ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「女」の世界歴史(連載第12回)

2016-02-24 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

④朝鮮の例外女王
 中国大陸と接しているため、中国文化及び世界観の強い影響を受ける位置にあった朝鮮の諸王朝もまた女権忌避の風潮が強かったが、例外的に新羅だけは7世紀に二人、と9世紀に一人の女王を輩出しており、この三女王が最終の李氏朝鮮王朝まで含めた全王朝史上における女王のすべてである。
 新羅三女王最初の善徳女王は実父で先代の26代真平王の長女または次女とされるが、真平王に男子継承者がなかったことから王位を継承し、史上初の女王となったとされる。
 この点、朝鮮半島南東部の小国から発展した新羅は血統に基づく身分制度(骨品制)が際立って厳格であり、王位継承者となるのは両親ともに王族に属する聖骨と呼ばれる最高位階級の者に限られた。真平王の死に際して、おそらく聖骨の者が他に存命していなかっため、伝統に反して女王の登位となったものと考えられる。
 ちなみに善徳女王には即位後、軍事的な勝利にも寄与したとされる独特の予知能力があったとも伝えられており、そうしたシャーマン的要素が女王即位の合意形成をもたらしたとも言われる。
 いずれにせよ、632年に朝鮮史上初の女王となった善徳の置かれた状況は厳しかった。当時はまだ新羅と百済、高句麗が鼎立する三国時代の末期であり、しかも百済が高句麗と同盟して新羅に攻勢をかけていたため、新羅は孤立していた。
 これに対して、新羅が頼った唐は女王の存在に否定的で、軍事的支援の条件として女王の廃位を求めてきたことから、そうした内政干渉に甘んじようとする親唐派と、拒否しようとする反唐派の対立が激化し、親唐派がクーデターに決起する。これは短期間で鎮圧されるも、善徳女王は鎮圧軍の陣中で没した。
 興味深いのは、この後、続いて真徳女王が擁立されたことである。善徳女王には王配があったが、子はなかったようで、真徳女王は善徳女王の祖父の従姉妹に当たる遠縁であり、その王位継承は善徳以上に異例的である。
 真徳女王は親唐派を打倒した反唐派によって擁立されたが、外交上は唐との同盟形成に努め、648年に羅唐同盟の締結に成功する。これに伴い、内政面でも従来貴族の連合的な性格が強かった守旧的な国制を改め、唐制にならった中央集権的な国政改革を推進した。
 善徳女王の治世15年に対し、真徳女王は7年と短かったが、その間、内政外交に手腕を発揮し、間もなく新羅が唐との同盟関係を利用して百済・高句麗を相次いで滅ぼし、新羅の朝鮮半島統一を実現する足場を築いた実績を持つ。
 真徳女王は生涯独身と見られ、その後は男性親族が王位を継ぎ、以後女王は長く途絶える。三人目にしてかつ朝鮮最後の女王となる真聖女王は統一新羅末期の887年に即位した。その父は48代景文王であり、二人の兄が相次いで王位に就いた後を継いだ。在位1年で没した次兄定康王に嗣子なく、聡明な妹が王にふさわしいとの先王の遺言に基づいて即位したとされる。
 しかし、真聖女王は兄の遺言に反して淫乱・暗愚で、複数の愛人に官職を与えて国政を壟断させたため、すでに衰退期にあった国はいっそう乱れ、反乱が続発したその10年の治世で新羅は事実上分裂してしまった。彼女は897年、自らの不徳を認めたうえ、甥に当たる長兄の庶子に譲位し、引退した。こうして、真聖の諡号にもかかわらず不徳だった女王は真徳女王とは対照的に、新羅の滅亡(935年)を準備したのであった。
 真聖女王を最後に朝鮮史上女王は二度と再び現われることはなかった。ただし、高麗王朝及び李氏朝鮮王朝では太后(大妃)が中国式の垂簾聴政を行なった例がいくつか見られるも、もとよりそれらは正式の女王ではない。

補説:朝鮮の宦官制度
 中国王朝の影響が強い朝鮮諸王朝も、宦官の制度を備えていたとされるが、古代王朝期における宦官制度の具体的詳細は不明である。記録上は新羅の42代興徳王は王妃と死別した後、慣例に従って継室を迎えることをせず、後宮女官も近づけず、宦官だけを身近に置いたとされる。これは後宮の宦官を転用したものか、あるいは後代の宦官=内侍制度の前身であるのか定かではないが、上述のように真徳女王時代の改革以来、唐制を導入した中で、宦官の制度も活用されるようになったのかもしれない。しかし宦官が組織化された高麗王朝・李氏朝鮮王朝期を含め、朝鮮では、中国におけるように宦官が政治的な権勢を持って専横を働くような事例はほとんど見られなかった。

コメント

「女」の世界歴史(連載第11回)

