ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(7)

2014-08-20 | 〆リベラリストとの対話

5:貨幣経済廃止について①

コミュニスト:リベラリストさんは以前の対論で、私の貨幣経済廃止論に疑問を抱いていると指摘されました。今回はこの問題をめぐって対論してみたいと思います。

リベラリスト:わかりました。まず、私が疑問に思うことは、貨幣経済の廃止そのものというより、なぜ貨幣廃止を経済全般に及ぼさねばならないのかということです。例えば、折から問題となっているエボラ出血熱のような感染症パンデミックに際して、貧困層向けに医療や薬剤の無償供給を実現することは大いにやるべきですが、それを超えて、全般的に無償化するというのは解せません。

コミュニスト:「全般的な無償化」というのは、拙見の誤解ではないかと思われます。私はありとあらゆるモノを無償供給するという主張はしていません。無償供給の対象範囲は日常的な衣食住の基盤となる基本物資・サービスと医療などを含めた社会サービスです。

リベラリスト:それにしても、それら全般を無償化する必要性はあるでしょうか。私は多くの米国人のように「働かざる者、食うべからず」とは思いません。働かざるとも、相続財産の運用その他正当な不労所得によって生活することも含め、人間は基本的には自活すべきであると考えます。しかし、自活が困難な貧困者向けには、必要な限度で無償化すればよいのです。

コミュニスト:それは古典的なリベラリストにありがちな救貧的発想ですね。貧富差を前提として、貧困者を助けてあげようというわけです。しかし、そもそも貧困などあってはならないのではないでしょうか。貧困の撲滅は道徳論ではなく、貧困の元凶である貨幣交換を廃止するという大手術でもって達成されるのです。

リベラリスト:勇ましいことです。しかし、それによって果たして狙いである基本物資・サービスが円滑に行き渡るかどうかという技術的な問題があります。生産‐流通‐再生産のサイクルは資本主義では貨幣を介して日々反復継続されていますから、しばしば貨幣は経済の血流にもたとえられます。あなたはその血を抜いてしまおうというのですから、これは手術どころではなく、殺人行為に等しい。

コミュニスト:それは痛烈なご批判です。しかし、貨幣が血であるのは、まさに資本主義経済というシステムにおいてです。それとは仕組みが異なる共産主義経済システムにとって貨幣はむしろ毒物的なものです。共産主義経済では貨幣交換の代わりに、計画供給が行われます。

リベラリスト:ありていに言えば、配給制ですよね。しかし、配給制が機能不全を来たしやすいことは、実際に社会主義体制で実証済みではないですか。

コミュニスト:いわゆる社会主義体制とは、貨幣経済を温存したまま計画経済や配給制を導入するある種の混合経済体制なのですが、これではたしかに貨幣交換が中途半端に妨げられ、経済のサイクルに支障を来たす恐れはあります。だからこそ、大胆に貨幣経済の廃止に進む必要があるのです。そして、貨幣経済廃止のうえに成り立つ無償供給制は配給制とは似て非なるものです。

リベラリスト:このままでは、この議論は永久に平行線をたどりそうなので、次回は切り口を変え、マルクスの『資本論』によって資本主義的な貨幣経済システムの合理性を反証してみようと思います。

コミュニスト:それはまた興味深い逆転の発想ですね。楽しみにしています。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(6)

2014-07-24 | 〆リベラリストとの対話

4:議会制民主主義について

コミュニスト:あなたは前回対論の最後に、アメリカ的価値観を最大限度発動して国家の廃止に同意するとしても、議会制度の廃止は受け入れ難いと言われましたね。つまり、国家は廃止しても、「民営」の議会制度のようなものは残すべきということでしょうか。

リベラリスト:そうですね。あなたが提唱する民衆会議は、代議員を免許取得者からくじ引きで抽選するという興味深いものではありますが、アメリカ人的には、偶然に委ねられる抽選より意識的選択である選挙のほうがより民主的だと思います。

コミュニスト:「選挙=民主主義」という定式を絶対化する思考を、私は「選挙信仰」と名づけました。たしかに選挙政治は旧来の王侯貴族による世襲政治よりは政治参加の枠を拡大した歴史的な功績があることは認められますが、そこで止まっています。選挙の決め手は、貨幣経済の下では、金の力です。だからこそ、日本では選挙を通じた世襲政治という手品も可能ですし、世界一の民主主義を誇る御国のアメリカはまた世界一の金権選挙の国でもありますね。選挙された議員とは、結局のところ裕福なブルジョワ/プチブルジョワの名士連ということになるのです。

リベラリスト:たしかに、アメリカの金権選挙には大いに反省すべき点があります。ならば、いっそあなたのもう一つのご提案である貨幣経済の廃止に従えば、選挙から金権的要素は一掃されるのでは? 

