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世界遺産・京都二条城③「大政奉還の際に徳川慶喜が城外に出た西門」

2019年04月15日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
京都二条城にあまり知られていない②「菊紋の金具を外すと・・・」のつづき

二条城正式名称:元離宮二条城は
徳川家の栄枯盛衰をはじめ、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城。
2017年で徳川幕府が終焉を遂げた大政奉還から150週年を迎えました。

ガイドツアーに参加して、見たかった一つ「西門」

天明8年(1788)の大火で周辺の櫓門等が焼失し
今ではこの西門だけが残っています。

通常非公開の 二条城西門の内側(重要文化財)

大政奉還後、徳川慶喜が城外に出るのに使用したとされる西門。

寛永3年(1626)頃に建設され、江戸時代は二条城の通用門でした。
門の上に立つ土塀と石垣に囲まれることから「埋門(うずみもん」と
呼ばれるが、屋根だけを見れば「高麗門(こうらいもん)」です。

高麗門とは
柱の上にしか屋根のない、視覚なくすために屋根を小さくした門です。
この門を突破されても正面に櫓門が待ち受け、敵をその2階や石垣の上から
攻撃する時に、屋根が邪魔にならないように考えられた造りだそうです。

天明8年(1788)の大火で周辺の櫓門等が焼失し
明治以降は外堀にかかる木橋も失われ、今はこの西門だけが残っています。

西門 柱の落書き

ガイドさんの説明では
「門番による落書きだと言われています。」


家光が上洛してから二条城に将軍が訪れたのは200年以上も後。
平和な時代で、門番も落書きする「遊び心?」があったようですね。

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ここからは、2011年11月に行った時の写真です。
この時は城内からの西門が見ることが出来なかったのですが
今回のツアーに参加して城内から見ることができました。

二条城の西側、美福通沿いから見える西門

西門は、東大手門の反対(西側)に位置しています。

大政奉還のあと、慶応3年(1867)12月に
徳川慶喜が、この西門から出て大坂に向かったそうです。


美福通りに面した西門には、当時木橋があったのですが・・・
現在は、堀を渡る木橋はなく開かずの門になっています。
コメント
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