2016-02-23 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

③中国の宦官制度
 去勢された男性官吏・官僚としての宦官の制度は、先述したように、オリエントから古代ギリシャ・ローマ、さらにイスラーム世界(特にオスマン帝国)でも広く見られたが、中国王朝が歴史的に最も幅広く宦官を活用した。
 前回見たように、中国では伝統的に女権忌避が強い反面で、去勢され半女性化された男性が官吏・官僚として重用されたことは、女権忌避と宦官選好の間に何らかの内的な関連性があることを窺わせる。
 中国における去勢は元来、重罪に対する刑罰として用いられたが、これを宮刑とも呼ぶように、去勢は宮廷で労役に従事することと結び付けられていた。おそらく男子禁制の後宮付き奴隷としては去勢された男性が風紀上ふさわしいと考えられ、主に後宮に勤めたのが起源と見られるが、実際のところ、女官と宦官の間の密通は絶えなかったと言われる。
 しかし古代中国では宦官が後宮のみならず、表の宮廷でも実務官僚として力を持つようになった。その代表的な先例は秦の2代皇帝胡亥の時代に専横した趙高である。彼は始皇帝の寵臣として台頭し、始皇帝の死後、聡明な長男の扶蘇を後継指名していた遺言書を改竄して、自身が守役を託されていた暗愚の末子胡亥を擁立したうえ、丞相に就任し、胡亥を傀儡化して独裁権力をほしいままにした。秦がわずか二代で滅亡した原因を作った張本人とされる。
 秦に続く前・後の漢の時代にも宦官は権勢を持ったが、特に後漢では幼帝が多く、皇太后を戴く外戚の力が増大したことから、外戚への対抗勢力として宦官が対置されたことで、宦官集団の権勢が強まり、政治を左右するまでになった。後漢末になると、宦官集団は彼らに批判的な改革派官僚集団に対する大量粛清(党錮の禁)を二次にわたって断行した。こうした宦官勢力の専断は後漢の滅亡要因の一つとされる。
 宦官跋扈への反省から、後漢末の群雄実力者袁紹は宦官の大量処刑を断行し、宦官勢力を壊滅させた。袁紹に勝利した曹操が実質的に建国した魏でも宦官は抑制されたが、消滅することはなかった。
 唐の時代に宦官は再び活用されるようになる。玄宗皇帝の寵臣高力士はその代表例である。彼も強大な権勢を持ったが必ずしも専横的ではなく、玄宗期後半の動乱の要因でもあった楊貴妃の処刑を皇帝に直言し、受け入れさせたのも彼であった。しかし、唐末になると、後漢と同様、宦官の専横が目立ち、衰亡の要因となった。
 こうして宦官の権威が強まると、自ら志願して宦官となる自宮者も増大し、五代十国時代の十国の一つ南漢(広東地域政権)のように、人口100万人中宦官が最大2万人にまで達する極例すら現われた。こうした自宮者の増大に伴う宦官の多用は明の時代に最盛期を迎え、10万人に達したとも言われる。ちなみに明の永楽帝時代に南海大航海を指揮したムスリム出身の提督鄭和は自宮者ではなかったが、宦官であった。
 結局、中国王朝では満州族系の清の時代に至り、宦官が本来の任務であった後宮の后妃の世話をする下級職に限局されるまで、宦官の権勢が絶えることはなかった。なお、宦官が最終的に廃されたのは、辛亥革命後、1924年の軍閥馮玉祥のクーデターにより廃帝溥儀が紫禁城から宦官・女官もろとも追放された時であった。

補説:中国の同性愛慣習
 宦官制度とは別に、中国では古くから男性同性愛に対して寛容な慣習があった。実際、漢の歴代皇帝の多くが複数の男妾を持ち、彼らの中には皇帝の寵愛を背景に重用され、政治的な権勢を張る者も少なくなかった。
 中でも前漢12代哀帝は寵愛する男妾の董賢を政治的にも重用したことで知られる。男色の隠語「断袖」は、哀帝が自分の衣の袖の上で共に寝ていた董賢を起こさぬよう、董賢の寝ている側の袖を裁断させたという故事によるものである。
 こうした男色習慣は宮廷の文武官や地方豪族・商人層などにも広く見られたようであるが、皇帝も含め、彼らの多くは同時に子を持つ妻帯者で、女性の妾を持つこともあり、厳密に言えば両性愛者だったと言えるだろう。
 さらに、福建省には珍しい男性同性婚の風習があった。これは「夫」役となる年長男性が婚資と引き換えに年少男性を「嫁」として婚姻関係を結び、時に養子を育てることもあったという。ただし、これは現代の同性婚とは異なり、両男性がいずれ女性と正式に婚姻するまでの準備的な前婚のような風習だったようである。
 こうした中国古来の同性愛慣習は西洋からキリスト教宣教師が到来する明末頃から、同性愛を「反自然的」な罪悪とみなすキリスト教的価値観に影響されて廃れ始め、清の時代には同性愛行為を処罰する法律が制定されるに至るのである。

コメント

「女」の世界歴史(連載第10回)

2016-02-22 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

①古代中国の女権忌避
 東アジアは今日でも女権が弱く、女性の社会的地位は相対的に低いが、そのことは大なり小なり東アジア世界が強い影響を受けてきた中国の歴史的な女権忌避と関わっているかもしれない。中国はその長い帝政の歴史において女帝をただ一人しか出していないほど、女権忌避が徹底しているからである。
 ただし、黄河文明から派生した祭政一致制の殷王朝では、女性は卜占を担う巫女として間接的に政治的決定にも参与したほか、呪者として戦場にも出た。記録に残る最も高名な殷女性は、第22代武丁の妻婦好である。彼女は自身が将軍として大軍を率いたほか、祭祀にも関わり、祭政・軍事の各方面で活躍したと見られる。
 しかし、殷に続く周の時代になると、中国的な封建制が敷かれ、政治制度が合理化されるにつれ、卜占家としての女性の役割は終焉し、女権忌避的な風潮が強まっていったと見られるのである。
 とはいえ、皇后や皇太后など后の立場で皇帝の背後から事実上政治に関与するいわゆる垂簾聴政がなされることはあったが、これとて皇帝が幼少であるなどの場合における代行的な関与にとどまった。しかし、そうした数少ない古代中国の女性権力者は時代の画期に登場して重要な役割を果たしている。
 記録に残る最初の垂簾聴政者は全国王朝化する以前の秦の宣太后―始皇帝の高祖母―とされるが、全国王朝史上では前漢創立者劉邦(高祖)の皇后呂雉(呂后)である。
 彼女は一族への身びいきや実子である2代皇帝恵帝のライバル庶子の生母に対する残虐な処刑で悪名高いが、劉邦没後、太后として息子と二人の孫の計三代の皇帝の後見役として前漢最初期の政情不安を抑え、王朝の継続性を保証した功績がある。呂太后の治世の泰平さは彼女の悪性格を批判した司馬遷からも高く評価されているほどである。
 また時代下って北魏時代の馮太后(文成文明皇后)は、夫文成帝の後を継いだ義理の息子献文帝を殺害したうえ、献文帝の子孝文帝を擁立し、その後見役として実権を掌握した人物である。彼女も呂太后並みの強権統治家であったが、その聴政期には社会経済的な制度の整備にも尽力し、均田制や三長制など、その後、北朝から出た隋唐などの統一王朝によって継承発展されていく律令制度の基礎を築いた功績がある。
 その意味では、本来は北方遊牧民族鮮卑系の王朝であった北魏を漢化し、漢風の諸制度を整備して、北朝がやがて全国王朝にのし上がる土台を築いたのが馮太后だったとも言えるだろう。ただ、北魏自体は彼女の政策を継いだ孝文帝の行き過ぎた漢化政策がもとで国の分裂を招き、全国王朝となることはなかった。

