである。
 20時間で生産される10シリングの綿花10ポンドと、4時間で生産される2シリングの紡錘四分の一個分を使い、必要労働6時間の紡績労働による付加価値3シリングとして、計30時間で15シリングの綿糸10ポンドを生産する場合(賃金は日当換算で6時間3シリング)、資本家は生産手段としての綿花と紡錘で計12シリング、紡績工の労働力に3シリング、総計15シリングを投資して、15シリングの綿糸10ポンドを生産していることになるが、これではプラスマイナスゼロであり、価値増殖が何ら生じない。資本制企業で、このような経営を続けるなら、倒産は時間の問題である。
 これに対して、40時間で生産される20シリングの綿花20ポンドと、8時間で生産される4シリングの紡錘二分の一個分を使い、12時間の紡績労働による付加価値6シリングとして、計60時間で30シリングの綿糸20ポンドを生産する場合(賃金は同じく日当3シリング)、資本家は生産手段の綿花と紡錘で計24シリング、労働力に3シリング、総計27シリングを投資して、30シリングの綿糸20ポンドを生産しているので、ここで3シリングの価値増殖が生じ、これがいわゆる剰余価値となる。
 つまり、資本家は前の事例と比べて、紡績労働で倍働かせることで付加価値を生み、差額の3シリングを搾取したことになる。倍増した12時間労働のうち、最初の必要労働6時間を越える部分は剰余労働となる。つまり、長時間労働である。
 このように、労働力の価値を示す必要労働時間を越えた労働を強いることは、資本が剰余価値を搾取する仕掛けである。ただ、従来の資本主義(修正された資本主義)では労働時間規制により、このような極端な長時間労働を強いることはできなくなっていたし、晩期資本主義でも基本的に労働時間規制は継承されているが、近年の「労働ビッグバン」により、労働時間の規制緩和という逆行現象が生じることで、再びマルクス的な意味での剰余労働は増加しつつあると言えよう。

コメント

晩期資本論(連載第14回)

2014-12-01 | 〆晩期資本論

三 搾取の構造(3)

労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払いを受ける。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。

 労働力という商品の売買の特殊性を言い表す命題である。ここでマルクスが挙げているのは週給の例であるが、月給であれば報酬の支払は月末であるから、労働力の使用価値は一月近くも前貸しされることになる。マルクスは、もう少し抽象化して、「労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのである、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。」とも言い換えている。

労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。

 『資本論』の根本命題である剰余価値論につながる重要な中間命題である。簡単に言えば、資本は労働力を使って商品を生産し、その過程で付加価値を生み出す。資本主義にとっては至極当たり前のことを言っているだけだが、この関係に巧妙な搾取の構造を読み取ろうとするのが、『資本論』の主題である。

労働とは、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。

 マルクスは独自の剰余価値論を展開するに当たり、いくつか基本的な概念規定を行なっている。ここでは、まず労働一般の定義が示される。それによれば、労働とは人間と自然との媒介である。しかも、それはミツバチの受粉のような動物的な本能による媒介行為ではなく、自分自身の合目的的な意志に基づく意識的な行為である。

労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。

 労働過程の三つの要素、すなわち労働それ自体と、その対象、手段が区別される。これらは労働過程を分析するうえでの基本的な要素ともなる。

労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役立つ物またはいろいろな物の複合体である。労働者は、いろいろな物の機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる。

 労働対象には、土地・水のような天然資源とそれに人間が手を加えた原料とがあるが、労働手段は労働対象に働きかけてそれを種々の製品に加工するための用具である。労働手段は時代によっても変遷があり、「労働手段は、人間の労働力の発達の測定器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもある」。すなわち、労働手段を見れば、その社会の構造も見えてくる。

この全過程(労働過程)をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現れ、労働そのものは生産的労働として現れる。

 生産物の観点から遡ってまとめれば、労働手段と労働対象という二種の生産手段を用いて、生産的労働が行なわれることで生産物が完成する。ただし、これはマルクス自身が注記するとおり、一般論にとどまり、資本主義的生産過程の特殊性を踏まえた規定とはまだなっていない。

コメント

晩期資本論(連載第13回)

2014-11-18 | 〆晩期資本論

三 搾取の構造(2)

