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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

犯則と処遇(連載第9回)

2018-11-30 | 〆犯則と処遇

7 矯正センターと矯正スタッフ

 矯正処遇の実施機関となるのが「矯正センター」であるが、「刑務所」とは異なり、もはや鉄格子も塀も備えず、建物外観はともかく、内部構造上は治療施設に類似したような施設となる。
 とはいえ、「矯正処遇」は自由を拘束する処遇であるから、「矯正センター」入所者は許可なく外出することは禁じられ、無断外出者に対しては追跡と拘束が行われるが、無断外出自体を改めて逃走の犯則に問うことはなく、単にペナルティーとして必要的な処遇更新事由(処遇期間の延長)とされるにすぎない。
 同様に、センター内での各種規律違反に対しても、それが新たな暴行、傷害その他の犯則に当たるような場合は別として、原則として譴責以上の処分は科せられず、ただ違反の内容に応じて処遇更新事由とされるにすぎない。

 センター内での生活は個室で営まれ、入所者同士の接触に伴ういわゆる悪風感染や暴力行為を防止する一方、外部者との面会については、例えば加入していた反社会組織メンバーとの面会のように、矯正の妨げとなることが明らかな場合を除いては原則自由とする。また、読書や外部との通信も自由で、インターネットの利用も一定の有害サイトフィルター付きで認められる。

 なお、矯正センターは純粋に処遇の実施のみを担い、同センターの申請に基づいて上述の更新を決定したり、また「終身監置」を司法機関に請求したりするのは、矯正に関する知見を有する有識者や法律家で構成する「矯正審査会」である。 
 「矯正センター」とは別個独立に設けられる同審査会は、上記の任務のほかに、矯正処遇対象者からの各種苦情申立ての審査と是正勧告も行うオンブズマン機能も備えた中立的な機関である。

 「矯正処遇」の現場となる「矯正センター」で入所者の矯正に当たるのは「矯正員」である。矯正員はいわゆる「看守」ではなく、純粋に矯正実務の専門家、矯正科学の実践家である。前章でも見たとおり、「矯正処遇」は現行自由刑とは比較にならないほど科学的な観点から効果的な矯正を目指す制度であるから、矯正員は矯正科学に関する十分な素養を持つことが要求されるのである。

 一方、矯正センターには一定の所内秩序の維持が必要であるが、そうした所内秩序の維持=警備と矯正の機能は完全に分離され、センター内の警備業務に当たるのは矯正員とは別枠で採用される「警務員」である。

 ところで、矯正処遇では矯正員を中心に、チームで矯正が行われるが、このような処遇チームに参画するスタッフとして、臨床心理士や医師の資格を有する「処遇専門員」が常勤する。
 これら処遇専門員は、特に治療的処遇が行われる第三種矯正処遇において、処遇チーム内の専門的な討議を通じて、処遇対象者の矯正に従事する。その他、処遇専門員は必要に応じて、第一種及び第二種矯正処遇においても、処遇対象者の個別矯正に関わることがある。

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犯則と処遇(連載第8回)

2018-11-30 | 〆犯則と処遇

6 矯正処遇について(下)

 前章で、「矯正処遇」にはさらに細分化された種別があると述べたが、その種別としては軽いものから順に、第一種から第三種まで三つの区分を想定することができる。この種別を分ける基準となるのは、反社会性向と病理性の強弱である。
 従って、司法機関による各種別の選択決定にあたっても、刑罰とは異なり、結果の重大性とか犯行態様の悪質性などといった応報的要素によるのではなく、反社会性向と病理性の程度を科学的に判定したうえで決せられるのである。

 具体的に見ていくと、まずは「第一種矯正処遇」であるが、これは1T=1年とし、法定更新は1年ごとに2回まで(最長3年)、裁量更新は2年を年限として(通算5年が上限)認められる種別である。これに該当するのは、比較的軽微な犯則行為者で、病理性も弱いが、反復性が認められ、一定以上の反社会性向を持つ者である

 次いで「第二種矯正処遇」であるが、これは1T=3年とし、法定更新は1回目2年、2回目1年を限度に(最長6年)、裁量更新は4年を年限として(通算10年が上限)認められる種別である。これに該当するのは、反社会性向は強いが、病理性はさほど強くない者である。

