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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第35回)

2015-03-25 | 〆晩期資本論

七 資本の循環(3)

 資本の三つの循環形式の第三のもの、すなわち商品資本の循環は資本主義的生産様式をまさに特徴づける循環形式であるだけに、そこからより包括的な視座が導き出される。ちなみに、マルクスはこのような包括的な視座の基礎となる商品資本の循環を重農学派ケネーの経済表の基礎に見て、最終的には独自の再生産表式に練り上げている。

・・・この循環(商品資本の循環)そのものが、つぎのようなことを要求するのである。すなわち、この循環を、ただ、循環の一般的な形態として、すなわち各個の産業資本を(それが最初に投下される場合を除き)そのもとで考察することができるような社会的な形態として、したがってすべての個別産業資本に共通な運動形態として考察するだけでなく、また同時に、いろいろな個別資本の総計すなわち各個の産業資本家の総資本の運動形態として考察することを要求する・・・・。

 ここで言う個別資本の総計をマルクスは「社会的資本」と呼ぶ。マルクスは、社会的資本の構成として、資本主義経済で典型的な株式資本に加え、「政府が生産的賃労働を鉱山や鉄道などに充用して産業資本家として機能するかぎりでは国家資本も含めて」観念している。この「国家資本」は国家が鉱業や鉄道などの基幹部門に限って国有企業を保有する混合経済体制で典型的に見られるが、産業全般にわたって国有化する旧ソ連型のいわゆる社会主義体制では、国家資本が全般化された「国家資本主義」として発現する。
 このような社会的資本の運動にあっては、「各個の産業資本の運動はただ一つの部分運動として現われるだけで、この部分運動はまた他の部分運動とからみ合い他の部分運動によって制約されるのである」。

三つの形態を総括してみれば、過程のすべての前提は、過程の結果として、過程自身によって生産された前提として、現われている。それぞれの契機が出発点、通過点、帰着点として現われる。総過程は生産過程と流通過程との統一として表わされる。生産過程は流通過程の媒介者となり、また逆に後者が前者の媒介者となる。

 第一巻段階でのマルクスは、資本の流通をさしあたり形態的に商品変態として把握していたが、第二巻の段階では、「この形態的な面にとらわれないで、いろいろな個別資本の変態の現実の関連を見れば、すなわち、事実上、社会的総資本の再生産過程の諸部分運動としての諸個別資本の諸循環の関連を見れば、この関連を貨幣と商品との単なる形態転換から説明することはできない。」とし、このような資本循環の統一的総過程を、すべての点が出発点であると同時に帰着点でもあるような絶えず回転する円にたとえている。この円環的な「三つの循環のどれにも共通なものは、規定的目的としての、推進的動機としての、価値の増殖である」。

自分を増殖する価値としての資本は、階級関係を、賃労働としての労働の存在にもとづく一定の社会的性格を含んでいるだけではない。それは、一つの運動であり、いろいろな段階を通る循環過程であって、この過程はそれ自身また循環過程の三つの違った形態を含んでいる。だから、資本は、ただ運動としてのみ理解できるのであって、静止している物としては理解できないのである。

 資本の本質について、マルクスは、階級関係の中で剰余労働に対する指揮権という一つの権力として理解する政治学的な把握と同時に、経済学的には価値増殖を動機・目的とした運動とみなす把握を示している。つまり、資本とは、特に法学的な把握において典型的に見られるような静止した資金ではない。

・・・あらゆる価値革命にもかかわらず資本主義的生産が存在しているのは、また存在を続けることができるのは、ただ資本価値が増殖されるかぎりでのことであり、言い換えれば独立した価値としてその循環過程を描くかぎりでのことであり、したがって、ただ価値革命がどうにかして克服され埋め合わされるかぎりでのことである。

 資本主義は周期的な価値革命の継起を特徴とするが、これまでのところ、過去の価値革命は「どうにかして克服され埋め合わされ」てきたので、資本主義はなおも生き延びている。しかし―

価値革命がいっそう急性になり頻繁になるにつれて、独立化された価値の自動的な運動、不可抗力的な自然過程の力で作用する運動は、個々の資本家の予見や計算に反してますます威力を発揮し、正常な生産の進行はますます非正常な投機に従属するようになり、個別資本の生存にとっての危険はますます大きくなる。

 個別資本の競争がグローバルな規模で拡大した晩期資本主義は、価値革命の急性化・頻繁化の時代でもあり、生産活動が株式のみならず、資源のような生産財の投機にも従属し、個別資本の生存の危険が恒常化している。個別資本が総倒れになれば、社会的資本の運動も停止し、資本主義そのものの命脈も尽きることになる。

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晩期資本論(連載第34回)

2015-03-24 | 〆晩期資本論

七 資本の循環(2)

 貨幣資本の循環に続き、マルクスは第二の生産資本、及び第三の商品資本の循環の解析に進む。原典ではより詳密な解析が行なわれており、『資本論』の中でも難解な箇所であるが、ここではそうした細部にはあえて立ち入らず、要点のみを参照していく。

この(生産資本の)循環が意味するものは、生産資本の周期的に繰り返される機能、つまり再生産であり、言い換えれば価値増殖に関連する再生産過程としての生産資本の生産過程である。剰余価値の生産であるだけでなく、その周期的な再生産である。

 第一巻で剰余価値の生産という視座から総論的に扱われていたのは、専らこの生産資本の循環の部分であった。この「貨幣資本から生産資本への転化は、商品生産のための商品購買である」。従って、ここでは「本当の流通は、ただ周期的に更新され更新によって連続する再生産の媒介として現われるだけである」。またその流通過程は商品の交換取引を媒介する商品流通形態をとる。
 このような再生産過程にも、剰余価値がすべて資本家の個人的消費に帰する単純再生産と剰余価値が資本に追加されていく拡大再生産とが区別されるが、前者の単純再生産は理論モデルに等しく、現実の資本主義経済は拡大再生産の過程である。

生産資本の循環は、古典派経済学が産業資本の循環過程を考察する際に用いている形態である。

 現代資本主義においてもイデオロギー面でなお支配的な古典派経済学では、労働による生産を国富の源泉と規定し、貨幣を単に媒介的流通手段とみなすことを共通視座としているが、反面、古典派が批判の対象とした重商主義学派が国富の源泉と規定した貨幣蓄積の面が軽視されがちとなっている。
 その点、マルクスは「資本循環」という動的な視座から、二つの新旧視座の対立を止揚し、資本循環の大枠を貨幣資本の循環と規定しつつ、その形態転化として生産資本の循環を位置づけようとしたと言える。よって、「資本の循環過程は、流通と生産との統一であり、その両方を包括している。」とも言われるのである。

商品資本の循環は、資本価値で始まるのではなく、商品形態で増殖された資本価値で始まるのであり、したがって、はじめから、単に商品形態で存在する資本価値の循環だけではなく剰余価値の循環をも含んでいるのである。

 資本循環の第三の機能形態である商品資本の循環は、はじめからすでに購買済み生産要素から成り、従って剰余価値を含み増殖された資本価値の循環となる。第一の貨幣資本の循環では、生産過程が流通過程の媒介とみなされ、第二の生産資本の循環においては流通過程が再生産過程の媒介として理解されたが、第三の商品資本の循環では生産過程と流通過程とが止揚され、相互媒介関係として把握される。その意味では、これはまさに資本主義的生産様式における中核的な循環形式である。

・・・支配的な生産様式としての資本主義的生産様式の基礎の上では、売り手の手にある商品はすべて商品資本でなければならない。それは、商人の手のなかでも引き続き商品資本である。あるいはまた、それまではまだそうでなかったとすれば、商人の手のなかで商品資本になる。あるいはまた、それは、最初の商品資本と入れ替わった商品、したがってそれにただ別の存在形態を与えただけの商品―たとえば輸入品―でなければならない。

 別の箇所では、「資本主義的に生産された物品は、その使用形態がそれを生産的消費用にしようと個人的消費用にしようと、あるいはまたその両方にしようと、とにかくすべて商品資本である。」とも言明されている。いずれも、第一巻冒頭、すなわち『資本論』全体の始まりの一句「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。」とも呼応する総括である。