労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。

 労働市場における労働力売買の対象となる労働力商品に関する一般規定である。ここでマルクスは労働力を他の商品一般とパラレルに説明しようとするあまりに、ここでも持論のベースとなる労働価値説を当てはめようとしているが、これは労働力という無形的商品の特殊性を踏まえない形式論理である。もっとも、最後の「労働力の価値=生活手段価値」という一般規定自体は、労働力商品の特殊性を踏まえた定義となっている。

・・・労働力の価値規定は、他の商品の場合と違って、ある歴史的・精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられている。

 逆に言えば、労働力の価値を決定する生活手段価値は、国と時代により異なるということになる。このことは国際的な経済格差が顕在化しているきている晩期資本主義にはいっそう明瞭になっている。そして、こうした労働力の国際格差を利用して、生活手段価値の高い先進資本主義国では生活手段価値の低い途上国からの外国人労働力の買い叩きが行なわれているわけである。

労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである。

 「労働力の所有者は、死を免れない」。よって労働力が世代を超えて安定的に供給されるためには、「労働力の売り手は、・・・・・・生殖によって永久化されなければならない」。そのため、賃金は労働者の出産・育児に必要な生活手段の価値を含むべきはずであるが、近年拡大する非正規雇用への転換政策は、賃金にそうした生殖費を含む余裕もなくしている。結果として少子化を促進しており、先進資本主義諸国では生殖費を公的に補給するなど「少子化対策」に奔走するゆえんとなっている。

一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。

 こうした広い意味での教育費も生活手段の価値に含まれる。マルクスは、「労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかによって、その養成費も違ってくる。」と正当に指摘しているが、晩期資本主義社会においては労働の専門分業化が進み、「媒介された性質」の労働が増加しているため、教育費も高額化する傾向にあるにもかかわらず、賃金はこうした教育費を十分にカバーし切れず、ここでも公費補給の必要性が高まっている。しかし、そこには、先の生殖費補給の問題とともに、国家財政の限界が立ちふさがる。

労働力の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできないような生活手段の価値である。

 要するに最低限度の生活を維持するに必要な生活手段の額であり、これが最低賃金額を成す。「もし労働力の価値がこの最低額まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである」。
 すなわち、最低賃金とは資本家の通念とは異なり、労働力の最低評価ではなく、労働力を萎縮させる過小評価であるという指摘は重要である。

コメント

晩期資本論(連載第12回)

2014-11-17 | 〆晩期資本論

三 搾取の構造(1)

われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。

 マルクスは資本主義経済の核心を成す剰余価値の源泉を労働力の売買に見るが、その際、まず労働力をこう定義づけている。今日、マルクス経済理論を一切顧慮しない経済理論にあっても、労働力の概念だけは継承している。しかし、労働力が単なる物理的な力能にとどまらず、精神的な能力も含めた人格権と結合していることは、しばしば忘れられている。

労働力の所有者と貨幣所持者とは市場で出会い、互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手であり、他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人格である。

 労働市場の観念を簡潔に説明した部分である。労働力売買というと比喩的に聞こえるが、実際のところ、日本の民法における売買契約の条文と雇用契約の条文を対照すれば、その法的な類似性が読み取れる。

民法555条
売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。

民法623条
雇用は、当事者の一方が相手方に対して労働に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約することによって、その効力を生ずる。

 ただし、マルクスは「この関係の持続は、労働力の所持者がつねに一定の時間を限ってのみ労働力を売ることを必要とする。なぜならば、もし彼が労働力をひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。」とし、いわゆる奴隷と賃金労働者の相違に注意を喚起している。もっとも、現代でも残る極度の長時間労働はいかに時間決めであろうと、限りなく奴隷に近づくであろう。

貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売りに出さなければならないということである。

 自営業者として自作商品を売り出す技能を持っている人以外は、労働市場で自己の労働力を売りに出し、労働者とならざるを得ない。このことは、晩期資本主義の時代にはほぼ法則となっている。
 マルクスはこのように労働者となる以外に生活手段を持たない人のことを「自由な労働者」と呼び、「自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。」と規定する。
 従って、労働者となるには、奴隷や農奴等の隷属的身分から解放された自由人でなければならない。他方で、労働力以外に何も生活手段を持たざる人は、労働者となるほかはない。
 この後者を「自由」と呼ぶのは奇異な感じもするが、ここでは「自由な」という意味のほかに、「・・・を欠く」という意味で用いられるドイツ語のfreiや英語のfreeが想定されている。この点でアルバイトなどの非正規職を転々として回る人を指す「フリーター」(freeter?)なる和製英語は、まさにこの意味での究極の「自由な」(=持たざる)労働者像を言い表す正鵠を得た造語である。

コメント

晩期資本論(連載第11回)

2014-11-05 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(5)

 剰余価値の理論は、マルクスにとって決して哲学的な抽象命題ではなく、商品流通を軸とする資本蓄積の過程を労働経済学的に説明するうえでの道具概念となるものであった。それは、まず次のような矛盾点を解決することからスタートする。

もし交換価値の等しい商品どうしが、または商品と貨幣とが、つまり等価物と等価物とが交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。そうだとすれば、剰余価値の形成は行なわれない。

 100ポンドで買った綿花を110ポンドで売ったという前の設例で言えば、剰余価値とされた10ポンド分は等価交換理論では説明がつかない。この場合、売り手Xが実際の価値よりも10ポンド高い値で売ったと仮定しても、今度は別の売り手Yからやはり実際より10ポンド高く買わされれば、Xとしてはプラスマイナスゼロである。つまり、この場合も10ポンド高い値で等価交換がなされたのと同様である。
 「要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできないのである」。結局のところ―

流通または商品交換は価値を創造しないのである。

 それでは、剰余価値はどこから発生するのか。マルクスは長靴の例を挙げて、説明する。すなわち、長靴がその素材である革より価値が高いのは、製靴という労働により新たな価値を付加したからであるが、そうした付加価値を実現し、価値増殖するには、製品としての長靴を交換に供して販売しなければならない。つまり「商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである」。結局のところ―

資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかない。

 もう少し詳しく言えば、「貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない」。
 このような二律背反的なアポリアをいかに解くか。これが次の課題であると同時に、『資本論』の基盤となる基礎理論につながるところである。

われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである―労働能力または労働力に。

 ここでマルクスが剰余価値の源泉として持ち出したのは、労働力という一個の無形商品であった。これはマルクスが論敵の古典派と共有する労働価値説をベースとするものである。それにしても、これは帽子の中から鳩を取り出すような手品の印象も否めないが、この労働力=商品論こそが、『資本論』を貫く基礎理論となる。

資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである。

 マルクスは、「自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのではない。この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。」とも指摘し、労働力商品を基軸とする資本主義の成立を「先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物」と規定する。
 資本主義経済体制が歴史的な産物であること―従って、それも決して永遠不滅のものではないこと―が強調されるわけであるが、では実際に労働力の売買がどのように仕組まれて剰余価値に実現されるのかという点については、続く第三篇の内容の前提として、次回に回すことにしたい。

☆小括☆
以上、「二 貨幣と資本」では、『資本論』第一巻第三章「貨幣または商品流通」と第四章「貨幣の資本への転化」に相当する部分を参照しながら、『資本論』の核心概念である剰余価値と基礎理論となる労働力商品論を序説的に検討したが、第四章最終節「労働力の売買」で論じられている内容は、続く第五章「労働過程と価値増殖過程」の内容と密接に関連するので、稿を改めて検討し直す。

コメント

晩期資本論(連載第10回)

2014-11-04 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(4)

商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。世界貿易と世界市場とは、一六世紀に資本の近代的生活史を開くのである。

 『資本論』第一巻第一篇の冒頭―全体の冒頭でもある―で、資本主義的生産様式における富のあり方を「巨大な商品の集まり」と表現したマルクスであるが、第二篇冒頭では、商品流通こそが資本の出発点となることを簡潔に表現する。
 ここからが、『資本論』の本題である。歴史的にも、大航海時代の始まりにより、商業が全世界規模で拡大した一六世紀は資本主義の幕開けであったとされる。そして、インターネット時代の到来により商業の発達が歴史上例を見ないほどの規模に達した二一世紀は、資本の近代的生活史の頂点であると同時に、終わりの始まりでもあろう。