②唯一女帝・武則天
 中国帝政史上唯一の女帝として異彩を放つのは、武則天である。彼女は初め、唐の3代皇帝高宗の皇后となり、病弱な皇帝に代わり、垂簾聴政を執った。その強権ぶりはその頃から始まっているが、自身が傍流の貴族層出身であったため、唐の支配層であった名門貴族層の排除を徹底したのであった。
 彼女が長い中国王朝の伝統に反して帝位に就いたのは男系後継者が絶えたためではなく、自らの意思によるものであった。彼女は高宗没後に実子である二人の息子中宗と睿宗を相次いで傀儡に立てた後、女帝の出現を啓示する預言書なる仏典を捏造・流布するというイデオロギー宣伝を行なったうえで、睿宗を廃位して自ら帝位に就いた。
 これをみると、彼女は相当以前から自身の帝位簒奪を計画し、その正当化のための情宣まで想定していたものと思われる。逆に言えば、それほどに中国における女帝は当時の道理に反していたということを意味するだろう。
 帝位に就いた武則天は国号を「周」(武周)に改めたうえ、皇太子に降格した睿宗に唐王室の姓である李に代えて武姓を名乗らせたことをみると、自らを祖とする「女系王朝」を作り出そうとしていたのではないかとも思われ、彼女の思考にはある種フェミニズムの要素も認められる。
 そのためにも宗教的な思想操作を必要とし、自身を弥勒菩薩の生まれ変わりとする神秘がかった「聖神皇帝」を名乗り、そのことを記した経典を納める寺院(大雲経寺)を各地に造営させるなど、道教を国教としてきた唐に代わり、仏教を国教に位置づけたが、こうした一種の「宗教改革」も自身の帝位の正当化のためであった。
 一方で、実務面では権力基盤を固めるために垂簾聴政時代から行なってきた非貴族層からの人材登用を引き続き行い、実力主義的な風潮を作り出したため、彼女の宮廷には門閥にとらわれない有能な官僚が集まってきた。
 このように、武則天の事績は擬似革命的な変革を伴うものでもあったため、守旧派の反発も強く、晩年の彼女が病気がちとなると、唐朝復活運動が起きる。最終的には側近らに迫られて一度廃位した息子の中宗を復位させ、自らは太后の地位に退いたのであった。
 709年に武太后が没した後、中宗の韋皇后が姑にならい、第二の武則天たらんとして、夫の中宗を殺害するクーデターを起こすが、これを鎮圧し、唐朝を回復させたのが睿宗の息子(武則天の孫)に当たる玄宗である。
 玄宗の前半期の治世である開元の治はしばしば唐の全盛期と称賛されるが、これを実務面で支えたのは、元は武則天によって抜擢された姚崇・宋エイの両宰相であり、唐を中興し、さらに100年以上持続させた玄宗時代は人材・政策面で武周時代に多くを負っていた。皮肉にも、唐を倒した武則天は唐の再生と持続を保証したのであった。

コメント

「女」の世界歴史(連載第9回)

2016-02-09 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

⑤ビザンツ帝国の女帝たち
 前回も触れたとおり、統一ローマ帝国及び東西分裂時代の両ローマ帝国では女帝は慣習上否定されていたと考えられるが、西ローマ帝国滅亡後の東ローマ=ビザンツ帝国ではわずかながら女帝を輩出した。なお、ビザンツ帝国はヨーロッパ史の時代区分的には中世にかかるが、ローマ帝国の延長という点では古代国家性を有するので、行論上ここで扱う。
 史料上明確に最初のビザンツ女帝と目されるのは8世紀末に出たイサウリア朝のエイレーネであるが、より早く6世紀の「大帝」ユスティニアヌス1世の妻テオドラ皇后は夫を支えて国政にも関与したため、彼女を共治女帝とみなす史料もある。
 テオドラは元来身分の低いダンサーだったが、初めは役人の妻となり、離婚後、ユスティニアヌスに見初められて貴賎結婚し、皇后にまで上り詰めた階級上昇の異例としても注目に値する人物である。
 ただ、彼女のケースはまさに女太閤的な例外であり、ビザンツ帝国においても女性の公的な地位は制約されており、女帝忌避はしばらくの間続く。そうした中、イサウリア朝に至り、ビザンツ帝国最初の単独女帝であるエイレーネが登場する。
 彼女はテオドラとは対照的にアテナイのギリシャ系貴族の生まれであり、初めはレオン4世の皇后となるが、夫が早世した後、幼少で帝位に就いた息子コンスタンティノス6世の後見役たる摂政として実権を握る。
 しかし成長した息子と衝突したため、軍事クーデターを起こして6世を拘束し、目をくり抜いて追放したうえ、自ら帝位に就いた。目をくり抜いたのは五体満足が皇帝の身体条件となっていたためであるが、実の息子の目をくり抜くという虐待により帝位を簒奪した彼女の権力欲は当時の人々にも衝撃を与えたらしく、エイレーネは不人気であった。
 彼女はイサウリア朝の看板政策でもあった聖像破壊運動を停止し、聖像崇拝の正統性を再確認するという重要な宗教改革を行なった。これによって長く対立していたローマ教皇との和解が達成されるはずであったが、時の教皇レオ3世はエイレーネの帝位を正統的なものとは認めず、フランク王国のカール大帝を西ローマ皇帝として認証したため、ビザンツ帝国の威信は低下した。
 最終的に、エイレーネは財務長官ニケフォロス(後の皇帝ニケフォロス1世)の新たなクーデターで失権し、結果として、イサウリア朝の幕引き役を演じることとなった。エイレーネが失敗したのはあからさまな帝位簒奪者だったことにもよるが、自身「バシレウス」という男性形で皇帝を名乗らねばならないほど、当時のビザンツでは女帝忌避的な意識が強かったことにもよるであろう。
 しかし、興味深いことに、ビザンツでは11世紀のマケドニア朝期にも女帝を二人出した。しかもゾエとテオドラ姉妹による共治女帝という世界史的にも稀有の異例である。姉妹は享楽的な皇帝として悪名高いコンスタンティノス8世の娘であり、その点でマケドニア朝直系者としての権威を有していた。
 ゾエは、彼女の義理の息子(死別した夫ミカエル4世の養子)であったミカエル5世が皇太后ゾエを幽閉するなど虐待したことへの反発から1042年に民衆反乱が起き、ミカエル5世が廃位されるというある種の革命により帝位に就くこととなった。その際、元老院から妹テオドラとの共治という条件をつけられたのであった。
 しかし、ゾエはロマノス3世とミカエル4世という二代の皇帝の后として共同統治経験を持つベテランで、妹との共治という非正規的な体制は姉妹の対立とそれに対応した両派陣営の形成という弊害を露呈したため、この異例の体制は2か月足らずで解消された。
 その後は、ゾエが三度目の結婚によりコンスタンティノス9世の皇后となり、共同統治するが、すでに高齢のゾエは1050年に死去、続いて9世も55年に死去すると、再びテオドラが高齢で復位する。だが、彼女も翌年には死去した。
 生涯独身だったテオドラには子がなく、遺言により養子のミカエル6世が後を継ぐことになった。結婚を繰り返した姉ゾエにも子はなく、結果として、テオドラはマケドニア朝直系者として最後の人物となったのである。同時に、彼女はビザンツ帝国最後の女帝であった。