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晩期資本論(連載第33回)

2015-03-23 | 〆晩期資本論

七 資本の循環(1)

 今回以降は『資本論』第二巻及び第三巻を参照しながらの考察となるが、実のところ、マルクス自身の筆で書き上げたのは第一巻までで、第二巻以降は盟友・エンゲルスがマルクスの遺稿を編集して仕上げたものであるので、エンゲルスの手が入っている。よって、第二巻から先はマルクス‐エンゲルスの実質的な合作とみなすほうが正確である。
 そういう前提でまず「資本の流通過程」と題された第二巻を見ると、本巻では第一巻での総論的な考察を踏まえ、資本の流通的な側面を考察している。マルクスは第一巻でも「商品流通は資本の出発点である。」と記し、流通を資本の動因とみなしていた。実際、資本主義は発展の過程で複雑な流通機構を形成しており、流通過程の維持が資本の生命線ともなっている。
 第二巻では、こうした流通の観点から、資本が姿を変えつつ、巡り戻ってくる運動の過程―資本の循環―を原理的に考察しようとしているが、そうした資本循環にも、貨幣資本・生産資本・商品資本の三つの流れが区別される。

資本の循環過程は三つの段階を通って進み、これらの段階は、第一巻の叙述によれば、次のような順序をなしている。

第一段階。資本家は商品市場や労働市場に買い手として現われる。彼の貨幣は商品に転換される。すなわち流通行為G―Wを通過する。
第二段階。買われた商品の資本家による生産的消費。彼は資本家的商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通過する。その結果は、それ自身の生産要素の価値よりも大きい価値をもつ商品である。
第三段階。資本家は売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は貨幣に転換される。すなわち流通行為W―Gを通過する。

 このような第一巻の簡潔な「復習」に始まる第二巻の冒頭で、マルクスは貨幣資本の循環の三つの段階を指摘している。おおまかに言えば、第一段階は労働力の購買―雇用―、第二段階は労働力の消費による生産―労働―、第三段階は生産物の販売である。
 このうち、「第一段階と第三段階は、第一部では、ただ第二段階すなわち資本の生産過程を理解するために必要なかぎりで論及されただけだった。だから、資本が自分の通るいろいろな段階で身につけるところの、そして繰り返される循環のなかで身につけたり脱ぎ捨てたりするところの、いろいろな形態は、顧慮されていなかった。これからは、これらの諸形態がまず第一の研究対象になるのである。」というのが、第二巻の趣旨説明である。

資本価値がその流通段階でとる二つの形態は、貨幣資本商品資本という形態である。生産段階に属するその形態は、生産資本という形態である。その総循環の経過中にこれらの形態をとっては捨て、それぞれの形態でその形態に対応する機能を行なう資本は、産業資本である。―ここで産業とは、資本主義的に経営されるすべての生産部門を包括する意味で言うのである。

 マルクスは産業を資本主義的生産部門という特定的な広い意味で用いており、そうした産業資本が貨幣資本、商品資本、生産資本という三つの機能形態を兼ね備えるという発想である。

独立の産業部門でも、その生産過程の生産物が新たな対象的生産物ではなく商品ではないような産業部門もある。そのなかで経済的に重要なのは交通業だけであるが、それは商品や人間のための運輸業であることもあれば、単に通信や書信や電信などの伝達であることもある。

 ここでマルクスの言う「交通業」とは通信分野も含む広い意味であるが、マルクスの時代、まだ黎明期であったこの種「交通業」は、技術革新が進んだ現代の晩期資本主義で隆盛を見ている。この分野では、工業のように生産過程で新たな生産物が生み出されるわけではないが、「交通」のサービスそのものを無形的な「商品」とみなすこともできる。その限りで、上記叙述は修正されてよいであろう。

産業資本の循環の一般的な形態は、資本主義的生産様式が前提されているかぎりでは、したがって資本主義的生産によって規定されている社会状態のなかでは、貨幣資本の循環である。

 産業資本が流通過程で三つの機能形態を兼ね備えるとはいえ、出発点となるのは貨幣資本であり、煎じ詰めればカネの循環にほかならない。よって、「貨幣資本の循環は、産業資本の循環の最も一面的な、そのためにまた最も適切で最も特徴的な現象形態なのであって、価値の増殖、金儲けと蓄積という産業資本の目的と推進動機とが一目でわかるように示されるのである(より高く売るために買う)。」とも指摘されるのである。

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晩期資本論(連載第32回)

2015-03-10 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(7)

 マルクスは、本源的蓄積の典型例としてイギリスの事例を詳細に取り上げている。そこでは、農民からの収奪→被収奪者抑圧→資本家的借地農の生成→国内産業市場の形成→産業資本家の生成という大きな図式が作られている。これを前提として、マルクスは「資本主義的蓄積の歴史的傾向」―資本蓄積の歴史法則―を導き出そうとする。

直接的生産者の収奪は、なにものをも容赦しない野蛮さで、最も恥知らずで汚らしくて卑しくて憎らしい欲情の衝動によって、行なわれる。自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個体とその労働諸条件との接合にもとづく私有は、他人の労働ではあるが形式的には自由な労働の搾取にもとづく資本主義的私有によって駆逐されるのである。

 本源的蓄積の時期には、国家権力を使った労働者抑圧策が取られる。「興起しつつあるブルジョワジーは、労賃を「調節」するために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の一つの本質的な契機なのである」。
 もっとも、中間蓄積期には労働運動の成果として労働基本権の思想も浸透し、国家もやむを得ず労働法による労働者の保護という政策を導入したが、労働運動が退潮した晩期資本主義になると、労働法の「規制緩和」という非抑圧的なやり方で国家権力を利用し、再び労賃の「調節」を図っている。

国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自身のうちに自動的累進の萌芽を孕んでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。

 マルクスは、「公債は本源的蓄積の最も力強い槓杆の一つになる。」とし、国債が証券投機や近代的銀行支配、さらには国際的信用制度を発生させたことを指摘している。そして、「国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物となったのである」。徴税もまた刑罰で担保された国家権力の利用である。
 こうして国債濫発による多額の負債とその償還に充てるための増税というパターンは現代日本において典型的に現れている。特に、上記命題にいう「最も必要な生活手段にたいする課税」は今日、消費税という形で労働者に転嫁されており、これが自動的に累進していく法則も現代日本によく当てはまっている。とうに本源的蓄積期を過ぎた日本で、こうした時代逆行的な手段が採られていることになる。

この転化過程が古い社会を深さから見ても広がりから見ても十分に分解してしまい、労働者がプロレタリアに転化され、彼らの労働条件が資本に転化され、資本主義的生産様式が自分の足で立つようになれば、そこから先の労働者の社会化も、そこから先の土地やその他の生産手段の社会的に利用される生産手段すなわち共同的生産手段への転化も、したがってまたそこから先の私有者の収奪も、一つの新しい形態をとるようになる。今度収奪されるのは、もはや自分で営業する労働者ではなくて、多くの労働者を搾取する資本家である。

 マルクスはここで生産手段の共有段階へといささか先走っているが、ひとまず資本主義が独り立ちした段階では、「資本主義的生産そのものの内在的諸法則」、すなわち「諸資本の集中」によって、「少数の資本家による多数の資本家の収奪」が起きる。つまりは、競合資本の競争と淘汰・集中である。
 こうした集中化とともに、「世界市場の網のなかへの世界各国民の組入れが発展し、したがってまた資本主義体制の国際的性格が発展する」。現況はこうしたグローバル資本主義の段階に到達している。

この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減っていくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大していくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大していく。資本独占は、それとともに開花し、それのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それが資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。

 『資本論』の中でも特に有名なこの一節で示唆されているのは、プロレタリア革命である。しかし一方で、次の命題はこれと矛盾する側面がある。

資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産過程の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。