コミュニスト:そうなるでしょう。しかし、選挙から金権的要素が一掃されたとしても、それで解決するわけではありません。選挙とは所詮人気投票ですから、選挙の当落と政策の良否や人格識見は全く無関係なのです。

リベラリスト:それは言い過ぎでしょう。選挙では一定の政策が示され、有権者に選択が問われるのですから、政策が全く提示されない形式的な抽選とは大きく異なります。

コミュニスト:選挙で政策が提示されるのは事実ですが、実際のところ、有権者は各候補者の政策提案をそれほど詳細に比較検討して投票しているわけではありません。また近年は「イデオロギーの終焉」イデオロギーの浸透により、政党や候補者ごとに大きな政策の違いはなく、金太郎飴の状態です。そうなると、決め手は容姿を含めたイメージとか知名度になるでしょう。

リベラリスト:しかし、代議員免許取得者からの抽選というあなたの構想では、民衆会議代議員は知識人中心となるのではないでしょうか。それもある種の「名士政治」ではありませんか。

コミュニスト:代議員免許試験は代議員として必要な素養と倫理を問うもので、専門職試験ほど難関ではないので、知識人中心となることはなく、あくまでも代議員の資質をコントロールする手段にすぎません。選挙には、そういう資質保証のシステムが欠けているのです。要するに、議会制民主主義とは、政治参加の枠を広げるための間に合わせの暫定民主主義だったということです。

リベラリスト:すると、あなたは議会制民主主義はもう歴史的な使命を果たし終えたと考えるわけですね。

コミュニスト:はい。ただ、資本主義が当面続く限りはまだその役割を完全に果たし終えていないでしょうが、少なくとも共産主義の上部構造としては適合しない制度です。

リベラリスト:しかし、直接民主主義ではなく、間接民主主義という点では、民衆会議制も議会制と五十歩百歩の観がありますね。

コミュニスト:私は、直接民主主義/間接民主主義という区別をやめて、直接代表制/間接代表制という区別を導入します。選挙で選抜される条件を備えた者しか代表者になれない間接代表制に対し、免許さえあれば誰でも抽選で代表者になれる民衆会議制は直接代表制であり、これこそ議会制に取って代わるべき完成された民主主義の制度だと考えます。

リベラリスト:そうですか。あなたには「選挙信仰」の信者と揶揄されるかもしれませんが、私としては、まだ議会制に捨て難いものを感じますし、多くのアメリカ人もそうでしょう。

コミュニスト:もちろん、新しい思考が浸透するには一定の歴史的な時間を要します。とはいえ、日本でもアメリカでも選挙政治家の資質が近年とみに低下していることは、意識され始めていると思います。歴史的な地殻変動はもう始まっているのではないでしょうか。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(5)

2014-07-23 | 〆リベラリストとの対話

3:国家の廃止について

リベラリスト:『共産論』では貨幣経済の廃止と並び、国家の廃止も重要な柱になっているわけですが、私は貨幣経済廃止論よりも、まだ国家廃止論のほうがいくらか共鳴できる部分があります。

コミュニスト:それはありがとうございます。やはり、アメリカ人は市民生活に介入する国家というものに対して世界でも最も懐疑的な人たちですから、国家廃止論にも共鳴しやすいのかもしれません。私がアメリカに共産主義革命の期待をかけるのも、その点なのです。

リベラリスト:たしかにそれは言えます。ただ、アメリカ人が懐疑的なのは特に合衆国政府に対してです。合衆国を構成する州―ステート(=国家)までは否定しないのが一般です。ご存知のとおり、元来アメリカという国は別々に形成された植民地が集まって設立された人為的な連邦国家ですので、合衆国より州のほうがはるかに重要なのです。

