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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第5回)

2014-07-30 | 〆晩期資本論

一 商品の支配(4)

諸商品は、それらの使用価値の雑多な現物形態とは著しい対照をなしている一つの共通な価値形態―貨幣形態をもっているということだけは、だれでも、ほかのことはなにも知っていなくても、よく知っていることである。

 商品にはすべて交換価値として、貨幣で数値的に表された値段がついている。このことは、商品支配の世界で生きる者なら、子どもでも知っている。しかし、ここでマルクスが「だれでも、ほかのことはなにも知っていなくても、よく知っている」と断じるのは、いさささ筆を滑らせている。現代世界でも、貨幣経済を持たないままアマゾンの密林奥深くに住む文明未接触部族にとっては、モノの価値が貨幣で抽象的に示されるということは、決して自明ではない。マルクスが「貨幣の謎」と呼ぶものを知っているのは、貨幣交換を自明のものとする社会に生まれ育った者だけである。
 ただ、それはあくまでも経験的に知っているというだけであって、「貨幣の謎」を原理的に理解している人は少ない。マルクスは、彼なりの理論によって、この謎に迫ろうとした。それによると、商品の貨幣形態には四段階の論理的なプロセスが含まれている。

x量の商品A=y量の商品B またはx量の商品Aはy量の商品Bに値する。

 マルクスはこの第一段階の定式を「単純な価値形態」と命名する。具体例として、リンネル(布素材)20エレ=上着一着という物々交換事例が挙がっている。物々交換がほぼ廃れた晩期資本主義社会では、理解しにくい規定である。元来、物々交換は地域ごとに慣習的に形成されてきた経済行為であって、何と何を交換するかは慣習によって定まることであり、画一的に貨幣と交換する貨幣交換とは本質的に異なるものであった。しかし、マルクスはこの定式を次のように、持論の労働価値説と結びつける。

「20エレのリンネル=一着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式は、一着の上着に、20エレのリンネルに含まれているのとちょうど同じ量の価値実体が含まれているということ、したがって両方の商品量に等量の労働または等しい労働時間が費やされているということを前提とする。

 こう定言した後、マルクスは「しかし、20エレのリンネルまたは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布または裁縫の生産力の変動につれて変動する。」と付け加えて、その変動の具体的事例を数学的に縷々検討している。
 けれども、物々交換と貨幣交換はおおまかに言えば前者から後者への歴史的な変遷は認められるものの、両者の間には文化的な断絶があり、前者から後者を直接に導くことはできない。マルクスには経済人類学の知見が十分になかったこと―当時は、人類学自体が未発達であった―が、こうした机上論的定式化を来たした一つの原因であったろう。

z量の商品A=u量の商品B または=v量の商品C または=w量の商品D または=x量の商品E またはetc.

 マルクスはこの第二段階の定式を「拡大された価値形態」と命名する。見たとおり、これは上記の定式をより様々な商品との交換関係に拡大したものである。しかし、こうした物々交換の規則は慣習的に定まるのであるから、労働価値説のような机上論で統一的に説明しようとしても、それを実証することはできない。

一着の上着 10ポンドの茶 40ポンドのコーヒー 1クォーターの小麦 2オンスの金 二分の一トンの鉄 x量の商品A 等々の商品 =20エレのリンネル

 マルクスはこの第三段階の定式を「一般的価値形態」と命名する。これは第二段階の定式を言わば逆さまにした定式であり、掲記された量の諸商品がすべて20エレのリンネルの等価物に収斂されていくことを示している。しかし、現実の取引社会にこのような物々交換表は存在しないのであり、これは論理上最終の貨幣形態を導き出すためにマルクスが案出した中間項であった。