 現状はまさに、労働者階級の大半が教育や伝統、慣習によって資本主義的生産様式の諸要求を自明な自然法則として認めている時代であり、労働運動も資本主義の枠内での賃上げ闘争にすぎない。時折、反資本主義的なメッセージを携えた大衆行動が見られても局所的なものにとどまり、「資本主義的私有の最期を告げる鐘」とはならない。
 ただ一方で、マルクスは資本主義的生産の発展により、「ますます大規模になる労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労働手段の転化、結合的社会的労働の生産手段としての使用によるすべての生産手段の節約」といった共産主義社会の萌芽が桎梏的に資本主義社会の内部に生じ、それが内爆的に「資本主義的な外皮」を打ち破って共産主義社会へ至るという独特の筋道を描いていたのであるが、これについては『資本論』第三巻まで検証した後に、改めて立ち返ってくることにしたい。

☆小括☆
以上、「六 資本蓄積の構造」では、『資本論』第一巻を総括する最終の第七篇「資本の蓄積過程」を参照しながら、資本蓄積が高度化・グローバル化した晩期資本主義の特質を検証した。

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晩期資本論(連載第31回)

2015-03-09 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(6)

 マルクスは、資本蓄積の一般法則として相対的過剰人口論を展開した後、今度は話題を転じて資本蓄積の歴史を出発点まで遡り、その歴史法則を抽出しようとしている。学術的には経済史に相当する部分である。マルクスはこのような資本主義の原初的な成立過程を「本源的蓄積」と呼ぶ。

・・・神学上の原罪の伝説は、われわれに、どうして人間が額に汗して食うように定められたのかを語ってくれるのであるが、経済学上の原罪の物語は、どうして少しもそんなことをする必要のない人々がいるのかを明かしてくれるのである。

 マルクスは本源的蓄積をキリスト教でいう「原罪」になぞらえていささかあてこすっているが、より世俗的な表現で、「このような原罪が犯されてからは、どんなに労働しても相変わらず自分自身のほかにはなにも売れるものをもっていない大衆の貧窮と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大してゆくのである。」と指摘している。いわゆる格差社会は、現代に始まったことではなく、資本主義の初めから存在しているのである。
 とはいえ、中間蓄積期の資本主義はこの「原罪」を自覚し、労働法や社会保障という政策的な用具を使ってそれなりに補償しようとしてきたのだが、晩期資本主義は「原罪」を労働者の「自己責任」に転嫁し、開き直っている点で、本源的蓄積の粗野な時代に立ち戻ろうとしているかのようである。

資本主義社会の経済的構造は封建社会の経済的構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素を解き放ったのである。

 より具体的には、「生産者たちを賃金労働者に転化させる歴史的運動は、一面では農奴的隷属や同職組合強制からの生産者の解放として現われる」。これは、喜ぶべきことのように思える。だが―

他面では、この新たに解放された人々は、彼らからすべての生産手段が奪い取られ、古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの保証がことごとく奪い取られてしまってから、はじめて自分自身の売り手になる。

 農奴制や徒弟制は隷属的ではあれ、それなりに隷民らにも生産手段を保証していたのであるが、皮肉なことに、資本主義的「解放」は、同時に封建的隷民から生産手段を奪い取る「剥奪」でもあった。ゆえに、「賃金労働者とともに資本家を生みだす発展の出発点は、労働者の隷属状態であった。そこからの前進は、この隷属の形態変化に、すなわち封建的搾取の資本主義搾取への転化にあった」。

本源的蓄積の歴史のなかで歴史的に画期的なものといえば、形成されつつある資本家階級のために槓杆として役だつような変革はすべてそうなのであるが、なかでも画期的なのは、人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者すなわち農民からの土地の収奪は、この全過程の基礎をなしている。

 農民の賃労働者への転化が、本源的蓄積の一つの典型的な始まりである。ただ、マルクスはすぐ後で、「この収奪の歴史は国によって違った色合いをもっており、この歴史がいろいろな段階を通る順序も歴史上の時代も国によって違っている。」と指摘し、不均等発展の可能性を広く認めている。
 マルクスは、農民収奪から出発した本源的蓄積の典型例をイギリスに見るが、資本主義的生産が最も早くから発達したのはイタリアだとする。ちなみに、マルクスが封建時代の日本について、「その土地所有の純封建的な組織とその発達した小農民経営とをもって、たいていはブルジョワ的偏見にとらわれているわれわれのすべての歴史書よりもはるかに忠実なヨーロッパ中世の姿を示している。」と注記した日本においては、明治維新政府による地租改正という上からの政策的な収奪が本源的蓄積の土台となったところである。

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晩期資本論(連載第30回)

2015-02-25 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(5)

相対的過剰人口がときには恐慌期に急性的に現われ、ときには不況期に慢性的に現れるというように、産業循環の局面転換によってそれに押印される大きな周期的に繰り返し現われる諸形態を別とすれば、それにはつねに三つの形態がある。流動的、潜在的、滞留的形態がそれである。

 マルクスは、相対的過剰人口について、かなり詳細な類型化を試みている。それによると、相対的過剰人口はまず大きく、恐慌や不況期の大量解雇を契機に発生する非常時相対的過剰人口と、好況期も含めて常に存在する常時相対的過剰人口とに分かれ、後者がさらに流動的、潜在的、滞留的の三種に分かれる。

近代産業の中心―工場やマニュファクチュアや精錬所、鉱山など―では、労働者はときにははじき出され、ときにはいっそう大量に再び引き寄せられて、生産規模にたいする割合では絶えず減っていきながらも、だいたいにおいて就業者の数は増加する。この場合には過剰人口は流動的な形態で存在する。

 これは主として製造業分野の相対的過剰人口であり、最も中核的なプロレタリアートに属するが、この分野では、「資本による労働力の消費は非常に激しいので、中年の労働者はたいていすでに多かれ少なかれ老朽してしまっている。彼は過剰人口の隊列に落ちこむか、またはより高い等級からより低い等級に追い落とされる」。
 ただし、晩期資本主義では工場のオートメーション化の進展及び産業構造の転換に伴い、こうした第一次産業分野の労働者の過剰人口の流動性は低下している。

資本主義的生産が農業を占領するやいなや、または占領する程度に応じて、農業で機能する資本が蓄積されるにつれて、農村労働者人口にたいする需要は絶対的に減少するのであるが、ここでは、農業以外の産業の場合とは違って、労働者人口の排出がそれよりも大きな吸引によって埋め合わされることはないであろう。それゆえ、農村人口の一部分は絶えず都市プロレタリアートまたはマニュファクチュア・プロレタリアートに移行しようとしていて、この転化に有利な事情を待ちかまえているのである。

 これが二番目の潜在的相対的過剰人口に相当する。実のところ、資本主義的生産が農業を占領するという現象は、晩期資本主義に至ってもさほど顕著には生じていないため、まさにこれは「潜在的」な存在である。
 とはいえ、発達した資本主義社会では家族農業の衰退の中で、農村人口の都市プロレタリアートやマニュファクチュア・プロレタリアートへの移行はすでに大規模に生じており、この部分はすでに第一の流動的過剰人口もしくは第三の滞留的過剰人口に吸収されていると言えるだろう。

相対的過剰人口の第三の部類、滞留的過剰人口は、現役労働者軍の一部をなしているが、その就業はまったく不規則である。したがって、それは、自由に利用できる労働力の尽きることのない貯水池を資本に提供している。その生活状態は労働者階級の平均水準よりも低く、そして、まさにこのことがそれを資本の固有な搾取部門の広大な基礎にするのである。

 「蓄積の範囲とエネルギーとともに「過剰化」が進むにつれて、この(滞留的)過剰人口の範囲も拡大される」。まさに蓄積の範囲とエネルギーがグローバルに拡大した現在、非正規労働力の拡大という形でこの滞留的過剰人口がまさに巨大な「貯水池」として広がってきている。
 特に産業構造の転換に伴い、第三次産業の層が増した晩期資本主義では、商業プロレタリアートの滞留的過剰化が顕著に進んでいる。この点、商業資本の構造が取り上げられる第三巻最終篇に至って、「本来の商業労働者は、賃金労働者の比較的高給な部類に属する」にもかかわらず、「国民教育の普及は、この種の労働者を以前はそれから除外されていたもっと劣悪な生活様式に慣れていた諸階級から補充することを可能にする」ため、競争が増し、「彼らの労働能力は上がるのに、彼らの賃金は下がる」という矛盾が指摘されている。
 この滞留的過剰人口にあっては、「出生数と死亡数だけではなく、家族の絶対的な大きさも、労賃の高さに、すなわちいろいろな労働者部類が処分しうる生活手段の量に、反比例する」。すなわちどれほど働いても低賃金を抜け出せないワーキングプアの構造である。マルクスは、「このような資本主義社会の法則は、未開人のあいだでは、または文明化した植民地人のあいだでさえも、不合理に聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱くて迫害を受けることの多い動物種族の大量的再生産を思い出させる。」と書きつけている。
 教育の普及という文明化が商業労働力の価値低下につながるという上述の矛盾とともに、資本主義的「文明」は人間的な生活維持にとって実は不合理であるという文明的矛盾が鋭く突かれている。