コミュニスト:それだけでもましというものです。私は、かつて同じく人為的に設立されたソ連が解体されたように、アメリカも再び州―ステートごとに解体されたほうが良いとすら考えています。そのうえに、旧メキシコ領だった諸州はメキシコと合併し、それ以外はカナダと合併するのです。

リベラリスト:おや、何だか国家廃止論からアメリカ解体論へと逸れてきているようですが。ただ将来、多くはメキシコにルーツを持つヒスパニック系がアメリカの人口構成上首位に立った暁には、旧メキシコ領の諸州は本当に分離していくのではないかと私も想定しています。でも、それはアメリカ固有の問題だと思いますが。

コミュニスト:そうでもありません。アメリカの帰趨はやはり世界全体に大きく影響しますから、範例となります。アメリカがいったんバラバラに解体されることは、ソ連の解体以上に、世界の構造を大きく変えるでしょう。国家の廃止の出発点になります。

リベラリスト:あなたは『共産論』の中でも国家は国民を国境線と国籍で囲い込み、税金奴隷化・戦争奴隷化していると厳しく非難されますが、そうはいっても、国家という枠組みのポジティブな面にも目を向けるべきだと思います。

コミュニスト:国家という枠組みのポジティブな面とは具体的に何なのでしょうか。

リベラリスト:国民を保護する機能です。今日でも国家という枠組みにとらわれずに生活しているアマゾン地域の文明未接触部族を見ればわかりますが、かれらは国家の「奴隷」と化した文明人より「自由」な反面、その生活はとても過酷なものです。

コミュニスト:何度か強調しているように、現代共産制はそうした原始共産制のイメージでとらえられてはならないのです。現代共産社会も文明化された産業社会ですが、その仕組みを根底から変えようというのです。ですから、国家は廃止されても、民衆会議制を通じた社会統治の機構は存在し、民衆の生活には今以上に配慮されます。国家は国民を保護すると称しながら、実際には財界の利益を保護しているだけです。

リベラリスト:そのご批判は共有できます。ですが、いわゆる民衆会議制によって利権構造が一掃できるという確かな保証もないのでは?

コミュニスト:貨幣経済を温存するなら、その懸念はあります。貨幣は人間の判断を狂わせ、歪めますから、金銭的利益のためには、誤った政策も平然と執行されます。だからこそ、国家の廃止は貨幣経済の廃止と切り離せないのです。

リベラリスト:なるほどそういうことですか。ただ、貨幣経済は廃止するが、国家は廃止しないということも理論上は可能ではないでしょうか。私は推奨しませんが。

コミュニスト:国家は通貨高権と切り離せません。通貨統合により通貨発行権を喪失した欧州諸国で反EUの巻き返しが起きているのも、EUが超国家化することへの懸念からです。一方、近年注目されるビットコインのような私的仮想通貨も、国家発行通貨との換算で成り立ちます。国家は、貨幣経済の政治的化身と言っても過言ではありません。

リベラリスト:どうしても、国家を退治してしまいたいようですね。まあ、アメリカ的価値観を最大限発動してそれに乗るとしても、議会制度まで手放すことはアメリカ的価値観からは受け入れ難いものがありますので、次回対論してみましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。 

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リベラリストのと対話―「自由な共産主義」をめぐって―(4)

2014-07-11 | 〆リベラリストとの対話

2:資本主義の限界について

リベラリスト:前回、当分は資本主義で頑張ってみないかという私の提案には反対されましたね。

コミュニスト:ええ。資本主義はすでに限界を露呈しつつあると考えるからです。そのことは、拙『共産論』の中でも、資本主義が抱える三つの限界として指摘したところです。

リベラリスト:読みました。たしか、環境的持続性、生活の安定性、人間の社会性が危機に瀕しているとのことでした。特に、環境的持続性に重点を置くのが従来のマルクス主義などとの大きな相違とお見受けしました。

コミュニスト:そのとおりです。実際、最近世界的にも異常気象に見舞われています。グローバル資本主義の中、産業化が世界規模で拡大している現在の異常気象は、地球環境の周期的な自然変動だけでは説明し切れず、人為的に引き起こされている要素が強いと考えられます。地球が発する警鐘と受け止めるべきでしょう。