20エレのリンネル 一着の上着 10ポンドの茶 40ポンドのコーヒー 1クォーターの小麦 二分の一トンの鉄 x量の商品A =2オンスの金

 マルクスによれば、これが最終段階の「貨幣形態」である。これは、第三段階の統一的な価値形態であった20エレのリンネルを2オンスの金に置き換えたものである。しかし、この定式はまだ金そのものを物々交換対象としており、あらゆる物品を抽象的な貨幣価値と交換する貨幣交換にはあてはまらない定式である。そこでマルクスは、最後に「価格形態」という用語を追加して、次のように規定する。

すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。

 こう述べて、先の20エレのリンネル=2オンスの金という定式を20エレのリンネル=2ポンド・スターリングという定式にすり替えるのであるが、金そのものを物々交換対象としている前者と金を貨幣単位に抽象化して交換価値としている後者では経済行為としての意味を異にしており、両者を単純に置換することはできない。かくして、マルクスの有名な価値形態論は精巧な論理の手品のようなものであったと言ってよい。
 ただ、マルクスが最後に苦し紛れに持ち出した「価格形態」は、まさにアマゾン的な巨大な商品市場の原理を説明するうえでなお有益な概念であるが、それは一般的な価値形態とは断絶した晩期資本主義社会に特有の文化的な価値形態である。

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晩期資本論(連載第4回)

2014-07-17 | 〆晩期資本論

一 商品の支配(3)

ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。

 前回の末尾で、使用価値とひとまず分離される交換価値とは何者かという問いを残したが、そのマルクス的な回答がこれである。すなわち、商品の交換価値は各商品の生産に要する抽象的人間労働の量によって決せられるといういわゆる労働価値説の定式である。
 しかし、一つの工場内部でも複雑な専門分業体制が採られ、オートメーション化・ロボット化も進み、人間の労働自体がシステム管理的なものに変貌してきた現在、労働価値説の妥当性は揺らいでいる。

一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。

 商品の交換価値は、その商品の生産に要する労働時間が長いほど高価となり、短時間労働で大きな生産量を達成できるほど、廉価となる。しかしこれはあくまでも机上論であって、実際のところ機械化が高度に進み、生産力が飛躍的に向上した現在でも、長時間労働は解消されておらず、むしろ多労働・高生産というねじれ現象が起きているため、長時間労働かつ廉売という結果となる。

すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。

 商品の交換価値を形成するのは抽象的人間労働であるが、その使用価値を形成するのは具体的有用労働である。例えば、机の使用価値を形成するのは木材その他の材料から机という使用価値のあるモノを製作する具体的な労働であるが、机に交換価値を与えるのは、単にそれを製造する労働者の労働時間に還元される抽象的な労働である。
 このような労働の二面的な性格については、エンゲルスが追記した補注の中で、使用価値を作る具体的有用労働workと、交換価値を形成する抽象的人間労働labourを区別している。日本語には正確に対応する用語がないが、前者は労働、後者は勤労に当たるかもしれない。

ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは、人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくとも、有用であり人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。

 商品=抽象的人間労働の価値化体だとすれば、商品は労働生産物でなければならない。しかし労働生産物でも自家消費する物は商品ではない。後者はそのとおりであるが、前者は現代資本主義にはあてはまらなくなっている。
 例えば、今や水までミネラルウォーターとして商品化されている。もっとも、ミネラルウォーターといえども汲み上げた水をそのまま販売しているわけではなく、殺菌・ろ過とペットボトル充填という最小限度の加工は施されていることを考えると、これも一種の「労働生産物」と言えなくはない。しかし水そのものは自然に湧出するものであるから、労働価値説を厳密に適用する限り、ミネラルウォーターは商品でないことになるが、現代資本主義では水もれっきとして商品化されている。
 また、コンピュータソフトのような知的財産もCD-ROMのような形態で物体化されて販売されるが、商品価値が付与されるのは非物体的なアイデアに対してである。アイデアも「知的労働」の生産物とみなすこともできなくないが、基本的には着想という作用の成果である。
 このように、商品化が拡大された現代資本主義社会では、労働価値説では説明し切れない商品―「準商品」といった新概念を作り出せば別であるが―が少なからず存在している。