最後に、相対的過剰人口のいちばん底の沈殿物が住んでいるのは、受救貧民の領域である。野宿者や犯罪者や売春婦など、簡単に言えば本来のルンペンプロレタリアートを別にすれば、この社会層は三つの部類から成っている。

 相対的過剰人口のさらに下層に位置するのが、この受救貧民層であり、それもルンペンプロレタリアートとして分離され得る最底辺層と本来的な三種の受救貧民層とに大別される。三種の第一は労働能力のある者、第二は孤児や貧児、第三は堕落した者、零落した者、労働能力のない者である。
 こうした「受救貧民は相対的過剰人口とともに富の資本主義的な生産および発展の一つの存在条件になっている。この貧民は資本主義的生産の空費〔faux frais〕に属するが、しかし、資本はこの空費の大部分を自分の肩から労働者階級や下層中間階級の肩に転嫁することを心得ているのである」。
 資本主義諸国が何らかの形で備えている生活保護制度がこうした「転嫁」の典型的なものであるが、その財源は労働者階級や下層中間階級にとっては負担の軽くない租税によっている。とりわけ、消費税は労働者階級の生活手段への課税という性格が強い。

・・・(産業)予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に反比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民層もますます大きくなる。これが資本主義的蓄積の絶対的な一般法則である

 マルクスは、資本主義的蓄積の法則について、こう総括している。近年の日本における生活保護世帯の急増も、この「蓄積法則」によってかなりの程度説明がつく。

最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストスのくさびがプロメテウスを釘づけにしたよりもっと固く労働者を資本に釘づけにする。それは資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。

 マルクスはこう述べて、こうした背反的な傾向性を「資本主義的蓄積の敵対的な性格」と表現している。ここでまたしても、彼は資本家階級と労働者階級の対立の必然性という政治学的なモチーフを滲ませている。
 実際、資本の蓄積と貧困の蓄積が同伴必然的なならば、貧困を撲滅するには資本蓄積を廃絶しなければならないはずであるが、それは資本主義の死を意味している。そこから、資本主義を残しつつ、貧困を撲滅しようという“人道主義”の無効性が認識されるのである。

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晩期資本論(連載第29回)

2015-02-24 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(4)

・・・蓄積の進行につれて、一方ではより大きい可変資本が、より多くの労働者を集めることなしに、より多くの労働を流動させるのであり、他方では同じ大きさの可変資本が同じ量の労働力でより多くの労働を流動させるのであり、最後により高度な労働力を駆逐することによってより多くのより低度な労働力を流動させるのである。

 「どの資本家にとっても、その絶対的関心事は、一定量の労働をより少数の労働者から搾り出すことであって、同様に廉価に、またはよリ以上に廉価に、より多数の労働者から絞り出すことではない」。そこで、資本家としては、既存労働力の外延的または内包的な搾取の増大により、新規労働力を抑制しつつ、新規労働力を非正規労働力に置換することで、産業予備軍を作り出す。

それゆえ、相対的過剰人口の生産または労働者の遊離は、そうでなくとも蓄積の進行につれて速くされる生産過程の技術的変革よりも、またそれに対応する不変資本部分に比べての可変資本部分の比率的減少よりも、もっと速く進行するのである。

 資本間のグローバルな競争関係が増した晩期資本主義では、相対的過剰人口の形成速度はますます増している。一方で、就業中の過少労働力にも負担がのしかかる。

労働者階級の就業部分の過度労働はその予備軍の隊列を膨張させるが、この予備軍がその競争によって就業部分に加える圧力の増大は、また逆に就業部分に過度労働や資本の命令への屈従を強制するのである。

 就業中の現役過少労働力に長時間労働による何人分もの成果が要求されることで、失業・半失業の予備軍は増大するが、「産業予備軍は沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する」という形で現役軍を競争的に脅かすことで、現役労働者はいっそうの過度労働や無理な業務命令への服従を余儀なくされていく。現役労働者にとっても、労働はストレスに満ち、時に過労死/自殺を結果するものとなる。

だいたいにおいて労賃の一般的な運動は、ただ、産業循環の局面変転に対応する産業予備軍の膨張・収縮によって規制されているだけである。だから、それは、労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではなく、労働者階級が現役軍と予備軍とに分かれる割合の変動によって、過剰人口の相対的な大きさの増減によって、過剰人口が吸収されたり再び遊離されたりする程度によって、規定されているのである。

 労働市場における賃金水準の決まり方について、マルクスは資本の膨張・収縮によって労働の需給とそれに応じた賃金水準が定まるのではなく、まさに景気変動の中での産業予備軍の膨張・収縮によって定まるという逆説的な見方を提示している。

一方で資本の蓄積が労働にたいする需要をふやすとき、他方ではその蓄積が労働者の「遊離」によって労働者の供給をふやすのであり、同時に失業者の圧力は就業者により多くの労働を流動させることを強制して或る程度まで労働の供給を労働者の供給から独立させるのである。この基礎の上で行なわれる労働の需要供給の法則の運動は、資本の専制を完成する。

 産業予備軍の調節を通じて回っていく労働市場は、労働者の生殺与奪を資本が掌握する専制権力を作り出す。ここでまた『資本論』に特徴的な政治学的な視座が示されている。

それだからこそ・・・・・・、彼ら(労働者たち)が、彼ら自身のあいだの競争の強さの程度はまったくただ相対的過剰人口の圧力によって左右されるものだということを発見するやいなや、したがってまた、彼らが労働組合などによって就業者と失業者との計画的協力を組織して、かの資本主義的生産の自然法則が彼らの階級に与える破滅的な結果を克服または緩和しようとするやいなや、資本とその追随者である経済学者は、「永遠な」いわば「神聖な」需要供給の法則の侵害について叫びたてるのである。

 ここで、マルクスは就業者と失業者の計画的な協力組織の有効性を提言している。言い換えれば、現役軍と予備軍の共闘である。直後の箇所では「就業者と失業者の連結は、すべて、かの法則の「純粋な」働きをかき乱す」とも指摘している。マルクスは労働組合が現役労働者の利益代弁者であるだけでなく、失業者の利益代弁者であることも期待していたのである。
 この貴重な提言がその後の労働運動に生かされることなく、労組が現役労働者の利益団体として定着したことは、労働運動の「攪乱力」をも弱化させていると言えよう。

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晩期資本論(連載第28回)

2015-02-23 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(3)

資本主義的蓄積は、しかもその精力と規模とに比例して、絶えず、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求にとってよけいな、したがって過剰な、または余剰的な労働者人口を生みだすのである。

 資本蓄積が進行すれば、それだけより多くの労働力が必要とされ、究極的には夢の完全雇用が達成されるのではないか。単純に考えればそうなるが、実際のところ、資本主義社会で完全雇用が達成された試しはない。資本主義社会は好況時であっても恒常的に失業を伴う。このことは、資本主義社会に生きる者であれば誰でも経験的に知っているが、なぜそうなるのか。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役だつ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。

 マルクスは、より抽象的な表現で「資本の蓄積は最初はただ資本の量的拡大として現れたのであるが、それが、・・・・・資本の構成の不断の質的変化を伴って、すなわち資本の可変成分を犠牲として不変成分の不断の増大を伴って、行なわれるようになるのである。」ともまとめている。より具体的には、「蓄積の進行につれて、不変資本部分と可変資本部分との割合が変わって、最初は1:1だったのに、2:1、3:1、4:1、5:1、7:1というようになり、したがって、資本が大きくなるにつれて、その総価値の二分の一ではなく、次々に、三分の一、四分の一、五分の一、六分の一、八分の一、等々だけが労働力に転換されるようになり、反対に三分の二、四分の三、五分の四、六分の五、八分の七、等々が生産手段に転換されるようになるのである」。

