kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

考古Gで 「阿武山古墳」 を探訪してきました。 (^^♪

2010年11月29日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学

発見して数十年も経ってから、昭和58年8月に国の史跡に指定になった 「阿武山古墳」は
7世紀後半に築造されたもので、京都大学地震観測所のすぐ北側にありました。

昭和9年の春に京都大学の地震観測施設建設の工事で偶然に発見され、地震観測所長で
地球物理学者の 「志田 順 (しだ とし)」 博士によって墓室内部の調査が行われました。


古墳は墳丘をつくることもなく、高槻市と茨木市の境にある阿武山の中腹・標高約210mの
自然の山丘を利用して、幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの周溝の中央に
花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルが組み上げられ、内側はしっくいで墓室がありました。
そして、南側には水抜き用の坑道がひかれていました。


墓室には木棺でも石棺でもなく、漆で麻布を何枚も貼り固めた 「夾紵棺 (きょうちょかん)」 が
安置され、棺内には大小500個の青と緑のガラス玉を、8mの銀線で結び目が一つの高度な
技術の 「玉枕 (たままくら)」 、60才ほどのきらびやかな錦をまとった身長164、59cmの
ミイラ化した男性が、あおむけにした状態で南枕に葬られていました。

発見後100日でほどで、遺骸は再び元通りに復元された石室に埋葬されたそうです。


当時に撮影されたX線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に事故(落馬)で骨折して
いたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)が授けられたのが、「余豊璋」との二人だけであった
ことから、葬られた人物は 『多武峰略記』の安威山に埋葬したと伝える大織冠・中臣(藤原鎌足)
のお墓とする説が有力です。 (昭和62年11月3日の朝日新聞にも掲載されていました。)

昨年の11月に、茨木市開催の「鎌足ゆかりの地」の散策に参加した時から行きたいと思って
いたので、行く事ができて良かったです。 (その時の記事 阿為神社の蹴鞠 があります。)

~~~~~~~  今日の誕生花  日比谷花壇より  ~~~~~~~
花名 : マリーゴールド          花言葉 : 信頼
マリーゴールドは、「聖母マリアの黄金の花」という意味です。
メキシコ原産で、大輪のアフリカン系とフレンチ系があります。
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