労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。

 有用労働=workは、自給自足生活にあっても行われる人間の対自然的な働きかけであり、これが本来の意味における普遍的な労働である。しかし、商品生産が全面化し、衣食住のすべてを既成の商品でまかなう現代資本主義社会の生活では、この意味での労働を一切行わない生活様式も成り立ち得るようになっている。とすると、有用労働はもはや永遠の自然必然性ではなくなり、商品生産の前提となる抽象的労働=labourこそが必然化するという逆転現象が生じていることになる。

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晩期資本論(連載第3回)

2014-07-16 | 〆晩期資本論

一 商品の支配(2)

使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている―交換価値の。

 資本主義社会の主役である商品も一つの富であるから、当然何らかの使用に役立つ性質―使用価値―を持つが、単に使用価値を持つだけでは商品にならない。商品は、他のモノとの交換関係で定まる価値―交換価値―を持っている。ということは、交換に供し得るだけの使用価値を持っていることが必要である。

いろいろな商品のいろいろな使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する。ブルジョワ社会では、各人は商品の買い手として百科事典的な商品知識をもっているという擬制が一般的である。

 第二文は脚注の言葉であるが、名言である。ブルジョワ資本主義社会に生きる者は、巨大な商品の集まりの中から、購買するに値する使用価値を持つ商品を選び出す眼力を持っているものとみなされている。しかし、現実にはそんな商品学の知識を持つ消費者はほとんどいないため、使用価値のないモノをあるように偽ったり、実際の使用価値を過大に宣伝したりする商品詐欺が跡を絶たない。商品化の拡大により、詐欺商法は蔓延状態にある。というより、何らかの誇大宣伝は常態化しており、それが違法行為に当たるかどうかは程度問題にすぎない。

交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現れる。それは、時と所によって絶えず変動する関係である。

 交換価値が、使用価値と使用価値の量的関係である―例えば、机2個と本棚1個―というのは、物々交換では言えることだが、貨幣交換―例えば、机2個と2万円―になると、こうした使用価値対使用価値という関係も消失し、金額的価値として抽象化される。それは「物価」として相場を形成し、時間的・場所的に上下変動する不安定な社会因子となる。

使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んではいないのである。

 ここで、マルクスは交換価値には使用価値は一切含まれないかのようにいささか筆を滑らせているが、冒頭で述べたように、交換価値を持つには交換に値するだけの使用価値を持つことが本則である。しかし貨幣交換が圧倒的に通常の交換方法となった現代資本主義社会における交換価値は、使用価値と無関係ではないにせよ―多機能で高度な使用価値を持つ商品は通常高価である―、ひとまず使用価値から分離されている。そのため、使用価値のないシロモノが商品として出回る詐害現象が発生しやすい。では、交換価値とはいったい何者なのか。

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晩期資本論(連載第2回)

2014-07-03 | 〆晩期資本論

一 商品の支配(1)

資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。

 『資本論』第一巻(以下、単に「第x巻」という)の出だしのこの一句は、当時としては比喩的な名言であったが、資本主義が爛熟期を迎えた現時点では、ごく常識にすぎない。資本主義が隆盛な社会は商品で溢れかえっており、商品の品揃えが豊かさの尺度となっている。
 マルクスの時代には、商品の販売所といえば、まだ伝統的な個人商店が中心であったが、今や資本主義が発達した諸国では、大量の商品を集積させた一つの倉庫のような量販店が至るところに林立し、まさに「巨大な商品の集まり」が比喩でなくなっている時勢である。

机はやはり材木であり、ありふれた感覚的なモノである。ところが、机が商品として現れるやいなや、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまうのである。