リベラリスト:アメリカが環境政策では後ろ向きであることは残念に思っているところですが、環境対策は資本主義の枠内でも実行できるのではないでしょうか。

コミュニスト:温暖化対策一つとっても、先進国と新興国の利害対立は決して埋まりません。新興国がさらに資本主義的発展を遂げるには、環境規制は緩和されなければならないからです。しかし、仮に新興国すべてが資本主義的発展を遂げたら、もはや地球は持続しないでしょう。

リベラリスト:それでも、前回意見の一致があった資本主義による生活水準の底上げを新興諸国が達成するためには、まだ伸びしろのある新興諸国の環境規制は少し大目に見る寛大さも必要かもしれません。

コミュニスト:目下新興諸国を牽引する中国とインドだけでも合わせて20億を超える人口があり、かれらすべてがアメリカ人や日本人のような暮らしを始めたら、地球環境はどうなるでしょうか。

リベラリスト:では、中国人やインド人は貧しいままでいろと?

コミュニスト:そうではありません。ですが、資本主義的発展モデルとは異なる道へ進むべきです。もちろん、それは新興諸国だけでなく、全世界においてですが。

リベラリスト:「地球共産化論」ですね。しかし、共産党が支配する中国等はともかく、アメリカや日本のように資本主義が高度に発達している諸国で、資本主義から共産主義へすんなり移行できるというのは、手品のように思えますが。

コミュニスト:拙論に限らず、マルクスの理論でも共産主義は資本主義から生まれることになっています。現代共産主義は農耕社会の原始共産主義とは異なり、産業化・情報化の基盤の上に成り立つものだからです。もっとも、すんなり移行するのではなく、社会革命という大手術は必要ですが。

リベラリスト:だとすると、共産主義へ飛ぶ前にやはり資本主義を通らなければならないので、それこそぎりぎり限界までは資本主義を続けるべきということになるのでは?

コミュニスト:まだいくらか伸びしろのある一部新興諸国は別としても、アメリカをはじめとする先進諸国はすでに資本主義国としても低成長・マイナス成長の後退期に入っています。人間で言えば、もう成長期をとうに過ぎて初老に入っているのです。私がアメリカ共産主義革命と言うのも、まずは資本主義総本山アメリカが率先して資本主義に見切りをつけて欲しいとの考えからです。

リベラリスト:では、資本主義が根付かず、新興国にも遠く及ばない低開発諸国ではどうすればよいのでしょう。

コミュニスト:それは、資本主義が文化や国民性と適合しないという外部的な限界に直面しているケースでしょう。共産主義は資本主義から生まれるというのは、あくまで原則的なモデルにすぎません。前資本主義的な低開発状態から共産主義に移行することも可能です。移行しやすさという点ではそのほうが好都合なくらいです。革命的大手術を必要としませんから。

リベラリスト:とはいえ、今日低開発諸国でも普及している貨幣経済そのものを除去しようというのは、やはり相当大胆な革命のように思えますね。私はあなたの貨幣経済廃止論にはいくつか疑問を抱いていますので、いずれ対論してみましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(3)

2014-07-10 | 〆リベラリストとの対話

1:資本主義の意義について

コミュニスト:前回の対論の最後で、共産主義の話に飛ぶ前に、資本主義のプラス面や議会制の歴史的な貢献についての管見を聞きたいと言われましたね。

リベラリスト:はい。私は通常の米国人と違って反共主義者ではありませんが、かといって資本主義/議会制民主主義をあっさり放棄しようという性急な考えでもありません。一方、あなたも資本主義のプラス面や議会制民主主義の歴史的な貢献を認めると言われるので、その点を具体的に伺っておきたかったのです。

コミュニスト:わかりました。まず前者の資本主義のプラス面から述べますと、資本主義はそれが成功した限りでは、人びとの生活水準全体の底上げは実現するという点に尽きると考えます。ここには、二つの留保があります。一つは「成功した限りでは」です。現在、グローバル資本主義の時代と言われますが、実際のところ、資本主義が本当に成功したと言える諸国は、まだ限られています。

リベラリスト:たしかに、厳しく査定すれば、資本主義が成功している諸国は一部でしょうが、社会主義経済から資本主義市場経済に移行して、以前より経済状態が向上した諸国もいちおうこれを「成功」に含めれば、なかなかの好成績だと思うのですが。