補説:ビザンツ帝国の宦官制度
 ビザンツ帝国はわずかとはいえ、女帝を輩出したように、統一ローマ帝国とは異なり、東方的な要素が強かったと見られるが、同じく東方的な要素として宦官の幅広い活用がある。
 男性去勢者としての宦官の持つ意味については、宦官の大国とも言える中国の項で詳述するが、宦官の制度自体は古代オリエントやそこから影響を受けたと考えられるギリシャ‐ローマにも存在していた。
 しかし、それらの宦官が主として雑用的な任務をこなす下級役人だったのに対し、ビザンツの宦官は中国と同様、しばしば高位官僚となり、宮廷で強い権力を持った。初期の著名な例では、ユスティニアヌス1世時代にイタリア征服作戦で総司令官を務めたナルセスがある。
 彼は文官から武官に転官した点で異例だが、宦官は通常、文官であった。特に実質上の宰相格である「皇帝侍従長官」は通常、宦官をもって充てられた。マケドニア朝期には宦官の権勢が大きく、ロマノス3世とミカエル4世の時代に権勢を振るい、ミカエル5世擁立を主導した宦官でミカエル4世の兄ヨハネス・オルファノトロフォスもそうした一人であった。
 しかし、ビザンツ宦官はマケドニア朝が断絶した後の11世紀末、軍事貴族層によって樹立されたコムネノス朝の下では武官優位の風潮の中、閉塞し、次第に宦官そのものが激減していった。

コメント

「女」の世界歴史(連載第8回)

2016-02-08 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

③ローマ帝国の女性実力者たち
 古代ギリシャの後継者となる古代ローマにおける女性の地位は、ギリシャとは異なり、いささか微妙なものであった。ここでも、女性は公式には政治から締め出されていたが、上流階級の女性たちは様々なチャンネルを通じて非公式に政治的影響力を行使することがあった。
 そうした傾向はローマが帝国化し、その政治が世俗化・複雑化するにつれ、次第に高まる。そのきっかけを作ったのは、初代皇帝アウグストゥスであった。彼の妻リウィア皇后はアウグストゥスの生前から助言者として政治にも関与していたが、皇帝の死後、連れ子のティベリウスを2代皇帝として擁立したうえ、ティベリウス時代の初期には皇帝生母として強大な力を持った。
 リウィアは86歳の長寿を全うし、死後に神格化されたが、彼女の真似をして悲劇的な死を遂げたのが暴君ネロの生母小アグリッピナであった。彼女も夫である4代皇帝クラウディウスの生前から政治的な影響力を行使したが、やはり連れ子のネロを皇帝に擁立し、その初期の治世では後見人として強い発言力を持った。
 暴君ネロの初期治世が意外なほどの善政であった背後には小アグリッピナの手腕があったとも評されるが、それゆえにかえって自立し始めたネロの反感を買い、ついには息子ネロの謀略にかかって暗殺されてしまうのである。
 統一ローマ時代後期で、歴史に残る女性実力者の存在が目立つのは、紀元193年から235年にかけてのセウェルス朝時代である。帝国史上初めてアフリカ属州‐東方系の王朝となったセウェルス朝は初代セプティミウス・セウェルス帝の妃ユリア・ドムナをはじめ、政治的な実力を持つ女性を多く輩出している。
 このように、皇后等として事実上の権力を行使する女性は存在したものの、ローマ帝国では統一時代及び東西分裂後の両ローマ帝国の時代を通じ、女帝を輩出することはなかった。ローマ帝国には後のゲルマン諸王朝が女子の王位継承権を否定するために援用したサリカ法典のような法制はなかったにもかかわらず、女帝は慣習上タブーとされていたと見られる。
 実のところ、ローマ帝国には「皇后」に相当する正式の称号も存在せず、先のリウィアを初代とする「アウグスタ」が一応それに該当したものの、この称号とて皇帝の正妻すべてに授与されたものではなかった。しかも、帝政自体がまだ共和制時代の名残をとどめるプリンキパトゥス(元首政)から皇帝の権力が強化されたドミナートゥス(専制君主制)へと変化するにつれ、「皇后」の発言力も低下していったようである。

④女装皇帝の悲劇
 古代ローマには古代ギリシャのように、哲学的にも把握された少年愛の明確な慣習はなかったようであるが、事実上の少年愛は存在した。皇帝の中にも、少年(青年)を愛人とする者が見られ、こうした貴人の「男色」は容認されていたようである。
 しかしセウェルス朝3代皇帝ヘリオガバルスのように、皇帝自身が女装して男色に耽るとなると、大問題であった。彼は元来セウェルス朝外戚でシリアの神官王一族出身のシリア人であったが、ネロと並び暴君として有名なカラカラ帝がクーデターで殺害された後、カラカラの伯母でもあった祖母ユリア・マエサが首謀した逆クーデターによって14歳で帝位につけられた簒奪者であった。
 こうした経緯から、政治の実権はユリア・マエサとその娘で皇帝生母ユリア・ソエミアスの手に握られた。ヘリオガバルス時代の悪政として、出身地シリアの太陽神エル・ガバルをローマの最高神として位置づける「宗教改革」を断行したことが挙げられるが、こうした宗教政策の背後にも、ユリア母娘が介在していたことは確実である。
 しかし、このような非正規的な体制は少年皇帝の放縦を結果した。ヘリオガバルスは本来大罪であるウェスタ巫女を犯し、婚姻を強行したほか(短期で離婚)、女色を好む一方で自身が女装して男娼となり、多くの男性と性関係を持ち、男性奴隷の「妻」となるなど身分をわきまえない逸脱行為が見られたとされる。
 キリスト教化される前の性愛に寛大なローマといえども、皇帝の無軌道な行動は目に余ったようである。ついに祖母ユリア・マエサが皇帝廃位を決断し、別の孫アレクサンデル・セウェルスに立て替えようとした。最終的にヘリオガバルスと息子をかばい続けたユリア・ソエミアスは近衛軍団のクーデターによって殺害され、二人の遺体は市中引き回しの末、テヴェレ川に遺棄された。
 去勢も望んでいたとされるヘリオガバルス帝はある種の「女」帝であったと言えるかもしれないが、基本的に男権主義の気風が強いローマでは史上最低の奇行の皇帝として汚名を残すこととなってしまったのである。