商品流通の素材的内容、つまりいろいろな使用価値の交換は別として、ただこの過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれはこの過程の最期の産物として貨幣を見いだす。この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。

 前に、「流通は絶えず貨幣を発汗している。」という比喩で語られたように、流通過程が生みだす貨幣こそ、資本の最初の細胞となる。従って、「どの新たな資本も、最初に舞台に現われるのは、すなわち市場に、商品市場や労働市場や貨幣市場に姿を現わすのは、相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化するべき貨幣としてである」。

最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけでなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。

 『資本論』の核心概念である剰余価値(surplus value)の概念がここで登場する。簡単な設例として、100ポンドで買われた綿花が110ポンドで売られる例を挙げられている。ここで前貸しとして投資された100ポンドに10ポンド付加された部分を剰余価値と呼ぶ。この経済行為は、言い換えれば買うために売るのではなく、売るために買う行為であり、まさに商業の第一歩である。

買うために売ることの反復または更新は、この過程そのものがそうであるように限度と目標とを、過程の外にある最終目的としての消費に、すなわち特定の諸欲望の充足に、見いだす。これに反して、売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。

 わかりやすい例で言えば、別の古本を買うために、所持している古本を売るのは、新たな古本の使用価値の取得を目的とする消費行為の一種であるが、ある古本を売るために買うのは、その古本の交換価値の実現を図る商行為であり、まさに古本屋の第一歩となる。前者の消費行為は反復継続されても、本質的には一回限りの行為の連続であるが、後者の商行為となると、それは永続的な業となる次第である。

・・・資本の運動には限度がないのである。この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。

 マルクスは、「貨幣蓄蔵者は常軌を逸した資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。」とも述べている。つまり、資本家にとっては、「あの流通の客観的内容―価値の増殖―が彼の主観的動機なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として、機能するのである。
 
 ここでは、資本家は「人格化され意志と意識とを与えられた資本」として、無機物的に描かれているが、現実の資本家は時として経営破綻につながるような不合理な意思決定も犯す生身の存在であって、マルクスの理解は行動経済学的な観点からは、古典派同様に「合理的経済人」の理論の域を出ていないと言える。ただ、貨幣を中心に回る資本主義の物理的な機構においては、資本家も一つの歯車でしかない一面を持つことも、たしかである。

実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

 資本家も非人格的な歯車でしかないのは、流通過程では交換価値が主人公であり、「剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって、自己増殖であるからである」。「価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘的な性質を受け取った。」とも表現されている。
 このあたりは『資本論』の真骨頂とも言えるテーゼであるが、価値の自己増殖運動といった把握の仕方は、そうした運動の背後にある神の手ならぬ人の手の介在を捨象した機械論的な把握であり、問題も感じられるが、価値を中心に回る巨大な資本蓄積の回転的な仕組みを次のようにまとめているのは、出色であろう。

それ(価値)は、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始めるのである。

コメント

晩期資本論(連載第9回)

2014-10-23 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(3)

商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹を固持する必要と情熱が発展する。商品は、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。

 マルクスは価値尺度と流通に続く貨幣の第三の機能となる蓄積の機能について、こう述べて、「貨幣は蓄積貨幣に化石し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者になるのである。」とまとめている。すなわち、商品流通が貨幣蓄積を生む。また「商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が、増大する。」とも指摘されるように、貨幣は社会的な権力として、金権政治の源泉ともなる。

金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として、固持するためには、流通することを、または購買手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。

 流通の拡大から貨幣蓄蔵が生じるが、貨幣蓄蔵を効果的に行なうためには、貨幣が徒に流出することを避ける必要があり、そのため、「勤勉と節約と貪欲とが彼(貨幣蓄蔵者)の主徳をなすのであり、たくさん売って少なく買うことが彼の経済学の全体をなすのである。」誰もが経験的に知っているように、勤勉と節約と貪欲は効果的な貨幣蓄蔵の秘訣である。
 ここでマルクスは勤勉をプロテスタンティズムなどの特定の宗教倫理と結びつけず、商品流通の拡大が生み出す貨幣蓄蔵者の行動原理として導き出そうとしていることが注目されるが、蓄蔵者像が定型的にとらえられており、蓄積行為に対するより立ち入った行動科学的な分析に及んでいないのは、時代的制約であろう。