 最も重いのは「第三種矯正処遇」である。これは1T=5年とし、法定更新は1回目3年、2回目2年まで認められ(最長10年)、裁量更新は認められない代わりに「終身監置」が予定されている種別である。これに該当するのは、病理性の強い者であるが、その中でも精神医療的対応を必要としない「A処遇」とそれを必要とする「B処遇」とにさらに下位区分される。 

 なお、「終身監置」は、前章でも述べたとおり、例外的な矯正困難者に対する処分であるから、改めて司法機関による決定を絶対条件として、極めて慎重な運用が要求される。
 ただし、「終身監置」に付された場合でも、再犯の危険が相当程度に除去されたと認められるときは、通常の保護観察よりも行動制限の強い特別保護観察付きでの「仮解除」が許され、「仮解除」の間にさらに改善・更生が進めば「本解除」も許されるというように柔軟性を持たせる。

 以上の三種の「矯正処遇」に共通しているのは、もはや懲役刑におけるような労働(刑務作業)の強制はないということである。「矯正処遇」の中心はどこまでも矯正のためのプログラムそのものである。

 その具体的な内容も三種別で異なっており、反社会性向がさほど強くない者を対象とする「第一種矯正処遇」では外部講師を招聘しての講話や対象者同士でのワークショップのような集団的処遇が中心となる。
 これに対して反社会性向が強い者を対象とする「第二種矯正処遇」では心理セラピーやカウンセリングなどのより個別的な処遇が中心を成す。
 さらに病理性の強い者を対象とする「第三種矯正処遇」ではよりいっそう個別性が強化され、全体として治療的な処遇が中心となる。特に「B処遇」では臨床心理士や医師も加わったチームによる医療的な対応が行われる。

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犯則と処遇(連載第7回)

2018-11-29 | 〆犯則と処遇

6 矯正処遇について(上)

 「犯則→処遇」構想の下、矯正施設に拘束して行なわれる「矯正処遇」は外見上、今日の自由刑と類似しているが、類似性は外見上のみであり、実質上は決定的に異なる。とりわけ、その運用方法である。
 自由刑の場合、終身刑や無期刑は別として、通常は「懲役x年」というように予め刑期を定めて執行される。これには刑罰の恣意的な運用を防ぐ意味があると宣伝されてきた。
 しかし裏を返せば、それは応報の前提となる個人責任の度合いを数値的に算定するという無理を裁判官に強いていることにほかならない。民事責任の重さを示す損害賠償額が確立された数式に基づいて算出されるのとは異なり、刑事責任の重さを定量的に算出できる数式などは存在しないからである。
 また矯正という観点からしても、所定の刑期内に矯正が効果を上げるという保証はないにもかかわらず、満期に達すれば釈放せざるを得ないため、再犯の危険を排除することができない。

 これに対して、「矯正処遇」は「更新付きターム制」という方法により運用される。この方法の下で、対象者は予め法律で定められた矯正プログラムの一単位=ターム(1T)の期間内に矯正を終え、社会復帰することが原則となる。
 この1Tの年数は、改めて次章で見るように、「矯正処遇」の細分化された種別ごとに異なるが、最長でも5年とする。なぜなら、矯正が成果を上げるにはできるだけ短期集中的に効果的なプログラムを課する必要があるからである。

 ただし、1Tの期間内に所期の矯正効果が上がらなかった場合には、さらに所定の回数だけ更新することが許されることが、刑罰としての自由刑とは決定的に異なるもう一つの点である。
 この更新には予め更新年数が法律で定められ、かつ2回までしか更新できない「法定更新」と、法定更新が満了した後も、司法機関の裁量により所定の年限の範囲内で追加更新が可能となる「裁量更新」とがある。
 さらに、例外的に矯正効果がほとんど上がらない矯正困難者のために法定更新期間満了後に司法機関の決定で行われる「終身監置」も予定される。これは、要するに例外的な矯正困難者に対して、慎重な科学的判定のうえに与えられる最後の手段となる。