コメント

「女」の世界歴史(連載第7回)

2016-01-26 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

②巫女の宗教‐政治
 古代ギリシャ及びローマでは、公式的には女性は法的権利を制限され、政治の場から排除されていたが、一つ例外があった。巫女である。古代ギリシャの場合は、全ポリス共通の中央神殿でもあったデルポイのアポロン神殿の神託を伝える巫女ピューティアは格別の権威と特権を持った。
 ピューティアの選抜方法について詳細はわかっていないが、世襲ではなく、デルポイ出身女子の中からその身分や教養程度にかかわりなく、適性や人格によって選抜されたと言われる。ある種の能力主義だったようである。
 ひとたびピューティアに就任すれば、財産の所有や公的行事への参加、住宅の提供、免税など女性としては異例の特権が与えられた。その限りでは、古代ギリシャにおける最上層階級に属したとも言える。それはしかし、ポリスの命運にも関わる神託を伝えるという重責の代償を伴っていた。
 神託のお告げ自体はピューティアの憑依を介した宗教的なプロセスではあったが、その内容はしばしば政治性も帯び、神託の受託が政治過程にも組み込まれていたため、各ポリスの有力者は有利な神託を引き出すための情報工作まで行なったと言われ、ピューティアは一介の巫女を越えたある種の政治的な機能を果たしていた。
 古代ローマでこれに相当し、しかもはるかに組織的で政治性が強かったのは、ウェスタの巫女団である。ウェスタはギリシャの護国神でもあったヘスティアの対応神とされる。従って、ローマでもウェスタは護国神として崇敬された。
 ただ、ギリシャにおけるヘスティアの護国神としての地位は象徴的なもので、汎ギリシャ的な枢要性を持ったのは、上述のようにデルポイのアポロン神殿の巫女であったのに対し、ローマではウェスタ神に仕える巫女団が宗教‐政治的に実力を持った。
 広くローマ自由民の女子から30年任期で選抜されたウェスタ巫女には厳格な処女性が義務付けられ、禁欲の戒律違反は死罪に相当した。そうした制約の反面、ウェスタ巫女は財産所有、投票、重要行事への出席のような女性としては格別の特権を与えられ、またしばしば政治的な決定に際しても意見を徴されるなど、政治的な役割を負い、ある種の恩赦の権限すら持ったようである。
 ウェスタ巫女団が果たした最も代表的な政治的役割として、後のローマ帝政の祖となる若きカエサルがスッラにより予防的に粛清されようとした時、ウェスタ巫女団の助命嘆願を受け入れて免じた一件がある。この嘆願運動にはスッラの支持者を含む多くの俗人たちも加わっていたが、権威あるウェスタ巫女団の口添えが効いたことは間違いなく、当時独裁官だったスッラですらウェスタ巫女団の意思には公然と逆らえなかったことを示している。
 もしこの時まだ政治活動を始めていなかったカエサルが粛清されていれば、その後のローマの歴史が大きく変わっていたことは間違いなく、カエサルの命を救ったウェスタ巫女団は後から見れば歴史を作る役割を果たしたことになる。
 しかし、ウェスタ巫女団が権威を持ったのは主として共和政時代であり、皮肉にも、彼女たちが救ったカエサルが道筋をつけた帝政が始まると、次第に皇帝が超越的な存在となり、さらにキリスト教の国教化に伴い、ウェスタ巫女団も紀元394年には解散されたのである。

コメント

「女」の世界歴史(連載第6回)

2016-01-25 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

①古代ギリシャの女性排除
 古代ギリシャは同時代の世界において最も先進的な文明世界を形成していたことはたしかだが、こと女性の扱いに関しては芳しい記録を持たない。ただ、元来ギリシャ人は国家を家庭の集合体として観念したので、家庭の守護神である炉の女神ヘスティアは同時に国家の守護神でもあった。こうした女神崇拝は遠い過去、家政を仕切った女性の地位の高さを反映した痕跡かもしれないが、古拙期を過ぎ、古典期都市国家ポリスにおける女性の地位はすでに低下していた。
 もっとも、古代ギリシャはポリスごとに異なる文化・慣習を持つ多様体であったので、しばしば対照される代表的な都市国家アテナイとスパルタとでは女性の地位にもかなりの相違が見られた。
 まず民主制の手本としてしばしば参照されるアテナイにおける女性の地位は極めて低かった。女性は法人格を与えられず、家父長が支配する家の属員にすぎなかった。基本的な財産権もなく、従って市民権もないため、奴隷や未成年者同様、名高い直接民主制の民会に参加する権利も与えられなかった。アテナイの「民主主義」とは成人男性による成人男性のための成人男性の差別的民主主義であった。
 こうした徹底した女性排除を逆手にとって喜劇に仕立てたのが、劇作家アリストパネスの『女の民会』である。この作品の中では、通常男性しか参加できない民会に女性たちが男装して参加し、アテナイの統治権を女性に与えることを決議する。
 しかも、この女権体制は私有財産の廃止と共同ファンドの創設を旨としたある種の共産国家でもおり、またすべての男性は醜い女性を優先するという条件付きでアテナイのどの女性とも性関係を持つことができるという皮肉な性的平等が示される。この社会転倒的な喜劇作品は、裏を返せば当時のアテナイの女性排除の制度を象徴的に表わしてもいる。
 自身は男性であったアリストパネスの「女性シリーズ」喜劇には、もう一つ『女の平和』という戦争を題材にした作品がある。これは当時長期化していたアテナイ‐スパルタ間のペロポネソス戦争を終結させるため、両ポリスの女性たちが集団でセックスストライキを起こすという話である。
 ここにも登場するスパルタはスパルタ主義教育の名でも知られる軍国主義ポリスであったが、意外にもスパルタにおける女性の地位はアテナイよりもはるかに勝っていた。スパルタの女性たちは、軍国を支える兵士の母として尊重され、軍事活動に従事する男性に代わって財産を管理し、所有することもできた。
 とはいえ、スパルタ女性の地位もあくまで「軍国の母」としての尊重の結果であって、政治的な権利は保障されていなかったことに変わりなく、総じて古代ギリシャでは政治家または政治的実力者として記録に残る女性は存在しない。この点、アテナイの歴史家トゥキディデスがいみじくも記した言葉「(女性たちにとって)最大の栄光は、良くも悪くも、男性たちの間でほとんど話題にもならないことだ」は、古代ギリシャ女性の地位を物語っている。