蓄積貨幣貯水池は流通する貨幣の流出流入の水路として同時に役だつのであり、したがって、流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。

 貨幣蓄積は「貯蓄」として、マルクスの巧みな比喩によれば「貨幣貯水池」を形成するが、この貯蓄がまた購買手段や投資に充てられることで市中の貨幣流通が調節されることがあるのは、巨大な貯蓄を擁する晩期資本主義社会でははっきりと観察できる。

独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョワ社会の進歩につれてなくなるが、反対に支払手段の準備という形では貨幣蓄蔵はこの社会の進歩ととともに増大する。

 ブルジョワ社会を消費社会と置き換えてみれば、消費社会における蓄蔵とは蓄蔵のための蓄蔵ではなく、消費手段としての貯蓄という性格が強まるので、貨幣の消費=支払手段としての意義が大きくなる。このように、支払手段としての貨幣の機能が発達し、機構化していくと、価値尺度機能と流通機能との間の矛盾齟齬から、「貨幣恐慌」のような通貨危機が生じやすくなることも指摘されている。

世界市場ではじめて貨幣は、十分な範囲にわたって、その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として、機能する。

 貨幣は国内市場を飛び出して、世界市場にも流入する。このことは、世界貿易が発達した晩期資本主義にあっては、もはや常識となっている。マルクスはそうした「世界貨幣」―今日でいう国際通貨―に至ると、貨幣は「貴金属の元来の地金形態に逆もどりする。」と論じているが、これは持論である労働価値説を再確認する補説であろう。しかし、脱金本位制下の現代では、地金取引ではなく、為替という抽象的な通貨取引を通じて世界貨幣=国際通貨が動いていることも、周知のとおりである。

コメント

晩期資本論(連載第8回)

2014-10-22 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(2)

流通は絶えず貨幣を発汗している。

 流通手段としての貨幣の第二の機能をウィットに富んだ比喩で表現している。発汗が人体にとって体温調節に不可欠な作用であるのと同様、貨幣交換は市場経済の需給調節に不可欠な作用である。貨幣なくして流通なしである。
 しかしながら、マルクスがこの比喩的な命題を通じて主張しているのは、むしろ流通なくして貨幣なしという逆の側面である。この命題のすぐ後に続けて、「どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。」と述べるのはそのためである。理由はいたって簡単で、「別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、だれも、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。」からである。
 ここでばかげたものと切り捨てられているのは、J・B・セーのいわゆる「販路法則」である。すなわち「生産物の販売は同時に生産物の購買であるから、生産物の総供給と総需要は恒等的に等しく、従って全般的な過剰生産は生じない」とする古典的命題である。
 生産した商品が必ず購買されるとは限らないことは、ネット上で市民が自由に自作製品を直売できるようになった時代には誰でもすぐに経験できることであるから、セー命題の誤謬は明らかであるが、この抽象命題は形を変えて新自由主義にも取り込まれているため、晩期資本主義社会は過剰生産への危機感が希薄化している。

それぞれの期間に流通手段として機能する貨幣の総量は、一方では、流通する商品世界の価格総額によって、他方では、商品世界の対立的な流通過程の流れの緩急によって、規定されているのである。

 貨幣に関するもう一つの古典命題として、「貨幣数量を増大させれば、比例的に物価上昇、貨幣価値の低下をもたらす(その逆も)」とする貨幣数量説があるが、マルクスはこの命題も明確に否定する。より直接には、「商品価格は流通手段の量に規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定されるという幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいり、そこで雑多な商品群の一可除部分と山をなす金属の一可除部分と交換されるのだという、ばかげた仮説に根ざしているのである。」とされる。
 ところが、貨幣数量説も新自由主義にしっかり取り込まれているので、インフレやデフレ退治に通貨供給の増減調節で臨むという単純な対策が幅を利かせている(新自由主義の正体は、実のところ、マルクスによって克服されたはずの古典的経済ドグマの焼き直しである)。
 ただ、マルクスの貨幣数量説批判も、古典的な金本位制を前提しつつ、金本位制下では物価が安定するという俗論を批判する文脈でのものであり、現代の脱金本位制下での議論に直接妥当するものではなくなっているが、商品価値も貨幣価値も、究極的には貨幣の第一の価値尺度機能に依存する不安定なものであるとする点は、普遍的な意義を持つ。一方で、マルクスは次のようにも補足する。