 ところで、「犯罪→刑罰」体系における自由刑では、執行猶予や仮釈放といった刑罰の仮放免の制度が設けられることが多い。これは刑罰が人の法益を報復的に剥奪する有害な処分であるからこそ、情状によっては事前または事後の仮放免を認めて刑罰の負担を軽減しようという法の「温情」であるが、「犯則→処遇」図式においては、こうした温情主義でバランスを取る必要はない。
 「矯正処遇」は拘束的処遇であるという点では対象者の法益を制限する側面も認められるが、総体としては、対象者の反社会性を矯正して更生につなげるという利益な処分であるから、仮放免制度でバランスを取る必要はないのである。ただし、上述のように、終身監置だけは終身拘束という重大な不利益を考慮して、「仮解除」の余地を認める必要がある。

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犯則と処遇(連載第6回)

2018-11-22 | 〆犯則と処遇

5 処遇の種類

 「犯則→処遇」体系における処遇の種別はいたって簡素であり、基本的には、施設に収容する拘束的処遇としての「矯正処遇」と、収容しない非拘束的処遇としての保護観察」の二種類のみである。
 実際のところ、前者の「矯正処遇」は対象者の特性及び処遇内容の違いによりさらに種別が細分化されるが(後述)、いずれにせよ「矯正処遇」は反社会性向の強い者、初犯ではあるが人格的な病理性が強く、矯正を要する者を対象とする処遇である。その限りでは、今日の自由刑に類似するが、刑罰ではないので、その実施場所はもはや「刑務所」とは呼ばれず、「矯正センター」と呼ばれる。

 一方、「保護観察」はより反社会性向が低い者を対象とする処遇である。「犯罪→刑罰」体系の下での保護観察は、刑務所から釈放された者に課せられることが多いが、「犯則→処遇」体系の下では、保護観察もそれ自体が独立の処分となる。 
 さらに、広い意味での処遇の一つとして「没収」が加えられる。「没収」は犯則行為に起因する不法な収益を剥奪するもので、それは人でなく物を対象とする処分であるが、上述の「矯正処遇」や「保護観察」と併用して、または独立して付し得る一個の処遇である。
 このうち、独立処分としての「没収」は、例えば些少価値物品の窃盗や違法薬物の単純所持など軽微な犯則行為者を対象とする最も軽い処遇として位置づけられる。

 ところで、以上の「矯正処遇」「保護観察」に「没収」を加えた三種の処遇の間には、一応「矯正処遇」>「保護観察」>「没収」という軽重関係がある。しかし、この軽重は刑罰の軽重関係のように犯行の重大性のみによるのではなく、処遇対象者の反社会性向の強弱によるところが大きい。

 この点にも関連して問題となるのは、一人の者が複数の犯則行為をした場合の処遇である。刑罰制度の場合、複数の犯罪行為に科せられる刑を単純に加算するか、最も重い罪を基準とするか、制度は分かれる。
 いずれにせよ、このような処理の仕方には、応報刑論の思想が明瞭に込められている。なぜなら、こうした処理は複数の犯罪行為の組成(パッケージ)を犯罪学的に分析することなく、刑を単純加算し、あるいは重罪を基準として厳罰を科そうとするものにほかならないからである。

 これに対して、「犯則→処遇」体系の下では、犯行パッケージの犯則学(犯罪学)的な分析を通じ、その中で最も中核的とみなされる罪の処遇に付することになる。
 例えば、殺人と窃盗のパッケージであれば、たいていの場合は殺人行為が中核的とみなされるであろうが、傷害と窃盗のパッケージのような場合は、微妙な分析が必要となる。
 もし、このパッケージにおける傷害とは窃盗の共犯者との内輪もめから相手を殴り、傷害を負わせたものならば、窃盗行為のほうが中核的とみなされ、窃盗犯に対応した処遇に付せられる。それに対して、このパッケージにおける窃盗が傷害を加えた被害者の所持品をついでに盗んだというのであれば、傷害行為のほうが中核的とみなされ、傷害犯に対応した処遇に付せられるのである。

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犯則と処遇(連載第5回)

2018-11-16 | 〆犯則と処遇

4 法定原則

 「ベッカリーア三原則」の第一は罪刑法定主義であった。「犯罪→刑罰」体系の下ではまさに犯罪と刑罰との対応関係が法律で明確に定められていなければならないとする法定原則が、刑罰制度の恣意的な運用を防止する最低限の担保となる。
 このような法定原則は「犯則→処遇」体系の下でも基本的に妥当する。すなわち、犯則と処遇との対応関係は法律で明確に定められなければならない。このことは法治主義の一般原則からしても当然であるし、「処遇」といえども義務付けを伴う以上、対象者の権利を制限する性質を免れないからでもある。