コミュニスト:それは、先ほどの二番目の留保に関わります。旧社会主義諸国で経済状態が向上したというのは、生活水準全般の底上げがある程度できてきたからです。このことは、御国のアメリカをはじめ、いわゆる先進資本主義諸国でも実は同じことで、これらの諸国は生活水準の底が他国よりも高いというだけのことなのです。

リベラリスト:底辺を引き上げるということは、豊かさの第一歩ではありませんか。

コミュニスト:そのとおりです。ですが、資本主義が実現するのはあくまでも全体の底上げまでで、個々の生活水準の引き上げではありません。すなわち貧富の差は放置されます。その意味では、資本主義とは「置いてけ堀経済」であって、豊かになれない貧困者は置き去りにされるのです。

リベラリスト:たしかに、自助努力主義のイデオロギーが強いアメリカの資本主義ではそういう傾向にあります。ですが、日本などでは貧困対策もかなり踏み込んで行っており、必ずしも置いてけ堀でもないのではありませんか。

コミュニスト:日本でも、近年生活保護受給者が増大するにつれ、財政難から受給制限措置も厳しくなっており、置いてけ堀傾向は強まっています。

リベラリスト:私自身は「最大多数の最大幸福」を実現するのが資本主義であり、適切な貧困対策を伴った均衡ある資本主義経済は可能だと考えています。

コミュニスト:現実はそうなっていないのではないでしょうか。資本主義は、良くても「相対多数の最大幸福」しか実現しません。近年は、最悪「限定少数の最大幸福」に向かっています。資本主義者が現実の生活現場を見ずして抽象的な観念論を弄ぶ傾向は、マルクスの時代から変わっていないようですね。

リベラリスト:耳の痛いご批判です。ただ、成功した資本主義は全体の底上げを実現するというプラス面があるとする点では意見の一致があるようです。となれば、共産主義に飛び移る前に、まだ当分は資本主義で頑張ってみるべきだということになりませんか。

コミュニスト:これ以上頑張られては大変なことになると思っていますが、ここは重要な点ですので、次回の対論に回しましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(2)

2014-06-26 | 〆リベラリストとの対話

0:序説的対論(下)

リベラリスト:「自由な共産主義」という概念で気になるのは、「共産主義」という用語がどうしても旧ソ連やその旧同盟諸国で起きていたこと、そして現在共産党が支配している諸国で起きていることを連想させるため、「自由な」という形容詞と不調和になってしまうことです。

コミュニスト:私もその点を考慮して、それらの共産党支配体制が掲げる共産主義は真の共産主義ではないことを強調しつつ、そうした自称共産主義体制の政策とは非常にかけ離れた政策を提示したつもりです。

リベラリスト:それは理解します。ですが、一度染み付いたイメージはなかなか拭い切れないもので、「共産主義」と聞いてしまうと、それだけで耳を塞ぐ米国人も存在するでしょう。用語でも、普及させるためには、ある種のイメージ戦略は必要だと思いますね。

コミュニスト:実のところ、私も「共産主義」という言葉を使うべきかどうか、迷いました。この点、漢字の同音異字を生かして、「協産主義」という造語も検討したのですが、英訳しようとすると、適語が見当たらず、結局断念したのです。

リベラリスト:そうでしたか。私の見るところ、「自由な共産主義」はマルクス主義よりアナーキズムの影響のほうが強いように思えるので、はっきりアナーキズムを名乗ることも一考に値するように思うのですが。

コミュニスト:お言葉ですが、それはできません。アナーキズムは政治思想の側面が強く、生産様式に関してはあいまいにされているからです。やはり社会の軸となる生産様式の問題に踏み込むためには、「共産」の文字はいかにイメージが悪かろうと、落とせないように思います。

リベラリスト:前回も指摘したことですが、「自由な共産主義」はアメリカインディアンの思想に近いことに着目して、「インディアン主義」とでも名乗ってみては。

コミュニスト:興味深いご指摘ではありますが、アメリカインディアンの思想に共産主義的な要素があるとしても、それは原始共産主義に近いものだと思います。「自由な共産主義」はあくまでも、工業化・情報化という近代の所産を基盤に成り立つものですから、現代的共産主義でなければなりません。その点で、インディアン思想と直結させることには、抵抗を覚えます。