 それ(労働にたいする需要)は総資本の大きさに比べて相対的に減少し、またこの大きさが増すにつれて加速的累進的に減少する。総資本の増大につれて、その可変成分、すなわち総資本に合体される労働力も増大するにはちがいないが、その増大の割合は絶えず小さくなって行く。

 このような割合的・相対的に過剰化される労働力という意味で、マルクスはこれを「相対的過剰人口」と呼び、資本蓄積に伴いこうした労働者の相対的過剰化が進むことを、「資本主義的生産様式に特有な人口法則」と規定している。これは過剰人口を労働者人口の絶対的な過度増殖から論じようとしたマルサスの人口論に対するアンチテーゼとしても対置されている。

それ(相対的過剰人口)は自由に利用されうる産業予備軍を形成するのであって、この予備軍は、まるで資本が自分の費用で育て上げたものでもあるかのように、絶対的に資本に従属しているのである。この過剰人口は、資本の変転する増殖欲求のために、いつでも搾取できる人間材料を、現実の人口増加の制限にはかかわりなしに、つくりだすのである。

 マルクスは相対的過剰人口を産業予備軍という軍事的な用語でも言い換えている。ただ、「資本への絶対的従属」という表現はいささか勇み足のようである。産業予備軍はまさに予備役兵のように必要に応じて召集を待機している存在であり、待機中はフリーな存在であるから、絶対的な従属関係とは言えない。ただ、直前の箇所でより適切に説明されているように、「・・この過剰人口は、資本主義的蓄積の槓杆に、じつに資本主義的生産様式の一つの存在条件になる」という意味において、産業予備軍は資本の別働隊である。

近代産業の特徴的な生活過程、すなわち、中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期が、より小さい諸変動に中断されながら、一〇年ごとの循環をなしている形態は、産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成にもとづいている。

 資本主義社会には景気変動がつきものであるが、その周期的変転に際しては、産業予備軍からの「人間材料」の出し入れを通じて、労働力の需給調節がなされていく。その結果―

近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。

 最初に問題提起したように、資本主義社会が常に失業を伴うゆえんである。ところが、「(古典派)経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮をこの転換の原因にしているということのうちに、現れている」。金融主導の資本主義が進行した晩期資本主義社会では、専ら金融の観点からのみ景気変動を解析しようとする部分思考が横行しがちであるが、マルクスによればそうした発想は「浅薄」なものである。

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晩期資本論(連載第27回)

2015-02-10 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(2)

これまでは、どのようにして剰余価値が資本から生ずるのかを考察しなければならなかったが、今度は、どのようにして資本が剰余価値から生ずるかを考察しなけければならない。剰余価値の資本としての充用、または剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれる。

 前回見た単純再生産はすべての経済社会が持続していくうえでの必須条件であり、資本主義社会の場合、それは剰余価値の生産過程として現れるが、資本主義社会の特質は、それだけでなく、剰余価値がさらに資本に転化されることで、鼠算的な資本の増殖・蓄積がなされていくことである。マルクスは、その資本蓄積過程について、次のような簡単な紡績業の具体例をもって説明する。

たとえばある紡績業者が一万ポンド・スターリングの資本を、その五分の四は綿花や機械などに、残りの五分の一は労賃に、前貸ししたとしよう。彼は一年間に一万二千ポンド・スターリングの価値ある二十四万重量ポンドの糸を生産するものとしよう。剰余価値率を100パーセントとすれば、剰余価値は、総生産物の六分の一に当たる四万重量ポンドの糸という剰余生産物または純生産物のうちに含まれており、この生産物は販売によって実現されるはずの二千ポンド・スターリングという価値を持っている。

そこで、新しく加わった二千ポンドという金額を資本に転化させるために、他の事情がすべて不変ならば、紡績業者はこの金額の五分の四を綿花などの買い入れに、五分の一を新たな紡績労働者の買い入れに前貸しするであろう。そして、これらの労働者は、紡績業者が彼らに前貸ししただけの価値をもつ生活手段を市場でみいだすであろう。次に、この新たな二千ポンドの資本が紡績業で機能し、それはまた四百ポンドの剰余価値をうみだすのである。

 上例の流れを、マルクスは次のように一般化して説明し直している。

蓄積するためには、剰余生産物の一部分を資本に転化させなければならない。だが、奇跡でも行なわないかぎり、人が資本に転化させうるものは、ただ、労働過程で使用できる物、すなわち生産手段と、そのほかには、労働者の生活維持に役だちうる物、すなわち生活手段とだけである。したがって、年間剰余労働の一部分は、前貸し資本の補填に必要だった量を越える追加生産手段と追加生活手段との生産にあてられていなければならない。ひとことで言えば、剰余価値が資本に転化できるのは、それをになう剰余生産物がすでに新たな資本の物的諸成分を含んでいるからにほかならないのである

次にこれらの成分を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働の追加を必要とする。すでに使用されている労働者の搾取が外延的にも内包的にも増大しないようにするとすれば、追加労働力を買い入れなければならない。そのためにも資本主義的生産の機構はすぐまにあうようになっている。というのは、この機構は労働者階級を労賃に依存する階級として再生産し、この階級の普通の賃金はこの階級の維持だけではなくその増殖をも保証するに足りるからである。

 上記の記述中、「すでに使用されている労働者の搾取が外延的にも内包的にも増大しないようにするとすれば」という仮定は最も楽観的なものであって、実際上資本家は労働者の搾取を少なくとも内包的には増大させるべく努め、その分追加労働力の買い入れを極力絞り込もうとする。マルクスの具体例はわかりやすくするため、剰余価値率100パーセントというそれ以上の搾取を必要としない率に設定しているが、実際のところ労働基準法の縛りなどから剰余価値率100パーセントの達成は困難である。
 一方で、追加労働力の買い入れを第三者企業(派遣会社)に委託することで、蓄積を増やそうとする非正規労働力への置換戦略は賃金水準の低下をもたらし、労働者階級の増殖を保証できなくさせ、将来の労働力人口の激減を予測させるものとなっている。そのことは、資本主義経済の本質である資本蓄積にも打撃を与える結果となる。

生産の流れのなかでは、およそすべての最初に前貸しされた資本は、直接に蓄積された資本に比べれば、すなわち、それを蓄積した人の手のなかで機能しようと、他の人々の手のなかで機能しようと、とにかく資本に再転化した剰余価値または剰余生産物に比べれば、消えてなくなりそうな大きさ(数学的意味での無限小〔magnitudo evanescens〕)になる。

 つまり、マルクスが前例を使って言い直しているところによれば、「最初の一万ポンドの資本は二千ポンドの剰余価値を生み、それが資本化される。新たな二千ポンドの資本は四百ポンドの剰余価値を生む。それがまた資本化されて、つまり第二の追加資本に転化されて、新たな剰余価値八十ポンドを生み、また同じことが繰り返される」。
 厳密には一致しないが、株式会社企業の資本金に相当するものをいちおう原資の前貸し資本とみなせば、この拡大的な蓄積の理はよく理解できるであろう。

・・・資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然的にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみ、それを拡大することができるのである。

 資本主義を特徴づける螺旋拡大的な蓄積は、単に貨幣蓄蔵者のような貪欲さから生じるのではなく、競争が資本家に法則的に強制するものだという。すなわち「貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現れるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである」。この意味において、マルクスは資本家を「人格化された資本」と呼ぶ。
 このように資本主義的蓄積を一つの社会的機構の作用として把握するシステム論的な視座は、続く第二巻、第三巻でより分析的に展開されていくだろう。