 もっとも、「犯則→処遇」体系においては、犯則ごとに個別の処遇法が定められるわけではない。例えば、傷害についてみれば、「人を傷害した者は、××の処遇に付する」というように、予め個別的に処遇が対応的に定められるわけではない。なぜなら、矯正のための処遇法は、各犯則行為者の特性に応じて科学的に選択されるからである。
 結局のところ、「犯則→処遇」体系における法定原則とは、何が矯正処遇(またはそれに代わる保護処遇)を要する犯則であるか、また処遇法としていかなる種別と内容とが与えられるかについて予め法律で定めておくことを意味する。

 ところで、罪刑法定主義というとき、犯罪と刑罰との対応関係を定める法律は一般法(一般刑法)にとどまらず、特別法(特別刑法)を含んでいる。そのために、現代国家は一般刑法に加えて無数の特別刑法を抱えるようになっており、一国における刑罰条項の精確な総数を誰も数え上げることができないほどである。こうした刑罰の増殖・インフレ現象は一般市民に犯罪と刑罰との対応関係を見えにくくさせ、ひいては犯罪の防止にも逆効果となっている。
 これに対して、「犯則→処遇」体系の下における法定原則では、犯則と処遇の内容を基本的に一般法で定めることが目指される。このことは、特別法の存在を一切許容しないという趣旨ではなく、交通事犯や薬物事犯といった一般法では律し切れない特殊な犯罪への対応を定める特別法の存在は排除しない。しかし、それらは必要最小限にとどめられる。

 そうした一般法は「犯則→処遇」体系の全体を包括する統合法、すなわち「犯則法典」として編纂されるのでなければならない。
 すなわち、犯則法典は日本の現行刑事法体系で言えば、刑法、刑事訴訟法に刑事収容施設法、さらには更生保護法の一部までカバーするような広範な内容を持つことになるのである。
 このような統合法であることによって、一般市民も「犯則→処遇」の手続き的な流れを一本の法律から一覧的に把握できるようになる。法定原則の究極的な意義は、このように犯則と処遇の内容が包括的に事前告知されるところにこそあるのである。

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犯則と処遇(連載第4回)

2018-11-15 | 〆犯則と処遇

3 責任能力概念の揚棄

 諸国の近代的刑罰制度においては、犯行当時心神喪失の状態にあった者は無罪とされることが多い。このような「心神喪失者=無罪」という定式は「犯罪→刑罰」体系の重要な例外をなすものであるが、この例外規定はまさしく「犯罪→刑罰」体系の所産である。
 なぜなら、この図式にあっては、犯罪の責任主体をあげて個人とする以上、その肝心な個人が心神喪失状態にあり、責任主体としての適格性を欠いていたならば、そもそも刑罰を科し得ないことになるからである。

 この「心神喪失者=無罪」という定式の論理的前提となっているのは、「責任能力」という概念である。「責任能力」とは刑事責任を負い得る能力、すなわち事理弁識能力及び行動制御能力を指し(とりわけ前者)、心神喪失とはそうした能力を欠いた無能力の状態とみなされている。
 ここで事理弁識能力とは要するに理性の働きのことであるから、「責任能力」概念は理性/狂気というデカルトに始まる近代合理主義の二分法的思考の所産の一つであることは明白である。しかし理性の喪失=狂気=無能力という発想は、精神疾患者に対する差別的視線に根差している。それは精神疾患者を無能力者と決めつけているのである。

 だからといって、精神疾患者にも常に「責任能力」を認めて、当然に処罰の対象とするのは、あの「犯罪→刑罰」体系をいっそう徹底していく必罰主義的な反動である。この点では、「心神喪失者」を罪に問わないという取扱いは差別的であると同時に、「病者を鞭打たない」という人道主義的な配慮の一面をも含んでいることは見落とせない。

 「犯則→処遇」体系にあっては、「責任能力」概念を全否定するのでなく、これを弁証法的に揚棄することによって、犯行当時精神疾患に犯されていた者に対しても、それ相応の処遇を与えることが目指されるのである。
 その点、「犯則→処遇」体系の下では、犯罪を犯した個人の責任は将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任であった。このように考えるならば、犯行当時精神疾患に侵されていた者であっても、将来へ向けて自らの疾患を治療・克服し更生を果たすべき責任を負うことは十分に可能である。

