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「女」の世界歴史(連載第9回)

2016-02-09 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(2)古代ギリシャ・ローマの女権

⑤ビザンツ帝国の女帝たち
 前回も触れたとおり、統一ローマ帝国及び東西分裂時代の両ローマ帝国では女帝は慣習上否定されていたと考えられるが、西ローマ帝国滅亡後の東ローマ=ビザンツ帝国ではわずかながら女帝を輩出した。なお、ビザンツ帝国はヨーロッパ史の時代区分的には中世にかかるが、ローマ帝国の延長という点では古代国家性を有するので、行論上ここで扱う。
 史料上明確に最初のビザンツ女帝と目されるのは8世紀末に出たイサウリア朝のエイレーネであるが、より早く6世紀の「大帝」ユスティニアヌス1世の妻テオドラ皇后は夫を支えて国政にも関与したため、彼女を共治女帝とみなす史料もある。
 テオドラは元来身分の低いダンサーだったが、初めは役人の妻となり、離婚後、ユスティニアヌスに見初められて貴賎結婚し、皇后にまで上り詰めた階級上昇の異例としても注目に値する人物である。
 ただ、彼女のケースはまさに女太閤的な例外であり、ビザンツ帝国においても女性の公的な地位は制約されており、女帝忌避はしばらくの間続く。そうした中、イサウリア朝に至り、ビザンツ帝国最初の単独女帝であるエイレーネが登場する。
 彼女はテオドラとは対照的にアテナイのギリシャ系貴族の生まれであり、初めはレオン4世の皇后となるが、夫が早世した後、幼少で帝位に就いた息子コンスタンティノス6世の後見役たる摂政として実権を握る。
 しかし成長した息子と衝突したため、軍事クーデターを起こして6世を拘束し、目をくり抜いて追放したうえ、自ら帝位に就いた。目をくり抜いたのは五体満足が皇帝の身体条件となっていたためであるが、実の息子の目をくり抜くという虐待により帝位を簒奪した彼女の権力欲は当時の人々にも衝撃を与えたらしく、エイレーネは不人気であった。
 彼女はイサウリア朝の看板政策でもあった聖像破壊運動を停止し、聖像崇拝の正統性を再確認するという重要な宗教改革を行なった。これによって長く対立していたローマ教皇との和解が達成されるはずであったが、時の教皇レオ3世はエイレーネの帝位を正統的なものとは認めず、フランク王国のカール大帝を西ローマ皇帝として認証したため、ビザンツ帝国の威信は低下した。
 最終的に、エイレーネは財務長官ニケフォロス(後の皇帝ニケフォロス1世)の新たなクーデターで失権し、結果として、イサウリア朝の幕引き役を演じることとなった。エイレーネが失敗したのはあからさまな帝位簒奪者だったことにもよるが、自身「バシレウス」という男性形で皇帝を名乗らねばならないほど、当時のビザンツでは女帝忌避的な意識が強かったことにもよるであろう。
 しかし、興味深いことに、ビザンツでは11世紀のマケドニア朝期にも女帝を二人出した。しかもゾエとテオドラ姉妹による共治女帝という世界史的にも稀有の異例である。姉妹は享楽的な皇帝として悪名高いコンスタンティノス8世の娘であり、その点でマケドニア朝直系者としての権威を有していた。
 ゾエは、彼女の義理の息子(死別した夫ミカエル4世の養子)であったミカエル5世が皇太后ゾエを幽閉するなど虐待したことへの反発から1042年に民衆反乱が起き、ミカエル5世が廃位されるというある種の革命により帝位に就くこととなった。その際、元老院から妹テオドラとの共治という条件をつけられたのであった。
 しかし、ゾエはロマノス3世とミカエル4世という二代の皇帝の后として共同統治経験を持つベテランで、妹との共治という非正規的な体制は姉妹の対立とそれに対応した両派陣営の形成という弊害を露呈したため、この異例の体制は2か月足らずで解消された。
 その後は、ゾエが三度目の結婚によりコンスタンティノス9世の皇后となり、共同統治するが、すでに高齢のゾエは1050年に死去、続いて9世も55年に死去すると、再びテオドラが高齢で復位する。だが、彼女も翌年には死去した。
 生涯独身だったテオドラには子がなく、遺言により養子のミカエル6世が後を継ぐことになった。結婚を繰り返した姉ゾエにも子はなく、結果として、テオドラはマケドニア朝直系者として最後の人物となったのである。同時に、彼女はビザンツ帝国最後の女帝であった。

補説:ビザンツ帝国の宦官制度
 ビザンツ帝国はわずかとはいえ、女帝を輩出したように、統一ローマ帝国とは異なり、東方的な要素が強かったと見られるが、同じく東方的な要素として宦官の幅広い活用がある。
 男性去勢者としての宦官の持つ意味については、宦官の大国とも言える中国の項で詳述するが、宦官の制度自体は古代オリエントやそこから影響を受けたと考えられるギリシャ‐ローマにも存在していた。
 しかし、それらの宦官が主として雑用的な任務をこなす下級役人だったのに対し、ビザンツの宦官は中国と同様、しばしば高位官僚となり、宮廷で強い権力を持った。初期の著名な例では、ユスティニアヌス1世時代にイタリア征服作戦で総司令官を務めたナルセスがある。
 彼は文官から武官に転官した点で異例だが、宦官は通常、文官であった。特に実質上の宰相格である「皇帝侍従長官」は通常、宦官をもって充てられた。マケドニア朝期には宦官の権勢が大きく、ロマノス3世とミカエル4世の時代に権勢を振るい、ミカエル5世擁立を主導した宦官でミカエル4世の兄ヨハネス・オルファノトロフォスもそうした一人であった。
 しかし、ビザンツ宦官はマケドニア朝が断絶した後の11世紀末、軍事貴族層によって樹立されたコムネノス朝の下では武官優位の風潮の中、閉塞し、次第に宦官そのものが激減していった。


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