蓄積のための蓄積、生産のための生産、この定式のなかに古典派経済学はブルジョワ時代の歴史的使命を言い表した。

 強制法則として押し付けられる資本蓄積とは、蓄積自体が自己目的と化した蓄積である。「古典派経済学にとっては、プロレタリアはただ剰余価値を生産するための機械として認められるだけだとすれば、資本家もまたただこの剰余価値を剰余資本に転化するための機械として認められるだけである」。現在でも支配的な古典派経済学はこうした機械論的発想をいっそう進め、資本主義の機構的な仕組みを地球規模で強化しようとしている。

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晩期資本論(連載第26回)

2015-02-09 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(1)

 『資本論』第一巻は、全体として「資本の生産過程」に焦点を当てており、全巻の土台を成す巻であるが、その最後を飾る第七篇は「資本の蓄積過程」と題され、第一巻の総まとめとして、マルクスによれば剰余価値の生産を軸とする資本蓄積の構造が、より抽象度を増す形で、叙述されている。

生産過程は、その社会的形態がどのようであるかにかかわりなく、連続的でなければならない。社会は、消費をやめることができないように、生産をやめることもできない。それゆえ、どの社会的生産過程も、それを一つの恒常的な連関のなかで、またその更新の不断の流れのなかで見るならば、同時に再生産過程なのである。

 これは、生産様式のいかんを問わず、普遍的に妥当する定理である。逆言すれば、再生産過程が途絶したとき、その社会は滅亡する。「もし生産が資本主義的形態のものであれば、再生産もそうである」。その資本主義的再生産とはいかなるものか―。

・・・労働者自身は絶えず客体的な富を、資本として、すなわち彼にとって外的な、彼を支配し搾取する力として、生産するのであり、そして資本家も絶えず労働力を、主体的な、それ自身を対象化し実現する手段から切り離された、抽象的な、労働者の単なる肉体のうちに存在する富の源泉として、生産するのであり、簡単に言えば労働者を賃金労働者として、生産するのである。このような、労働者の不断の再生産または永久化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである。

 マルクスは、同じことをもう少し抽象度を上げて、「彼(労働者)がこの過程(生産過程)にはいる前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家のものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程のなかで、絶えず他人の生産物に対象化されるのである。」とも述べている。
 この定理の中には、「自己疎外」という一昔前に流行語として風靡した術語が見えるほか、別の箇所では「他人の不払労働の物象化」という表現で言い換えられた「物象化」の概念も含まれている。
 講学的には、しばしばマルクス哲学の「疎外論」と「物象化論」を区別し、青年期の「疎外論」が壮年期以降の「物象化論」に転回したとのとらえ方もなされることがあるが、両者は実質上同じことを観点を異にして表現しているにすぎないことが上掲箇所から理解される。

・・・社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。

 労働者は賃金を自分自身の生活の資に充てるが、それとて、「絶対的に必要なものの範囲内では、労働者階級の個人的消費は、資本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の、資本によって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは、資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者そのものの生産であり再生産である」。

個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産とが行なわれるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えず繰り返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。

 ここで、「生活手段をなくしてしまうことによって」とは、「賃金以外の生活手段」と補わなければ意味をなさないであろう。つまり、まさに労働者を「生かさぬように、殺さぬように」が資本の再生産戦略であり、このような意味において、マルクスは資本主義的賃金労働者を「賃金奴隷」と呼んだのである。ただ、真の奴隷と異なり、賃金奴隷が「自由」な存在者に見える「賃金労働者の自立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されているのである」。

労働者階級の再生産は、同時に、世代から世代への技能の伝達と累積とを含んでいる。このような熟練労働者階級の存在を、どんなに資本家が自分の所有する生産条件の一つに数え、この階級を実際に自分の可変資本の現実的存在とみなしているかということは、恐慌にさいしてこのような階級がなくなるおそれが生ずれば、たちまち明らかになる。

 日本でも、「失われた十年」の間の大量リストラでこうした熟練労働者階級を整理したことの代償が指摘される。ただ、情報化が進んだ晩期資本主義では、熟練技能に頼るべき労働が減少し、大資本ではむしろ未熟練労働者を安く使い捨てにする戦略に移行しており、熟練労働者不足は、今なお熟練労働に頼る中小資本において深刻になるだろう。資本間での格差問題である。

こうして、資本主義的生産過程は、連関のなかでは、すなわち生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである。

 資本主義的再生産の大きな構造をまとめる公理である。ここでも、マルクスは経済的な言葉で、資本主義においては、資本家階級と労働者階級の固定化が必然的であることを政治的に示そうとしている。『資本論』が経済学書の形態を持った政治学書であるゆえんである。

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晩期資本論(連載第25回)

2015-01-28 | 〆晩期資本論

五 労賃の秘密(3)

出来高賃金では、一見したところ、労働者が売る使用価値は彼の労働力の機能である生きている労働ではなくてすでに生産物に対象化されている労働であるかのように見え、また、この労働の価格は、時間賃金の場合のように労働力の日価値を与えられた時間数の労働日で割った分数によってではなくて、生産者の作業能力によって規定されるかのように見える。

 出来高賃金は、時間決めではなく、成果決めで支払われる労賃形態であるから、成果のいかんにかかわらず一定額の賃金が支払われる画一的な時間賃金より「公正」な労賃形態であるように見える。しかし決してそうではなく、「出来高賃金は時間賃金の転化形態にほかならないのであ」る。

時間賃金の場合には労働がその直接的持続時間で計られ、出来高賃金の場合には一定の持続時間中に労働が凝固する生産物量で労働が計られる。労働時間そのものの価格は、結局は、日労働の価値=労働力の日価値という等式によって規定されている。だから、出来高賃金はただ時間賃金の一つの変形でしかないのである。

 労働時間無制限の純粋出来高賃金なら別であるが、作業効率や労務管理上、出来高賃金といえども、労働時間制の枠内で行なわれるしかない。その場合、労働時間の価格が労働力価値で規定されることに変わりはないため、出来高賃金の本質は時間賃金と同じである。ただし―

この場合には、労働の質が製品そのものによって左右されるのであって、各個の価格が完全に支払われるためには製品は平均的な品質をもっていなければならない。出来高賃金は、この面から見れば、賃金の削減や資本家的なごまかしの最も豊かな源泉になる。

 出来高賃金は本質においては時間賃金と変わりないが、賃金の支払いは成果決めであるので、当然所定の成果を出せない労働者には低い賃金しか支払われない。だが、成果の評価基準を握っているのは資本の側であるから、意図的に高い評価基準を設定することで、全体の賃金水準を引き下げたり、成果の上がらない個別の労働者を狙い撃ちして賃下げするような仕掛けもしやすくなる。

出来高賃金が与えられたものであれば、労働者が自分の労働力をできるだけ集約的に緊張させるということは、もちろん労働者の個人的利益ではあるが、それが資本家によっては労働の標準強度を高くすることを容易にするのである。同様に、労働日を延長することも労働者の個人的利益である。というのは、それにつれて彼の日賃金や週賃金が高くなるからである。

 出来高賃金制では、労働者は少しでもよい賃金を得ようと「頑張る」のは当然であり、自ら率先して労働時間の延長も受け入れる。出来高賃金は「一方では労働者たちの個性を、したがってまた彼らの自由感や独立心や自制心を発達させ、他方では労働者どうしのあいだの競争を発達させるという傾向がある。それゆえ、出来高賃金は、個々人の労賃を平均水準よりも高くすると同時にこの水準そのものを低くする傾向があるのである」。

これまでに述べてきたところから、出来高賃金は資本主義的生産様式に最もふさわしい労賃形態だということがわかる。

 出来高賃金は、月給制のような通常の時間賃金に比べ、資本にとって大きなメリットのある魅力的な労賃形態であることは間違いない。そのため、今後、導入が進む可能性がある。とはいえ―

・・・出来高賃金の変動は、それだけならば純粋に名目的であるのに、資本家と労働者とのあいだの絶えまのない闘争をひき起こす。なぜかといえば、資本家が実際に労働の価格を引き下げるための口実にそれを利用するからであるか、または、労働の生産力の増大には労働の強度の増大が伴っているからである。あるいはまた、出来高賃金の場合にはあたかも労働者は彼の生産物に支払われるのであって彼の労働力に支払われるのではないかのように見える外観を、労働者がほんとうだと思いこみ、したがって、商品の販売価格の引き下げが対応しないような賃金の引き下げに反抗するからである。