 ただし、精神疾患者に対する処遇は医学的な診断に基づく適切な精神医療を組み込んだ治療的な処遇でなければならないが、これは、矯正と更生を目指す処遇ということにおいて、一般的な処遇と共通の目的を有するものであって、精神疾患者に対する強制入院のような制度とは本質を異にする。
 その意味で、「責任能力」概念は全否定されることなく揚棄され、後に改めて詳しく見るように、犯則行為者に対する処遇内容の種別の問題に収斂されると言える。

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犯則と処遇(連載第3回)

2018-11-10 | 〆犯則と処遇

2 犯則行為に対する責任

 反社会的な法益侵害行為である犯則行為を犯した者に対して処遇を与えるという場合、処遇という法的効果を生む根拠は責任である。責任という概念自体は、「犯罪→刑罰」体系においても、刑罰という法的効果を生む根拠として存在しているが、ここでの「責任」の意味内容は、両者で大きく異なっている。

 刑罰における責任とは、犯罪行為に対する道義的な非難に由来するとされるが、突き詰めれば、報復や復讐の観念を法律的なオブラートに包んだものである。要するに、古くからある「目には目を、歯には歯を」という同害報復観念のリフレーンなのである。
 もちろん、法理学者はもっと洗練されており、自ら犯した犯罪行為に対する応報としての刑罰を犯罪者に科することこそ、自由なる個人の責任主体性を尊重する仕方なのだと論ずるが、実のところ、そうした社会から完全に遊離した観念的な個人としての責任主体を措定することによって、かえって“主体”を受刑者という受動的な地位に追い込む矛盾を来たしていると言えるだろう。

 これに対して、「犯則→処遇」体系における責任は刑罰のように過去の行為に対する反作用として強制される反動的な責任ではなく、過去の行為を前提としながらも、将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任である。そのような責任の賦課として、一定の処遇を与えられるのである。
 従って、処遇は刑罰のように一方的に強制される処分ではなく、それを与えられる本人との合意に基づいて賦課されるある種の契約となる。もちろん、純粋の約定のようなものとは性質が異なるが、一方的な強制ではない双務的な合意である。

 一方で、「犯罪→刑罰」体系は、個人責任の追及には実に熱心だが、社会の責任は等閑視している。しかし、人間は社会内においてのみ個別化される動物である。つまり、社会と全く無関係に存在し得る人間個体=個人はあり得ない。なぜなら、そもそも人間的本質とは社会的諸関係(構造)の総体にほかならないからである。とすると、個人の行為にはそうした社会的諸関係が映し出されているはずである。
 とりわけ反社会的な行為は社会的諸関係の歪みを病理的に映し出す鏡である。そうした意味で各種の犯則行為とは、比喩的に、社会体の疾患であると言えるのである。別の言い方をすれば、社会は犯則に温床を提供し、犯則を誘発したことに対して有責なのである。そのような社会責任の帰結として、社会病理分析と再発防止のための社会改良が導かれなければならない。

 この関係をより標語的に表現するならば、「手を下したのは個人、背中を押したのは社会」ということになるだろう。このような個人と社会との相互責任連関の中で、犯則行為者たる個人が負うべき責任は処遇の賦課、社会が負うべき責任は社会改良として現れるのである。

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犯則と処遇(連載第2回)

2018-11-09 | 〆犯則と処遇

1 序論―「犯罪」と「犯則」(と「反則」)

 本連載では、「犯罪→刑罰」という現段階では世界でも圧倒的に支配的な刑法体系におけるのとは異なる用語が多用されるが、中でも最も基本的なものは「犯則」である。一方で、人口にも膾炙している「犯罪」の語は行論上必要のない限り、用いられない。そこで、一文字違いの「犯罪」と「犯則」の意味的相違について、冒頭の章で説明しておく。

