kenroのミニコミ

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母性より中東の縮図に震撼  灼熱の魂

2012-01-15 | 映画
実は戯曲というものに慣れ親しんだことがないので、全体をとおして違和感があった。原作は戯曲。そして、主人公の過酷な物語とは裏腹に、妙に詩的、赦しの観念の唐突さにも。
しかし、これらは本作が見るに値しない凡作と酷評するものでもない、むしろその正反対である。中東地域、おそらくは、レバノンを舞台にしているであろうことはすぐに分かった。というのは、イスラム教徒勢力とキリスト教徒勢力との間でつい最近まで内戦状態であったことから、時代背景として理解できたからだ。
レバノン。イスラエルというシオニズム国家とシリアやヨルダンといったイスラム国家に挟まれて、自身は、フランスの統治の時代も長かったためキリスト教徒も多く、それゆえ、宗教対立とそれらに肩入れする勢力、イスラエルはもちろんヒズボラなど、の銃火に翻弄されてきた国。そこに生まれ育った人は、イスラムかキリストかですでに相容れないスティグマを背負っている。
クリスチャンの家庭で育ったナワル・アルマンはイスラム難民と恋に落ちるが、それを許さない家族らによって恋人ワハブはナワルの目の前で射殺される。しかし、妊娠していたナワルは男の子を産み落とし、その子はすぐに里子に出される。息子に会いたい。ただその希いのために大学でフランス語を学び、キリスト武装勢力の非道を目の当たりにしてイスラム武装勢力に参加し、キリスト教勢力のリーダーの射殺に成功し、捕まえられて。
物語はナワルの死後、奇妙な遺言を実行することになるナワルの双子の子ども、ジャンヌ、シモンの道行きに焦点が当てられ、次第にナワルの過去とナワルの息子、そして捕まえられたナワルにすさまじい拷問、レイプをなした非道の男のその後と正体が明らかになっていくという筋立て。ラストは衝撃的ではあるが、少し作り物すぎる感じがした。それは、冒頭で記したように戯曲という、いわば小説とは違う詩的世界、構成主義的プロセスに筆者が慣れていなかったかもしれない。そして、レバノンといういまだに十字軍的?諍いに翻弄される民の姿をフィーチャーした作品ではなかったのかも。
レバノンで多くの市民が殺戮されたこと、その理由に、イスラム勢力に対抗するためというイスラエルの拡張主義と、それに呼応したレバノン国内のキリスト教勢力の思惑があったことなどは、82年のサブラ・シャティーラの虐殺などで明らかである(アニメで描く「記憶の成功」 戦場でワルツを http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/1651c5f67aa0c47586484327a79eaea8)。
ナワルの覚悟、それは子どもたちに真実を伝え、その真実に潰されることなく、一緒にいて平和を希求する生き方をと願ったこと。キリスト教徒としての、いや、酷薄な生を経験したからこそ、伝えることのできる「愛」は憎しみや恨みの浄化である。
「シリアの花嫁」(落ちる壁と堕ちない壁(ボーダー) シリアの花嫁 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/fb88970a711fe4a24d1e14edee)は、戦闘、殺戮シーンもなく穏やかな映像であったが、中東地域のかかえる現実のキツさを体現していて、こちらの作品の方が好きである。
が、ギリシア神話のオイディプスの悲劇を想起させる本作もありえる範疇では、ナワルの数奇な人生に思い馳せるのもありである。レバノン情勢か、イスラエルという中東の鬼子の蛮行を客観的に評価するか、あるいは封建制、家父長制との対峙と自立というフェミニズム的観点で見るか。想像力が途切れない本作ではある。

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