 出来高賃金制はあまりにも資本に有利な労賃形態であるために、単純な時間賃金制以上に労使対立を引き起こしやすいというデメリットが実はある。そのため、現時点では出来高賃金制は賃金水準が元来高く、労組活動が不活発なホワイトカラー労働者への例外的適用(エグゼンプション)が中心となっているが、全般に労組の対抗力が弱化している晩期資本主義では、ブルーカラー労働者への適用もしやすい環境が整いつつある。

☆小括☆
以上、「五 労賃の秘密」では、『資本論』第一巻の比較的短い第六篇「労賃」の部分を参照しながら、資本主義的労働の象徴である労賃の本質的な仕組みについて解析した。

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晩期資本論(連載第24回)

2015-01-27 | 〆晩期資本論

五 労賃の秘密(2)

労賃はそれ自体また非常にさまざまな形態をとるのであるが、この事情は、素材にたいする激しい関心のために形態の相違には少しも注意を払わない経済学概説書からは知ることのできないことである。

 たしかに通常の経済学の教科書に労賃形態の詳しい分析は載っていない。それは、一つには、長きにわたり、資本主義的労賃形態は月給制に代表される画一的な時間賃金であったせいもあろう。しかし、晩期資本主義では、賃金体系の多様化の名の下に、種々の搾取的な労賃形態が登場してきており、分析の必要は高まっている。

労働力の売りは、われわれが記憶しているように、つねに一定の時間を限って行なわれる。それゆえ、労働力の日価値、週価値、等々が直接にとる転化形態は、「時間賃金」という形態、つまり日賃金、等々なのである。

 労賃は様々な形態をとるとはいえ、基本的には労働時間に応じた時間賃金の性質を持つことは現代でも変わりないところである。アルバイトの時給は典型的な時間賃金であるが、月給でも本質は同じである。

時間賃金の度量単位、一労働時間の価格は、労働力の日価値を慣習的な一労働日の時間数で割った商である。かりに一労働日は一二時間であり、労働力の日価値は三シリングで六労働時間の価値生産物だとしよう。一労働時間の価格はこの事情のもとでは三ペンスであり、その価値生産物は六ペンスである。ところで、もし労働者が一日に一二時間よりも少なく(または一週に六日よりも少なく)、たとえば六時間か八時間しか働かされないとすれば、彼は、この労働の価格では、二シリングか一・五シリングの日賃金しか受け取らない。

 労働時間の短縮は労働者に有利に見えるが、労働の価格はかえって引き下がり、資本にとっては有利な面がある。この逆説について、マルクスは「人々は、前には過度労働の破壊的な結果を見たのであるが、ここでは労働者にとって彼の過少就業から生ずる苦悩の源泉を見いだすのである。」と指摘している。
 ただし、「このような変則的な過少就業の結果は、労働日の一般的な強制法的な短縮とはまったく違ったものであ(る)」。つまり、労働法に基づく強制的な時短の場合とは異なり、資本の任意の戦略としての「時短」は、それ自体搾取の手段なのである。このことは、労働時間の短いパートタイム労働の例を見れば明らかである。

日賃金や週賃金は上がっても、労働の価格は名目上は変わらないで、しかもその正常な水準よりも下がることもありえる。それは、労働の価格または一労働時間の価格が変わらないで労働日が慣習的な長さよりも延長されれば、必ず起きることである。

 給料は上がっても、労働時間が延長される場合には、やはり労働の価格は相対的に引き下がる。この場合、「(標準労働日の)限界を越えれば、労働時間は時間外(overtime)となり、一時間を度量単位として、いくらかよけいに支払われる(extra pay)。といっても、その割合は多くの場合おかしいほどわずかではあるが」。晩期資本主義は、例外を作る「エグゼンプション」の名の下に、こうした「おかしいほどわずかな」割増賃金(残業代)すら骨抜きにしようとしている。

もし一人が一・五人分とか二人分とかの仕事をするとすれば、市場にある労働力の供給は変わらなくても、労働の供給は増大する。このようにして労働者のあいだにひき起こされる競争は、資本家が労働の価格を押し下げることを可能にし、労働の価格の低下は、また逆に資本家が労働時間をさらにいっそう引き延ばすことを可能にする。しかし、このような、異常な、すなわち社会的平均水準を越える不払労働量を自由に利用する力は、やがて、資本家たち自身のあいだの競争手段になる。

 労働時間の延長によって一人の労働者の労働量が上がれば、少ない職をめぐって求職者間の競争は高まる。それによって、資本は労働の価格を引き下げ、いっそう長時間労働を強いることも可能になるが、そのようにして資本家間での競争も巻き起こす。それは表面上は安売り競争として現れるが、晩期資本主義では、こうした資本家間の破壊的な競争も激化している。

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晩期資本論(連載第23回)

2015-01-26 | 〆晩期資本論

五 労賃の秘密(1)

ブルジョワ社会の表面では、労働者の賃金は労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として、現れる。

 これは『資本論』冒頭の書き出し「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。」と並び、商品と労賃を基軸として成り立つ資本主義社会の特質を端的に表現する一句である。

労働市場で直接に貨幣所持者に向かい合うものは、じっさい、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。彼の労働が現実に始まれば、それはすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られることはできない。

 労働者の主観においても、労賃は「労働の価格(対価)」と認識されているであろうが、マルクスの理解によれば、労賃とは商品としての「労働力の価格」であって、労働の価格ではない。このような理解の仕方は、マルクスから「労働市場」という概念だけは取り込んだ現代経済理論にあっても浸透していない。それは、最先端の現代経済理論にあっても基本的に古典派経済学の域を出ていないからである。

古典派経済学は、日常生活からこれという批判もなしに「労働の価格」という範疇を借りてきて、それからあとで、どのようにこの価格が規定されるか?を問題にした。やがて、古典派経済学は、需給供給関係のほかには、労働の価格についても、他のすべての商品の価格についてと同様に、この価格の変動のほかには、すなわち市場価格が一定の大きさの上下に振動するということのほかには、なにも説明するものではないということを認めた。

 実際、主流的な経済理論では、景気循環に伴う労働市場における賃金水準の変動しか論議の対象とならず、労賃のからくりについては視野の外に置かれたままである。

・・・労賃という形態は、労働日が必要労働時間と剰余労働時間とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去る。すべての労働が支払労働として現れるのである。

 マルクスはこうした賃労働の特質を明らかにするため、「賦役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される」農奴の賦役労働と、「労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる」奴隷労働とを対比している。
 つまり、労賃は「労働の対価」という衣を纏うことによって、実は無償で働かされている剰余労働の部分を労働者自身に対しても隠しているというわけである。このことをマルクスは「労賃の秘密」と呼び、「労賃の秘密を見破るためには世界史は多大の時間を必要とするのであるが、これに反して、この現象形態の必然性、存在理由を理解することよりもたやすいことはないのである。」とも指摘している。
 「労賃の秘密を見破る」という課題こそ、マルクスが『資本論』を通じて示そうとしたことでもあるが、その際、マルクスは表面的な現象形態とその背後に隠されているものとの明確な区別を説き、次のような一般的な注意点を提示している。

現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。

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晩期資本論(連載第22回)

2015-01-14 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(5)

 マルクス経済理論で最も重要な経済指標は、これまでにも見てきた剰余価値率(搾取率)である。剰余価値率は、資本構成に着目すれば、剰余価値を可変資本(労働力の価値)で割った商として表されるが、労働の成分に着目するなら、剰余労働(時間)を必要労働(時間)で割った商として表される。より平易に言い換えれば、不払労働を支払労働で割った商である。
 
 これに対して、現代の経済理論でもなお主流である古典派経済学では、剰余労働によって生産された剰余価値(剰余生産物)を全労働(総生産物)で割った商をもって労働分配率として示すことが行われるが、この定式によると、例えば、必要労働6時間+剰余労働6時間の計12時間労働という例でも、マルクスの定式によれば、六分の六で剰余価値率100%と算出されるところ、分母に総労働時間の12時間が置かれるため、十二分の六=50%と剰余価値率は過少に算出されることになる点に、マルクスは強く反対している。
 しかし、現代では労働組合をはじめとする労働運動主流もこうした古典派的な労働分配率を労働経済の指標とする保守的な傾向が定着しており、マルクス的な剰余価値率は顧みられなくなっている。

