kenroのミニコミ

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知的好奇心のとば口となるか   ダ・ヴィンチ・コード

2006-06-04 | 映画
前評判は高く、最近テレビ、雑誌等でもレオナルド・ダ・ヴィンチばかり。映画もそれなりに飽きさせないし、おそらく原作を読んでいなくとも楽しめるのだろう。が、キリスト教史、特に異端の歴史や少なくともレオナルドの美術(や仕事)に知識や興味の全くない人にはあまり面白くないかもしれない。それくらい広い話題と展開に疲れるくらいだからだ。
物語の筋はもう十分喧伝されているので繰り返さないが、この映画公開に際し、キリスト教世界でも舞台のお膝元であるヨーロッパは比較的冷静で、カソリックの強いフィリピンや南米では反発が強いと言う。まあ、イエスとマグラダのマリアの結婚は本作(小説)が初出ではなく、1982年の『レンヌ=ル=シャトーの謎』から大きく語られていたらしく、極端に珍しい新説ではないそうな。また、男性原理(中心主義)のアンチとしてのキリスト教に内包する女性崇拝/原理(マリアの処女懐胎はもちろんのこと、本作でイエスの血脈とされるメロヴィング朝が出現した現在のベルギーあたりに強く残る清血礼拝など)はマグラダのマリアを初めとしてキリスト教の大きな一側面だそうである。イエルサレムに聖地奪回と進軍した初期十字軍もこのあたりの地方出身とか。(「ダ・ヴィンチ・コードの◯と×」小池寿子/宮下誠『芸術新潮』06年6月号)
なるほど本家のイタリアルネッサンスより、北方ルネッサンス絵画の方が、より鮮やかで篤い信仰心を感じる(科学的指向の強かったレオナルドの作品と、寄進を中心に描いたヤン・ファン・エイクを比べてみても)。ただ、ダン・ブラウンの探求が眉唾かそうでないか、あるいは、イエスの血脈があったかどうかなどいろいろな点で、宗教的(信仰)と科学的歴史学は別物であり両立するものだ(前出)。そして信仰に対する冒涜という観点からこの作品(原作も映画も)を見れば、「許せない」の一言で切って棄てることもできるが、歴史的興味という観点からなら知らなかった世界をいろいろ楽しめるということだろう。現にヴァチカンは公式にはこの映画上映を糾弾せず、静観の構えだそうで、それだけ古い歴史を持つキリスト教がこれまで幾多の歴史的検証にさらされてきたことを物語る。
ただ信仰に対する科学的接近はあり得るとしても、たんなる揶揄は慎まなければならないし、脱宗教的観点からの当該宗教に対する表現は慎重さが要るだろう(予言者風刺画問題を見よ)。そして宗教に対する政治的関与、圧迫は常に摩擦を引き起こし、少数者に対する想像力、許容力が試される(フランスの学校でのスカーフ着用禁止問題も、靖国神社「公式」参拝問題も)。
たかが娯楽作品に対して拡げすぎたようだ。本作のラストを飾るルーブルの迫力と魔力は本物であると思う。またあのピラミッドに遭遇したくなった。

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