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犯則と処遇(連載第4回)

2018-11-15 | 犯則と処遇

3 責任能力概念の揚棄

 諸国の近代的刑罰制度においては、犯行当時心神喪失の状態にあった者は無罪とされることが多い。このような「心神喪失者=無罪」という定式は「犯罪→刑罰」体系の重要な例外をなすものであるが、この例外規定はまさしく「犯罪→刑罰」体系の所産である。
 なぜなら、この図式にあっては、犯罪の責任主体をあげて個人とする以上、その肝心な個人が心神喪失状態にあり、責任主体としての適格性を欠いていたならば、そもそも刑罰を科し得ないことになるからである。

 この「心神喪失者=無罪」という定式の論理的前提となっているのは、「責任能力」という概念である。「責任能力」とは刑事責任を負い得る能力、すなわち事理弁識能力及び行動制御能力を指し(とりわけ前者)、心神喪失とはそうした能力を欠いた無能力の状態とみなされている。
 ここで事理弁識能力とは要するに理性の働きのことであるから、「責任能力」概念は理性/狂気というデカルトに始まる近代合理主義の二分法的思考の所産の一つであることは明白である。しかし理性の喪失=狂気=無能力という発想は、精神疾患者に対する差別的視線に根差している。それは精神疾患者を無能力者と決めつけているのである。

 だからといって、精神疾患者にも常に「責任能力」を認めて、当然に処罰の対象とするのは、あの「犯罪→刑罰」体系をいっそう徹底していく必罰主義的な反動である。この点では、「心神喪失者」を罪に問わないという取扱いは差別的であると同時に、「病者を鞭打たない」という人道主義的な配慮の一面をも含んでいることは見落とせない。

 「犯則→処遇」体系にあっては、「責任能力」概念を全否定するのでなく、これを弁証法的に揚棄することによって、犯行当時精神疾患に犯されていた者に対しても、それ相応の処遇を与えることが目指されるのである。
 その点、「犯則→処遇」体系の下では、犯罪を犯した個人の責任は将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任であった。このように考えるならば、犯行当時精神疾患に侵されていた者であっても、将来へ向けて自らの疾患を治療・克服し更生を果たすべき責任を負うことは十分に可能である。

 ただし、精神疾患者に対する処遇は医学的な診断に基づく適切な精神医療を組み込んだ治療的な処遇でなければならないが、これは、矯正と更生を目指す処遇ということにおいて、一般的な処遇と共通の目的を有するものであって、精神疾患者に対する強制入院のような制度とは本質を異にする。
 その意味で、「責任能力」概念は全否定されることなく揚棄され、後に改めて詳しく見るように、犯則行為者に対する処遇内容の種別の問題に収斂されると言える。


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