 まず、よりなじみ深い「犯罪」(crime)は、文字通り、「罪」という道徳的な罪悪観念をベースとした用語である。もっとも、英語表記におけるcrimeは法律的な犯則行為を意味しており、道徳的な罪を表すsinとは区別される。これは、道徳とはひとまず分離された法律に基づく処罰という近代の合理主義的な刑法観念に沿った用語ではある。
 とはいえ、crimeを犯した者に刑罰(punishment)を科すという「犯罪→刑罰」体系の下では、刑罰という応報的な法的効果とあいまって、crimeが道徳的なニュアンスを帯び、限りなくsinと重なり合うことは避けられない。

 その点、「犯則→処遇」体系にあっては、犯罪は道徳的な罪から完全に分離され、法に違反する反社会的な法益侵害行為として純化されるため、もはや「犯罪=crime」ではなく、「犯則=offense」として把握されることになる。
 もちろん、人々の意識においては、窃盗なり殺人なりの典型的な犯則行為は道徳的にも罪と認識されるかもしれないが、「犯則→処遇」体系が根付く典型的な共産主義社会においては、貨幣経済が廃されるので(拙稿)、人間をして最も多く罪悪に駆り立ててきた金銭にまつわる犯則行為は根絶される。
 そうなれば、なお残る少数の犯則行為に対しては、道徳的な糾弾よりも、まずは真相解明とそれに基づく犯行者に対する科学的な矯正処遇を優先させるべきとする認識が高まると期待される。こうして、「犯則→処遇」体系は、合理化された近代的な「犯罪→刑罰」体系の下でもなお未分化だった法と道徳の関係性を完全に切断し、法的・科学的な犯則処理の体系として純化されることになるのである。

 とはいえ、伝統的な「犯罪」と「犯則」は、かなりの程度重なり合うだろう。例えば、窃盗や殺人などは典型的な犯則行為でもある。しかし、猥褻表現犯罪のように表現活動をめぐる道徳的な価値観が前面に出てくる「犯罪」はもはや「犯則」ではなくなるか、ごく限定的に犯則化されるかのいずれかの道をたどるだろう。

 ちなみに、日本語では同音異字語となる「犯則」と「反則」の区別にも触れておきたい。「反則」とは、典型的には、交通法規違反のように、行政的な取締規定に違反する行為であり、その法的効果は矯正処遇ではなく、何らかの行政的なペナルティーである。なお、スポーツのルール違反も「反則」(foul)というが、これは法律外の用法である。

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犯則と処遇(連載第1回)

2018-11-01 | 〆犯則と処遇

犯罪はこれを処罰するより防止したほうがよい。
―チェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』

応報の精神が少しでも敬意を受け続ける限り、復讐欲が人々の心に存する限り、応報の害が成文法に浸透している限り、私たちが犯罪防止に歩を進めることはできない。
―カール・メニンガー『刑罰という名の犯罪』

 

前言


 筆者は『共産法の体系』において、刑罰制度を持たない法体系の枠組みを示した(拙稿参照)。この点は、現行法体系と大きく異なる共産主義法体系の中でも特に理解されにくいところかもしれない。
 残酷な刑罰とか死刑といった特定の刑罰の廃止はあり得ても、およそ刑罰制度全般を持たない法体系は、社会体制のいかんを問わずあり得ないのではないか―。そんな疑問も浮上するであろう。その理由として、従来の社会体制には、「犯罪→刑罰」という図式が深く埋め込まれてきたことがある。

 こうした「犯罪→刑罰」という図式を近代的な形で確立したのは、冒頭に引いたベッカリーアの主著『犯罪と刑罰』であった。ベッカリーアは、彼の時代にはまだ西欧でも死刑を頂点とし、恣意的かつ残酷でさえあったアンシャン・レジームの刑罰制度に対して公然と、かつ理論的に異を唱え、罪刑法定主義・証拠裁判主義・刑罰謙抑主義の諸原則を対置したのであった。
 この言わば「ベッカリーア三原則」とは要するに、刑罰制度とそれを運用する手続きである刑事裁判制度を法律と証拠、そして人道によってコントロールしようという構想であって、現代的な刑事司法制度においては、少なくともタテマエ上はほぼ常識化して埋め込まれている。