補説:古代ギリシャの少年愛
 古代ギリシャにおける高度に論争的なテーマとして、「少年愛」がある。古代ギリシャでは成人男性市民の義務として少年愛が課せられていたとされる。これは、同性愛の公然制度化と見ることもできるが、プラトンが特に強調したように、成人男性が愛する少年を精神的に育成するという点に力点があるもので、肉体的な同性愛関係そのものではなかったと理解されている。
 実際、多くの場合、それは精神的な友愛の関係にとどまっていたであろうが、肉体関係も否定されてはいなかったらしく、精神主義の建て前と現実には齟齬があったと考えられる。その限りで、古代ギリシャでは女性が排除される一方で、男性同性愛者は排除されず、むしろ少年愛を実践する成人男性は義務を果たす模範市民とさえみなされていたのである。
 古代ギリシャの都市国家は、スパルタに限らず、すべて戦士を社会の中核として発達した軍国であったので、戦士の給源となる男性が社会を主導し、反面女性が排除されがちであったが、一方で男性を良き戦士=市民に育成するためのある種教育的な意義から、少年愛の制度化が生じたのだと言えるかもしれない。
 反対に、成人女性の少女愛については知られていない。ただ、時代的にアテナイの民主制樹立より100年ほど遡る女性詩人サッポーは出身地レズボス島に少女のための一種の女学校を作り、少女への愛を歌ったと解釈される愛の詩を多く残したことから、女性同性愛の象徴のように語り継がれた。
 彼女は半ば伝説化された人物であり、現実のサッポーは既婚者で、娘もいたとされるが、大胆に推測すれば、サッポーは男性の少年愛に相当するような方法で女子の育成を構想していたのかもしれない。

※当ブログの過去の連載記事等では、アテナイを「アテネ」と表記しているが、本連載では正確を期し、古代都市国家時代の名称に近い「アテナイ」と表記する。

コメント

「女」の世界歴史(連載第5回)

2016-01-13 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(1)古代文明圏と女権

③ヌビアの女王たち
 今日のエジプト南部からスーダン北部にかけてのヌビア地方に、かつて古代エジプトと並行する形でクシュと呼ばれた黒人系の王国が存在した。ヌビアはエジプト新王国時代にエジプトの植民地にされるが、独立後は逆にエジプトに侵攻・占領し、エジプト第25王朝を築くほど強勢化した。
 この王国は何度か首都を替えているが、ヌビア系エジプト王朝がアッシュールバニパル率いるアッシリアの侵攻により崩壊し、ヌビア勢力が本拠に撤収した後、しばらくして今日のスーダンの首都ハルツーム北東部付近のメロエに遷都が行なわれる。
 このメロエ朝は一連のヌビア王国最後のもので、紀元前3世紀から古代エジプトより長い紀元後3世紀頃まで続くが、興味深いことに、この時代に複数の単独女王を輩出している。この統治女王たちは現地の言葉でカンダケと呼ばれていた。
 その初例は、紀元前2世紀代に出たシャナクダケトである。これ以前には数百年遡る最初の王朝の最後に一人の女王の名が記録されているだけで女王は忌避されていたと見られるのに、突然女王が出現した経緯や彼女の詳しい事績も明らかでないが、残されたレリーフにはシャナクダケトが戦士の姿で描かれていることからすると、女性戦士としての功績から女王に登位した可能性もある。
 メロエ朝で記録に残るカンダケはシャナクダケトを含め、10人近くを数えるが、事績が明確な人物は限られる。その中で、紀元前1世紀代に出たアマニレナス女王は紀元前27年から22年にかけてのローマ帝国との交戦に関してストラボンの歴史書でも言及されている。彼女はプトレマイオス朝の滅亡によりすでにローマのものとなっていたエジプトに侵攻して緒戦で勝利を収めるが、間もなく女王が没すると、メロエ軍はローマ軍の反転攻勢により押し戻され、最終的にはローマのアウグストゥスと比較的有利な条件で講和する。
 次いで紀元後1世紀代初頭に出たアマニトレ女王はメロエ朝全盛期を演出したと見られ、この時代にはエジプトの影響を受けたピラミッドが数多く築造されている。彼女はまた新約聖書・使徒言行録中でエチオピア人の改宗に関連して言及される「エチオピア女王」を指すとも考えられている。
 メロエ朝では終末期になるにつれ、女王の登位頻度が高くなり、紀元4世紀の最後の王もラヒデアマニという女王であった。このようにクシュ王国の最終王朝が多くの女王を輩出した理由は不明だが、カンダケの権威が極めて高かったことはたしかである。
 このような現象は隣接するエジプトとは異質である。クシュ王国は一時エジプトを支配して以来、エジプト文明の強い影響を蒙り、それはピラミッド建設や宗教にも現われているが、元来は異なる民族文化圏に属しており、ヌビア独自の社会構制が古代国家としては異例の女王支配を発現させたのであろう。

コメント

「女」の世界歴史(連載第4回)