 マルクスは、商品について総論的に分析した第一巻第一章の末尾を「商品の呪物的性格とその秘密」と題する経済人類学的な叙述の節で結んでいる。その冒頭で挙げられる例がこれである。商品を目にしたときに、その元の素材の姿を想像したり、それを職人や労働者が机に加工・製作している姿を想像したりすることはまずない。まるで、机が自然にそこに生じたかのように映じ、他の類似商品と比較したり、同一商品の価格だけを比較したりする。
 マルクスはそのような商品の持つ不可思議な超感覚性を呪物崇拝にたとえている。呪物崇拝は、太古の人類が特定の自然物に宗教的な意味を付与して崇める風習であったが、資本主義世界では人間の労働の産物である商品が崇拝の対象となる。

商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を、労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、かれらの外に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということである。

 こうした商品フェティシズム現象は、余力を超えて不必要な商品まで偏執的に買い込む買物依存症のような精神的疾患を社会問題化させるまでになっている。
 個人による大量の商品取得を可能としているのが、取得に際して交換に供せられる貨幣という手段である。もし物々交換社会であれば、交換に必要な対応商品の準備が必要なため、大量の商品取得は困難である。貨幣はそれ自体専ら交換手段として使用される簡便な商品であり、しかも現代ではクレジットや電子マネーのような非現金決済システムの発達により、商品の取得はよりいっそう簡便化されている。マルクスは、こうした貨幣こそ、商品フェティシズムの直接的契機とみなしていた。

商品形態のこの完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。

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晩期資本論(連載第1回)

2014-07-02 | 〆晩期資本論

小序

 拙論『共産論』は、未来における共産主義社会の実像を筆者なりに構想する試みであったが、現在はそのずっと手前の段階にある。これまで『共産論』その他でも言及してきたように、現時点は20余年前のソ連邦解体以後の世界の只中にあり、国内及び国際通念上は「資本主義の勝利」の時代とみなされている。
 たしかに表面上、資本主義は世界に拡散し、この世の春を謳歌する爛熟期にあるように見える。しかし、すべての事物においてそうであるように、爛熟は終わりの始まりでもある。そうした意味で、資本主義の爛熟期は資本主義の終わりの始まり、つまり晩期資本主義と認識される。
 もっとも、晩期とはいえ、直ちに破局・終焉を迎えるとは限らない。晩期が意外に長く持続するということもあり得る。晩期がどれくらい持続するかという占いは別としても、晩期資本主義がいったいどのような実態を持っているのかについて解析しておくことは、未来社会を単に空想するのではなく、現存社会に身を置きつつ、未来社会を具体的に構想するうえで有益なことである。本連載は、そうした現在進行形の資本主義の解析を中心課題とする。
 その際、カール・マルクスの『資本論』を参照項とする。同書は周知のとおり、マルクス最大の主著とみなされるものであるが、近年はいわゆるマルクス主義の凋落とともに顧みられることも少なくなり、放置されている。しかし、これまでのところ、資本主義市場経済の構造について、その形成史に遡及しつつ、これほど網羅的かつ分析的に解明した著作はマルクスに批判的な論者のものを含め、筆者の知る限りいまだ存在していないため、現代資本主義を解析するに際しても参照項としての意義を失ってはいない。
 ただし、同書で解析の対象となっているのは、著者マルクスが生きていた19世紀西欧の資本主義である。つまり、それは勃興期の、まだ若く地域的にも限られた資本主義であった。そうした時代的制約から、現代の爛熟期に達した資本主義の参照項としては限界がある。しかし、『資本論』で剔出された資本主義の諸特徴が現在どのように現象しているか、また変容あるいは消失しているかを解析することは、晩期資本主義の実態を把握するうえで有意義である。
 本連載は、そうした意味で、古典的な『資本論』を現代的に活用し直そうとする小さな試みの一つであり、それ以上でもそれ以下でもない。同時に、これは先に改訂版を公開した拙論『共産論』の独立した序論としての意義を持つものでもある。

 

※『資本論』の邦訳にはいくつかの版があるが、ここでは比較的ポピュラーな大月書店国民文庫版を使用する(一部訳文を変更する)。

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