いろいろな要因の変動が互いに相殺されて、これらの要因の絶え間ない不安定にもかかわらず、実現されるべき商品価格の総額が変わらず、したがってまた流通貨幣量も変わらないことがありうる。

 したがって、「いくらか長い期間を考察すれば、外観から予想されるよりもずっと不変的な、それぞれの国で流通する貨幣量の平均水準が見いだされるのであり」、また周期的な恐慌や突発的な通貨危機にもかかわらず、「外観から予想されるよりもずっとわずかな、この平均水準からの偏差が見いだされるのである。」とも指摘される。
 このような長期的な平準化傾向が資本主義経済の持続性の強さの秘訣の一つであり、こうした一見アナーキーな資本主義市場における「見えざる手」による事後調整のメカニズムを説明しているとも言える。

流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。

 流通手段としての貨幣は、金属そのものの使用価値に着目された商品ではなく、交換の媒介手段にすぎないから、定型的に鋳造された有形物であることが望ましい。そうした貨幣鋳造は、通常は国家権力に委ねられる(通貨高権)。

商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代えられる。それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。

 貨幣は商品価値の表象手段でしかないとすれば、流通過程では貨幣という有形物そのものも必要なく、貨幣の単に象徴的な存在だけでも足りる。この定理の延長に、キャッシュカードや電子マネーのような無形的・数量的な貨幣価値だけを表象するキャッシュレス手段も生まれてくる。

コメント

晩期資本論(連載第7回)

2014-10-21 | 〆晩期資本論

二 貨幣と資本(1)

 マルクスは資本主義において貨幣の果たす役割を重視しており、『資本論』第一巻のかなりの頁数を専ら貨幣論に充てているが、これはまだマネタリスト的知見が確立されていなかった当時としては斬新な経済理論であった。彼は、貨幣の持つ機能を価値尺度・流通手段・蓄積の三つに大別しつつ、それらを持論の労働価値説で統一的に説明しようとする。

簡単にするために、本書ではどこまでも金を貨幣商品として前提する。

 その具体的意味は、「貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固している他の各商品の量で表現される。」ということである。例えば、ガム一個=100円という定式は、100円硬貨の鋳造に必要な労働時間とガム一個の生産に必要な労働時間が等しいことを示していることになる。そのような等値の奇妙さは明らかであろう。これは優秀な理論家の犯しやすい理論倒れというものである。
 晩期資本主義における貨幣は投資商品としての重要性を高め、通貨自体を売買するFXのような投資行為も盛んであるが、そのような意味において貨幣を象徴する金を「貨幣商品」と呼ぶことならできなくはない。

価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。

 上述の定式から導かれる貨幣の尺度機能論である。より詳しく言えば、「すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自の一商品で計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自の一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである」。
 マルクスは持論の労働価値説を貨幣交換にまで及ぼすことで、結果的にマネタリスト的な特質を示すが、この定式は労働生産物とは言えない物品や無形的なサービス商品が増大した現代資本主義下の貨幣交換の仕組みを説明し切れない。
 ただ、貨幣が価値尺度として機能していることはたしかであり、その機能は貨幣経済が高度化した晩期資本主義ではよりいっそう強くなり、絵画が典型的であるように、芸術作品のような文化的創造物までが貨幣価値で評価される。

価格と価値量との不一致の可能性、または価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性のやみくもに作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。