 ベッカリーアが近代的に確立した「犯罪→刑罰」図式は、それまでまだ復讐の観念が支配していた旧制に代えて、復讐観念を言わばパンドラの箱の中に隠し、より啓蒙的な応報刑の理論に仕上げたものであり、当時としては進歩的な内容を示していた。
 彼が著書に冠した『犯罪と刑罰』(DEI DELITTE E DELLE PENE)という端的なタイトルの「と」(E:イタリア語)という接続詞は決して単なる並列ではなく、「犯罪→刑罰」という応報論図式の端的な表現であったのである。

 もっとも、ベッカリーアは「犯罪→刑罰」図式を絶対化していたわけではなかった。彼は『犯罪と刑罰』の終わりの方で「いかにして犯罪を防止するか」という一章を設け、処罰よりも犯罪防止こそがよりよい法制の目的であるはずだと指摘し、犯罪防止を法(刑罰)の目的とする目的刑論の考え方を示唆している。
 彼はそうした犯罪防止の「最も確実で、しかも同時に最も困難な方法」として教育の完成をあげている。しかし、『犯罪と刑罰』のベッカリーアは一般論としての教育論を超え出ることはなかった。こうしたベッカリーアの未完の論をより具体的に発展させたのは、彼の次の世紀末にようやく現れた教育刑論の潮流であった。

 刑罰を応報ととらえるのでなく、犯罪を犯した人の矯正と社会復帰のための手段ととらえる教育刑論は、ベッカリーアとの関わりでみると、彼の人道主義的な側面に立脚しながら、彼が一般論としてしか指摘していなかった究極的な犯罪防止策としての教育の完成をより具体的に刑罰論の枠内でとらえようとしたものであったと理解することもできる。
 こうした基本的な方向性は次の20世紀になると世界的な潮流となり、教育目的を持たない死刑の廃止の反面として、刑務所の環境整備と矯正処遇技術の開発、社会復帰のための更生保護の制度などが打ち出されていくようになった。

 しかし、こうした教育刑論もやがて頭打ちとなり、近年は「犯罪抑止」や「被害者感情」を高調することで、刑罰制度の振り子を再び応報の方向に振り向けようとする反動的な動きも高まっている。
 教育刑論は刑罰から応報的要素を何とか払拭し、パンドラの箱をしっかり密閉しようと努めてきたが、それとて「犯罪→刑罰」図式を完全に脱却したわけではない以上―その限りでは教育刑論も相対的な応報刑論に包含されている―、果たして箱のわずかな隙間からあの復讐の要素が漏れ出すことを防ぎ切れなかったのである。

 やはり冒頭で引いたアメリカの精神医学者カール・メニンガーが言ったように、刑罰と更生(教育)とは本来、不倶戴天の敵同士なのであって、両者はあれかこれかの二者択一でしかあり得ない。もし刑罰をとるならば、メニンガーが刺激的な著書のタイトルに冠したように、刑罰とは犯罪を犯した人に対して加えられる「刑罰という名の犯罪」にほかならないのである。
 刑罰という方法で犯罪を犯した人に制裁を加えることは、その者の更生に役立たないばかりか、かえって更生の妨げにさえなる。そのため、刑務所という環境は言わば「犯罪再生産工場」と化している。刑務所出所者の再犯率の高さはその象徴である。

 一方、ロシア革命は刑罰制度に代えて新たな社会防衛のための処分の制度を生み出したが、これは社会の危険分子の防除という政治的な目的に悪用され、基本的人権の侵害が多発した。これを反省した後のソ連では結局、古典的な刑罰制度が事実上復活してしまった。

 このような教育刑主義の限界と社会防衛主義の暴走の狭間で、「犯罪→刑罰」図式を転換し、犯罪を「罪」という道義的な観念から切り離し、「犯則」と見立てたうえ、これに対して刑罰ではなく、犯則行為者の矯正・更生に資する効果的な処遇を与える新たな枠組みを追求するのが、『犯則と処遇』の目的である。そのため、本連載はベッカリーアの著書通行本に準じて、前言と40余りの章で構成される。

 なお、本連載は元来、ベッカリーアの著書表題をもじり、『犯罪と非処罰』と題して公開していたが、上述のような趣旨から、また『共産法の体系』新訂版の内容を踏まえつつ、より明瞭に『犯則と処遇』と改題したうえ、再掲する。これに伴い、旧題連載に所要の改訂や新たな章の追加または不要な章の削除を施したが、全体の構成や基軸的な記述に大々的な変更はない。

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