 とはいえ、剰余価値(率)という概念も、晩期資本主義の労働関係では限界をさらしている。上述のように、剰余価値率は剰余労働を必要労働で割った商として表されるが、この定式でポイントになる必要労働と剰余労働とを時間量で厳密に区別することが困難になっているからである。
 そもそも『資本論』が主として想定する工場労働のように比較的単純明快な労働の場合でも、労働力の維持・再生産に必要な労働(支払労働)とそれを越えた剰余労働(不払労働)とを、労働の種類・内容や経験年数等の要素を捨象して時間的に析出することは難しいが、現代では裁量労働や在宅労働など「働き方の多様化」の名のもとに労働時間の枠自体を曖昧にする労務管理戦略が出現していることから、ますます必要労働と剰余労働の切り分けは困難化している。それでも、剰余価値(率)の概念を生かすとすれば、それはこの概念の裏に隠された政治学的な側面である。

それ(資本)は本質的には不払労働にたいする指揮権である。

 この一言に『資本論』の政治学的な含意が垣間見える。ここで不払労働とは剰余労働のことであるから、言い換えれば、資本の本質は剰余労働に対する指揮(命令)権ということになる。厳密な算出可能性はともかくとしても、資本は常に労働者に剰余労働を強制し、搾取することで成り立っている。
 マルクスは別の箇所では、よりはっきりと政治的な表現で、「・・・資本は自分の労働者にたいする自分の専制を、よそではブルジョワジーがあんなに愛好する分権もそれ以上に愛好する代議制もなしに、私的法律として自分勝手に定式化している」とか、「・・・アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政官などの権力は、近代社会では資本家の手に移っているのであって、それは、彼が単独の資本家として登場するか、それとも株式会社におけるように結合資本家として登場するかにはかかわらないのである。」とも述べて、資本(家)と労働(者)の関係をまさに政治的にとらえようとしている。
 
 マルクスにとって資本は単に経済学的な概念ではなく、政治的権力でもあった。このような一見独特な把握の仕方の背後には、政治的なものの出発点を労働の場における階級闘争に置こうとするマルクスの視点が控えていることが見て取れる。
 しかし、晩期資本主義の特徴は、労働者の階級闘争が鈍化し、せいぜい恒例の賃上げ交渉に矮小化されている点にある。賃上げは不払労働の軽減につながるが、決定打ではない。賃金体系にも様々な仕掛けがあるからである。これがマルクスが篇を改めて取り組む次の課題である。

☆小括☆
以上、「四 剰余価値の生産」では、『資本論』第一巻第三篇「絶対的剰余価値の生産」第八章「労働日」に始まり、第四篇「相対的剰余価値の生産」、第五篇「絶対的および相対的剰余価値の生産」に至る箇所を参照しながら、マルクス経済理論の中核概念である剰余価値(率)について、その現代的な意義を概観した。

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晩期資本論(連載第21回)

2015-01-13 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(4)

資本主義的生産は単に商品の生産であるだけでなく、それは本質的に剰余価値の生産である。労働者が生産するのは、自分のためではなく、資本のためである。だから、彼がなにかを生産するというだけでは、もはや十分ではない。彼は剰余価値を生産しなければならない。生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役だつ労働者だけである。

 資本主義を剰余価値の生産という視点から見た比較的わかりやすい総まとめである。マルクスはさらに具体例として、「物質的生産の部面の外」から教育労働者=教師の例を挙げ、「学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく企業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。」と皮肉交じりに述べている。
 マルクスが『資本論』で取り上げる労働者は断りない限り、物質的な商品を生産する工場労働者を想定しているが、ここで商品生産に従事しない教師の例が出されていることは、教育にも資本の支配が及び、営利企業系(株式会社)の学校が出現している時代を先取りするような先見性が認められる。

労働者がただ自分の労働力の価値の等価だけを生産した点を越えて労働日が延長されること、そしてこの剰余労働が資本によって取得されること―これは絶対的剰余価値の生産である。それは、資本主義体制の一般的な基礎をなしており、また相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。この相対的剰余価値の生産では、労働日ははじめから二つの部分に分かれている。すなわち、必要労働と剰余労働とに。剰余労働を延長するためには、労賃の等価をいっそう短時間で生産する諸方法によって、必要労働が短縮される。

 絶対的剰余価値と相対的剰余価値に区別に関する総まとめである。これに続けて、マルクスは資本と労働の関係という観点から、絶対的剰余価値生産を「資本のもとへの労働の形式的従属」、相対的剰余価値生産を「資本のもとへの労働の実質的従属」とも表現している。つまり、形式的に「ただ労働日の長さだけを問題にする」絶対的剰余価値の生産と、より実質的に「労働の技術的諸過程と社会的諸編成とを徹底的に変革する」相対的剰余価値の生産の相違を言い表したものである。

労働力がその価値どおりに支払われることを前提とすれば、われわれは次の二つのどちらかを選ばなければならない。労働の生産力とその正常な強度とが与えられていれば、剰余価値率はただ労働日の絶対的な延長によってのみ高められうる。他方、労働日の限界が与えられていれば、剰余価値率は、ただ必要労働と剰余労働という労働日の二つの構成部分の大きさの相対的な変動によってのみ高められ、この変動はまた、賃金が労働力の価値よりも低く下がるべきでないとすれば、労働の生産性かまたは強度の変動を前提する。

 マルクス経済理論における最も重要な経済指標となる剰余価値率の変動要因をまとめた定理である。最終的にマルクスは、労働力の価値と剰余価値の相対的な大きさを決定づける要因として、①労働日の長さ、すなわち労働の外延量②労働の正常な強度、すなわち労働の内包量③労働の生産力の三要因を抽出し、各々が可変的ないし不変的であるような様々な場合を想定して縷々数理的に検証している。
 その最後のところで、マルクスは労働の持続性と生産力、強度が同時に変動する場合を取り上げ、その中で(1)労働の生産力が低下して同時に労働日が延長される場合と(2)労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合との対照を試みている。このうち、(1)の実例として、1799年から1815年にかけての英国で、実質労賃が下がったのに名目賃金が引き上げられた状況で生活手段の高騰が生じたケースを挙げ、次のように分析する。

・・・高められた労働の強度と強制された労働時間の延長とのおかげで、剰余価値は当時は絶対的にも相対的にも増大したのである。この時代こそは、無限的な労働日の延長が市民権を獲得した時代だったのであり、一方では資本の、他方では極貧の、加速的な増加によって特別に特徴づけられた時代だったのである。

 実は、このような絶対的‐相対的剰余価値の総合的増大こそは、資本家・経営者が思い描く資本主義経済の理想状態である。しかし、それは一般労働者大衆にとっては生活難を意味する。これと類似の現象は「アベノミクス」下の現代日本でも起きている。

資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部分は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。

 これは先の二つの場合のうち、(2)労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合を想定した指摘であるが、このようなことは資本主義体制では実行不能であり、まさに「資本主義的生産形態の廃止」をもって実現する。『資本論』は基本的に資本主義経済体制の分析の書であって、未来の共産主義経済体制のあり方を議論の対象外としているが、ここでマルクスは補足的に、共産主義経済体制のありように言及している。
 マルクスが想定する共産主義社会では、剰余価値生産の源泉である剰余労働が消え、必要労働に純化されるとともに、剰余労働の一部は備蓄生産や福祉的な生産を目的とする必要労働に転換される。さらに進んで―

労働の強度と生産力とが与えられていれば、労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されているほど、すなわち社会の一つの層が労働の自然必然性を自分からはずして別の層に転嫁することができなければできないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、したがって、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる。

 「労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されている」社会とは、共産主義社会のことである。これに対して、「資本主義社会では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである」。会社社長が観劇に興じる時間は、彼が雇用する労働者の生活時間の大半が労働に充てられることで作り出されている。反対に、社長自ら工場のラインに立つならば、他の労働者にも観劇を楽しむ時間が作り出されるというわけである。

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