kenroのミニコミ

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貧しさは弱さではない、しかし。  三姉妹 雲南の子 

2013-06-08 | 映画
フィンセント・ファン・ゴッホの初期作品に「馬鈴薯を食べる人たち」(1885年)というのがある。キリスト教伝道師として過ごし、貧窮の極みにいたゴッホを象徴する作品とも評されるが、馬鈴薯=じゃがいもは、米や麦など穀物を摂れないほど貧しい農民の日常食として、じゃがいも=貧しさの象徴でもある。
雲南省の山中、洗羊塘(シーヤンタン)村に暮らす三姉妹、英英(インイン)10歳、珍珍(チェンチェン)6歳、粉粉(フェンエンフェン)4歳。親はいない。母親は出て行って行方知れず。父親は町に出稼ぎに行っていて長女の英英が妹二人の面倒をみている。数年前にやっと電気が通った村は最貧地帯で、作物がほとんど育たない3000メートルの高地でできるのは羊、豚などの飼育とじゃがいも作りだけ。英英が何度もじゃがいもをかじるシーンが出てくるのはそのため。貧しいがゆえにであるのか、英英は本当によく働く。まだ10歳だというのに、家事はもちろん、羊追い、豚追い、羊の糞集め、松ぼっくり拾い…。粉粉のシラミ採り。そう、姉妹は長い間お風呂に入っていない。行き過ぎたデオドラント感覚の日本人からすればかなり臭いに違いない。しかし、英英が小学校にいるシーンでは、英英を特段避けるシーンもないし、お風呂に入っているかどうかはわからないが、子どもたちはみんな貧しい身なりで、何日も同じ服を着ているように見える。基本的に高地の乾燥地帯なので、臭気も平地ほどではないだろうし、そもそも臭いから差別するなんて狭量さもないのだろう。
英英はほとんどしゃべらない。父が妹二人を町に連れていくからと英英一人を置き去りにして、祖父と暮らすようにとするが、祖父は昔の人。英英が家で勉強していると、「勉強なんかして、羊が盗まれたらどうするんだ」とどやしつける。その時、英英は珍しく大儀な、かつ、いらついた返事をする「聞こえてるよ(でも、勉強したいのに)」と。そして、英英が叩いた年下の近所の子が作業帰りの英英をつかまえて「叩いたでしょ、許さない」と詰め寄った時。本当に珍しく、言い放つ「あんたが家を覗いたからでしょ」。
おそらく英英のいらつきは、妹たちがいなくなり、一人ぼっちになったこと、旧い考えの祖父からの厳しい要求が理由であるに違いない。しかし、英英もまだ10歳。あんなに働いているのに、そして、勉強したいのに山のようにある仕事、少ない勉強時間のストレスは10歳には重すぎるのではないか。でも、同時に英英の瞳は澄んでいる。挑戦的にも見えるそ眼差しだけは10歳のそれではない。
貧しさと過酷労働。それも児童労働だ。翻って、日本の10歳にあれほどの労働に耐えられる子どもはいないだろうし、同時に将来ではなく現在と貧困ゆえに戦っている子どもは少ないだろう。どちらが幸せかという問題ではないし、少なくとも、英英のような生活は勉強を否定されるという点では、子どもにとって望ましくないことは明らかだ。そして、雲南のかの地方では、女の子は14歳かそこらで嫁ぐことによって、婿の家から贈りものや金銭を得ることが風習として残っているということも前近代的問題として看過できない。英英もあと数年で祖父の羊追いの後には、夫の家庭の犠牲になるのか。
とてつもない速さで経済発展をとげる中国と評される裏には英英のような経済発展とは無縁の少女たちがいる。そして、それを無視することで経済発展を遂げている実態。人権状況が最悪の中国については、おもに、言論の自由の観点から「人権状況が最悪」と言ってしまいがちであるが、発展を享受できない、安定的な生活、十分な教育という観点からも英英はその恩恵を全く受けていないことは明らかだ。
尖閣諸島をはじめ、ナショナリズムから中国を攻撃する言説も多いが、人権の観点から中国を批判してほしい。もちろん、人権の観点といった時点で、日本ではどうなのだと、私たちにもかえってくる、天に唾する状況となるのであるが。
英英はずっと咳き込んでいた。ぜんそくや持病があるかもしれない。医療ケアも十分でない村で、英英の身体を気遣う人がいてほしいし、英英には自分の身体こそ大事にしてほしい。何もできない自分がつらい。

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