2016-01-12 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(1)古代文明圏と女権

②古代エジプトの女王たち
 古代エジプトは、メソポタミアと近接しており、文化的にも共有する点があったが、メソポタミアに比べれば女権に対していくぶん開かれていたように見える。とはいえ、最終王朝となるギリシャ系のプトレマイオス朝を除けば、純エジプト王朝時代の女性ファラオは極めて例外的であった。
 確証のある最初の女性ファラオは中王国時代に属する第12王朝最後のセベクネフェルである。彼女は先代ファラオのアメンエムハト4世の妃からファラオに即位したと見られるが、その事績はほとんど明らかでなく、おそらく男子が絶えたための中継ぎ的な治世だったと見られる。
 次の女性ファラオは新王国時代第18王朝のハトシェプストまで待たねばならなかった。彼女は先代ファラオのトトメス2世の異母姉にして妃でもあったが、夫の没後、義理の息子トトメス3世が年少のため、共治女王として実権を握ったと見られている。その意味では後見的な登位のはずであったが、彼女には政治的野心があったと見え、戦争によらない平和外交と交易を重視する独自の政策転換を主導した。
 こうした点で、彼女は純エジプト王朝時代に統治女王として長く政権を保った唯一の存在であった。それだけに周囲を取り巻く男性陣の反発も強かったと見られ、公的な場では男装していたとされる。そして没後はその事績を抹消されるという報復的処遇を受けた。これを主導したのが母王から自立した息子のトトメス3世だったかどうかは別として、女性ファラオへの反発の強さを象徴している。
 ハトシェプストの後、続く第19王朝でも、セティ2世の正妃タウセルトがファラオに即位した。彼女は夫の没後、跡を継いだ幼帝の下で宰相とともに後見役として権勢を持ったが、ハトシェプストとは対照的に、治世二年にして内乱の中で死亡し、第19王朝最後のファラオとなった。純エジプト王朝時代は、彼女を最後に統治女王を輩出していない。
 ただ、エジプト王朝ではファラオの正妃は「大妃」の称号を持ち、とりわけハトシェプストが属した第18王朝に始まる新王国時代は「大妃」が政治的な実力も持った例外的な時代であった。宗教改革で知られるアクエンアテンの大妃ネフェルティティもそうした一人である。
 純エジプト王朝が終焉し、ギリシャ系王朝であるプトレマイオス朝になると、国王とその妃でもある女王の共同統治が原則化される。その理由は明確でないが、外来の異民族王朝であるがゆえに、夫婦共治によって王権の基盤を強化する必要に迫られたためと考えられる。この場合、近親婚のエジプト的慣習が純エジプト時代以上に強化され、女王は国王の姉妹、叔母、姪など血縁者であることがほとんどであった。
 プトレマイオス朝の歴代女王たちは積極的に施政にも関わり、クレオパトラ2世のように夫の国王に対してクーデターを起こすなど政治的謀略を企てることもあり、時に独自の政治行動も示すまさしく統治女王であったため、プトレマイオス朝は政情不安が常態化していた。
 プトレマイオス朝最後にして古代エジプト王朝全体の最後のファラオでもあったクレオパトラ7世も、そうした女王の一人であった。クレオパトラも当初は近親婚した二人の弟と相次いで共治したが、彼女が違っていたのはカエサル、アントニウスという異国ローマの英雄たちと自由に交際し、その間に子をもうけたことだった。
 ある意味で、クレオパトラは自身の恋愛感情に忠実に生きようとする「自立」した女性だったとも言えるが、そのことで、ローマも共和制から帝政に移行する重大な変動期にあった複雑な国際情勢の荒波に飲まれ、自身と王国双方の命取りとなったのであった。

コメント

「女」の世界歴史(連載第3回)

2016-01-11 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

第一章 古代国家と女性

[総説]:国家と男性権力
 「女」の世界歴史における長い閉塞の時代の始まりとなる古代国家の時代、女性たちの地位はすでに後退していたが、必ずしも完全に排除されていたわけではなかった。数は限られるものの、古代国家にも女王が現われているし、王ではないものの政治的な実力を備えた女性も存在していた。その意味では、古代国家の時代には「男尊女卑」という観念は必ずしも一般的ではなかったと言える。
 こうした例外的な女王/女性権力者はたいてい男性権力に空白や無能・幼少などの事情が生じた時の中継ぎや後見の役割を負って登場するケースがほとんどではあるが、女性権力者が否定されていたわけではなかった点において、古代国家形成前の先史時代において女性の地位が高かったことの残影と見る余地もあるだろう。
 とはいえ、古代国家における権力は圧倒的に男性のものであり、女性はよくてサブの役割にすぎなかったことも否定できない。言い換えれば、例外的に女権は認められたが、ここで言う「女権」とは力の謂いであって、当然にも近代的な性の利を意味してはいなかった。
 もっとも、女権の許容度にも文明による相違が見られ、女権にかなり開かれた文明圏から逆に極めて忌避的だった文明圏まで濃淡が見られる。第一章では、そうした文明圏による濃淡差を考慮しながら、古代国家における「女」の姿をとらえていく。

**********

(1)古代文明圏と女権
 先史時代から連続する紀元前の古代文明圏の中で、女性の活動が比較的史料上確認しやすいのは、メソポタミア文明圏とエジプト文明圏であるので、ここでは特にこの二つに焦点を当てることにする。

①古代メソポタミアの女権
 今日の中東地域の中心部をカバーする古代メソポタミア文明圏では女権は極めて忌避されており、女王の存在はほとんど記録されていない。しかし、古代メソポタミア文明の先駆者であるシュメール人の社会では、元来男女対等の長老会議によって統治されたという説もある。
 ところが時代が進むにつれ、男性優位が強固に確立されていく。その理由は不明だが、多数の都市国家が林立抗争するようになるにつれ、戦士となる男性の発言力と権力が増強されていったことが考えられる。後にいくつもの帝国が興亡し、征服戦争が多発するようになれば、なおさらのことである。
 そういう女権忌避風潮の中で、シュメール王名表に記されたクババ(ク・バウ)女王は稀有の存在である。彼女はシュメール都市国家キシュ第三王朝の創設者かつ同王朝唯一の君主でもあった単独女王である。彼女は経歴も異色で、元は酒場の女将だったとされ、ジェンダーのみならず階級上昇という観点からも注目される。
 ただ、100年間も在位したとされる彼女の存在と事績は伝説的であり、史実性の確認は困難だが、メソポタミア地方では神格化され、彼女を祀る神殿がメソポタミアに拡散する。特に、北メソポタミアからアナトリアにかけての諸王朝では篤く信仰された。
 クババの後、息子のプズル・シンがキシュ第四王朝を開き、その息子でクババの孫に当たるウル・ザババがその家臣サルゴンに簒奪され、アッカド帝国に取って代わられたとされる。とすると、キシュ第三及び第四王朝は「女系王朝」という稀有の存在だったことになる。
 クババよりは史実性が確認できる古代メソポタミア文明圏の女性権力者としては、時代下って新アッシリア王国時代全盛期の王センナケリブの妃ナキア(側室)がいる。側室の一人にすぎないナキアが権力を掌握し得たのは、熾烈な王位継承抗争に際して息子のエサルハドンを王太子に立てることに成功したためであった。
 王位に就いたエサルハドンは海外遠征に多忙で、しばしば国を留守にしたため、王母ナキアはそうした間の国王代理者を務めて、国政に関与したとされる。その他、神殿築造などもこなし、実質的には共治女王のような地位にあったと見られている。そうした権力関係は、エサルハドン王の背後に寄り添うように描かれたレリーフにも残されている。
 エサルハドンの息子でナキアの孫に当たるのが、著名なアッシュールバニパル王である。アッシュールバニパルを後継者に指名するに当たっても、ナキアの関与があったと言われるほどの政治的な実力を備えた例外女性権力者であった。