 例えば、絵画の商品価値は画家が製作に費やした労働時間で決定されるのではないから、「画伯」を冠される一流画家の作品なら、短時間で製作された小品でも、高額な商品価値を持つというように、絵画は価格と価値量の不一致の好例である。
 用心深いマルクスは、ここで前に持ち出した価格形態という概念を使用し、現実の商品価格が労働価値量とは合致しないことの補足説明を試みている。その理由を、マルクスは資本主義市場経済のアナーキーな性質に求めようとしている。そこから、「ある物は、価値をもつことなしに、形式的に価格をもつことができるのである。」として、労働生産物ではない―マルクスによれば商品ではない―未開墾地のようなモノも価格をもって売買され得ることを説明する。
 おそらく、この説明のほうが実際の市場経済におけるランダムな価格決定の仕組みを上手く説明しているであろう。だが、このように価値形態とは別に価格形態を持ち出して原則的な説明をすりかえてしまうのは、労働価値説の実質的な放棄と言わざるを得ない。
 実際のところ、商品の価格形態は、まさに貨幣交換を一つの原則として確立した資本主義生産様式の文化的な記号のようなものである。この点、マルクスも「価格表現は、数学上のある種の量のように、想像的なものになる。」と述べているとおりである。おそらく、こうした経済人類学的な説明のほうが貨幣の尺度機能を適切に説明できるであろうし、実際、貨幣経済が廃止された未来社会の経済人類学者たちならそのように分析するに違いない。

コメント

晩期資本論(連載第6回)

2014-07-31 | 〆晩期資本論

一 商品の支配(5)

貨幣結晶は、種類の違う労働生産物が実際に等置され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物である。

 マルクスは、貨幣形態が単純な物々交換から直線的に展開されるかのような論理定式を提示した一方で、貨幣形態が多種類の労働生産物の交換過程から必然的に発生することを指摘していた。

交換の不断の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分は、はじめから交換を目的として生産されなければならなくなる。この瞬間から、一方では、直接的必要のための諸物の有用性と、交換のための諸物の有用性との分離が固定してくる。諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。

 物々交換の大量反復化は、交換そのものを独立した社会的な制度に仕上げ、初めから交換に供する目的での生産活動―商品生産―を誕生させた。晩期資本主義社会にあっては、生産活動の大半が商品生産である。商品生産社会では、生産者と消費者が機能的にも分離するようになるから、そもそも物々交換の余地はなくなる。すると、必然的に商品の交換手段は、貨幣のような抽象的な価値によらざるを得ない。この意味でも、物の生産者同士が自己の生産物を交換し合う物々交換とは断絶があるのである。
 しかし、マルクスはすぐ後で、「他方では、それらの物が交換される量的な割合が、それらの物の生産そのものによって定まるようになる。慣習は、それらの物を価値量として固定させる。」と付け加え、持論の労働価値説を前提に、理論が慣習に先行するかのような転倒した論理を展開している。

遊牧民族は最初に貨幣形態を発展させるのであるが、それは、かれらの全財産が可動的な、したがって直接に譲渡可能な形態にあるからであり、また、かれらの生活様式がかれらを絶えず他の共同体と接触させ、したがってかれらに生産物交換を促すからである

 このように、マルクスは机上論的な論理展開とは別に、貨幣形態の発生過程について経済人類学的な説明も与えていたのである。たしかに定住せず、季節的に移動して回る遊牧民は必然的に、直接的な生産活動より商業活動に依存するようになる、
 実際のところ、アラブ人やモンゴル人のような有力な遊牧民族は広域商業民族でもあり、貨幣経済の発達にも歴史的な寄与があった。その意味で、遊牧民族は商業文明の開拓者であったと言える。そして、現代のグローバル資本主義の中で、国境を越えて世界を飛び回る資本制企業も、ある種の遊牧民的な行動原理を持っていると言えるだろう。
 結局のところ、マルクスの価値形態論には純粋経済原論的説明と経済人類学的説明とが混在しているようであるが、強いて両者を統一するとすれば、商業文明が発達したある時期以降、古代以来の伝統的な物々交換取引が相当に定型化され、マルクスの価値形態論第三定式(一般的価値形態)のように、特定の物が貨幣的に扱われるようになっていき、そこからより徹底した等価物としての貨幣形態が生まれたのだと説明できるかもしれない。
 そう解すれば、次の一文は、物々交換の範囲内で特定の物が貨幣的に扱われる過渡的な段階を過ぎて、貨幣がそれ自体物々交換に供する独立した商品ではなく、単なる交換価値の表象と化した現代資本主義の一つの側面を示すものと読める。 

一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。

☆小括☆
以上、「一 商品の支配」では、『資本論』第一巻第一章「商品」と第二章「交換過程」に相当する部分を参照しながら、晩期資本主義社会における主役である商品のありようを概観した。

コメント