リベラリスト:貨幣も国家も否定するのに、「現代的」というのも、逆説的なアイロニーに聞こえます。

コミュニスト:近代的な所産を全否定するという単純で狂信的な思想ではなく、それを乗り超えていくというポストモダン的な共産主義と言えば、必ずしも逆説ではないと思います。

リベラリスト:そう言えば、「自由な共産主義」には一昔前のポストモダン理論からの影響も感じられますね。ということは、近代的な資本主義や議会制民主主義も全否定はしないということですね。

コミュニスト:そうです。資本主義のプラス面は認めますし、議会制民主主義の歴史的な貢献も認めたうえで、それらを乗り超えて次の段階に進もうという趣旨なのです。

リベラリスト:私としては、共産主義について対論する前に、資本主義のプラス面や議会制民主主義の歴史的な貢献について、もっと聞かせて欲しいですね。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(1)

2014-06-26 | 〆リベラリストとの対話

0:序説的対論(上)

コミュニスト:リベラリストさん、今回はお忙しいところ、拙論『共産論』をめぐる対談のため、お相手となっていただき、ありがとうございます。米国人と共産主義について語り合うめったにない機会を与えていただき、光栄です。

リベラリスト:私も、今回対談相手に選んでいただき、光栄です。あなたの『共産論』の中で「自由な共産主義」とか「アメリカ共産主義革命」といった概念を非常に興味深く思っており、対談を楽しみにしております。

コミュニスト:早速ですが、「自由な共産主義」というものに対する率直なご感想を。

リベラリスト:「自由な共産主義」という概念は、共産主義に対する一般の米国人の常識を破る非常に興味深いものだと思いますが、それだけにこの概念を本当に理解することに、一般の米国人は苦労するでしょう。私もここで言う「自由」の意味が今一つ理解できていないのです。

コミュニスト:ここで言う自由とは、単に好き勝手なことができるという意味ではなく、「・・・がない」というような意味です。英語のfreeには、こうした用法がありますよね。「自由な共産主義(=free communism)」のfreeは、特に貨幣と国家がないことを暗示しています。つまり、共産主義社会では人は貨幣と国家から解放され、自由になるのです。

リベラリスト:なるほど。しかし、そうなると、かえって不自由もあるのではないでしょうか。特に貨幣経済がなくなり、計画経済となることで、経済活動は大きく制約されます。このことは、建国以来自由経済に慣れた米国人にはむしろ「不自由」と映るでしょうね。

コミュニスト:計画経済といっても、旧ソ連のように国家の行政機関が計画して指令するというものではなくて、生産企業体自身が共同的に計画して実行する経済ですから、その点ではいわゆる「統制経済」とは本質的に異なるものです。ある意味では、「自由な計画経済」とも言えます。

リベラリスト:なるほど。それは、言わば経済界全体で生産調整をするようなものですね。資本主義経済の下でも、極めて重大な経済危機に瀕した時には、そうした全体調整をすることも例外的にはあり得ますが、そのような例外状況を日常化してしまおうという大胆な発想と思われます。

コミュニスト:計画経済というのは、単なる「調整」ではなく、「計画」ですから、規範性を持つ経済計画に基づいて生産活動が実行されるのですが、たしかに比喩としてはおっしゃるとおりかもしれません。

リベラリスト:規範性というと、そこにはやはり統制的な要素もあるということですよね。

コミュニスト:しかし、法律のような固い規範ではなく、随時修正可能な柔軟な規範です。

リベラリスト:おそらく、米国人にとっては、貨幣より国家から解放されるという話のほうがポジティブに受け取れるでしょう。米国人は建国以来、政府の役割をあまり重視しません。政府は必要悪としか考えないので、なくて済むならないほうが良いという考えです。

コミュニスト:そうですか。ただ、ここで言う国家なき社会運営とは民衆会議という会議体を通じた統治のことですから、単なる無政府主義=アナーキズムとは異なることにご注意ください。

リベラリスト:わかりました。ふと思ったのですが、あなたの構想は、「土地は無主物」という理論といい、民衆会議による直接統治論といい、アメリカインディアンの伝統思想に近いような気がするのですが。

コミュニスト:直接参照したわけではなかったのですが、結果としておっしゃるとおりであることに気がつきました。

リベラリスト:言わば、「インディアン共産主義」といったところですか。それも興味深いですね。この対談がますます楽しみになってきました。

※本記事は架空の対談によって構成されています。

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