コメント

「女」の世界歴史(連載第2回)

2015-12-29 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

〈序説〉
 
「女」の世界歴史を大きくとらえると、長い閉塞時代を抜け出し黎明期を通って近現代の伸張と抑圧が同時並存する時代へという流れを見て取ることができる。図式化すれば、(一)長い閉塞の時代→(二)黎明の時代→(三)伸張と抑圧の時代という三区分になり、かつそれしかない。この点で、男性視点による通常の世界歴史の時代区分より単純である。
 もちろん、三つの時代区分それぞれの内部にいくつかの小区分を設定することはできるが、大きな節目で分ければ三区分に包括されてしまう。それだけ、歴史時代の「女」の位置づけは限定されている。
 それ以前の先史時代の「女」の地位については証拠の乏しさから、解明されていないことが多い。仮説的には女性が家長として家中を采配し、さらには社会集団の首長を務める母権制が先史社会論として提唱され、有力化したこともあったが、現代の人類学者はほぼ否定的なようである。とはいえ、現在も一部の民族社会に残る母系制には、かつて女性の役割がずっと高かったことの痕跡が残っているとも言える。
 少なくとも、狩猟と原始的な農耕を基本とした原始共産制社会では社会の中心となる家政を預かる女性の地位は高かったと推定できる。しかし、農耕の発達により生産力が向上し、次第に後の国家のプロトタイプとなる村落のような原始権力体が発生してくると、男性の地位は増強されたであろう。特に、村落同士の戦闘が盛んになると、体格・体力で勝る男性の戦士としての役割が高まり、武力を基礎とした政治権力も発生する。
 母権制がクーデター的に男権制に転換されたというような見方はもはや時代遅れかもしれないが、大きな流れで把握すれば、女性優位的な社会から男性優位的な社会に転換されたのが、歴史時代の始まりであると見ることができる。言い換えれば、女性がいったん表舞台から排除されるところから、歴史が始まる。
 それに伴い、筋骨隆々で勇猛な「男らしい」男性が歴史を作る指導者として理想化され、「男らしくない」「女々しい」男性、特に同性愛男性もおそらく同時に半女性化され、歴史から排除されたのである。
 こうして「女」は長い閉塞の時代に入っていく。その時代を扱う「第Ⅰ部 長い閉塞の時代」では、まず世界に出現する古代国家における女性の位置づけを確認した後、イデオロギー的にも男権優位が確立されていく「女」にとっては暗黒の中世時代を鳥瞰する。

コメント

「女」の世界歴史(連載第1回)

2015-12-28 | 〆「女」の世界歴史

序論

 筆者は先に完結した『世界歴史鳥瞰』の序論で、次のように述べたことがある。

 ・・・富/権力を最高価値とするような物質文明を基層に成り立つ人類社会の前半史とは、所有すること(having)の歴史であり、そこでは富であれ権力であれ、もっと所有すること(more-having)、すなわち贅沢が歴史の目的となるのである。一方で、所有の歴史は、所有をめぐる種々の権益争いに絡む戦争と殺戮の歴史でもある。
 そういうわけで、所有の歴史にあっては持てる者と持たざる者との階級分裂は不可避であり、時代や国・地域ごとの形態差はあれ、何らかの形で階級制が発現せざるを得ないのである。それとともに、戦争・殺戮の多発から、戦士としての男性の優位が確立され、社会の主導権を男性が掌握する男権支配制が立ち現れる反面、女性や半女性化された男性同性愛者の抑圧は不可避となる。
 こうして現在も進行中である人類社会前半史は、多様な不均衡発展を示しながらも、ほぼ共通して男権支配的階級制の歴史として進行してきたと言える。従って、それはまた反面として、男権支配的階級制との闘争の歴史ともならざるを得なかった。古代ギリシャ・ローマの身分闘争、中世ヨーロッパや東アジアの農民反乱・一揆、近世ヨーロッパのブルジョワ革命、近現代の労働運動・社会主義革命、民族解放・独立運動、人種差別撤廃運動、女性解放運動、同性愛者解放運動等々は、各々力点の置き所に違いはあれ、そうした反・男権支配的階級制闘争の系譜に位置づけることができるものである。

 このような問題意識を抱懐しつつも、『世界歴史鳥瞰』ではあくまでも歴史全体の「鳥瞰」に力点を置いたため、必ずしも歴史における女性の動静に焦点を当てるものとはならず、よくてジェンダー中立的な視点での叙述にとどまるか、むしろ男性視点に偏っている趣きすらあった。そこで、本連載では、先行連載の矯正の意味を込めて、女性に焦点を当てた世界歴史の鳥瞰を試みる。
 
 ところで、タイトルの「女」という語を括弧でくくるのは、この語には生物学上の女性という本来の意味に加え、男性同性愛者も包摂したい意図からである。男性同性愛者は言うまでもなく生物学的には男性であるが、しばしば男性中心の歴史世界においては女性化され、「半女性」として扱われることがあった。しかし、そうした男性同性愛者も女性以上に周縁的な存在者としてではあるが、世界歴史に関与している。そうした二重の意義を込めての「女」の世界歴史が、本連載の主題である。

コメント