kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

アメリカ東海岸美術館巡り2013 3

2013-01-14 | 美術
「大きい」を表す英語のbigは「大きい」の中では小さい方らしい。gigantic(ジャイガンティックとか発音するらしい。難しい)がもっと大きくて、enormousとかhugeとかは受験英語にもあったような気がするが、colossalはもっと大きくて(ローマのコロセウムから来たのだと筆者の英会話の先生が言っていた)、さらに、ginormousとか(giganticとenormousを合成した造語ではないかとにらんでいる)より大きさを表す単語は進化?しているようだ。
どうも、ハンバーガーとかそれを食べる人間とか巨大化していくのが得意のアメリカでは、「小さい」を表す単語は多くないのに(と勝手に思ってる。英語詳しい方、教えてください)、なぜか「大きい」を表す単語は変化に富む。
フィラデルフィア美術館はせいぜいbigだろうとなめていたら、enormousかなんかで、まともに見ていたら一日では足りない規模だ。特に近現代美術のコレクションはすさまじい。ああ、そういえば美術書の作品引用に「フィラデルフィア美術館所蔵」とのキャプションが入っているのが多かったような。例えばマルセル・デュシャンの「大ガラス」や「遺作」など。「大ガラス」は東京大学にもあるくいらいで、日本やヨーロッパで何回も見た。しかし「遺作」は、さすがにフィラデルフィアまで来ないとなかなか見られないのではないか(ただし、横浜美術館でデュシャン展をしていた時には展示されていたようである。筆者もポンピドゥーかどこで見た。)。まあ、わざわざ見に来る作品かどうかは別にして。そしてドガの彫刻も多い。ドガというとバレエの油彩、パステル画などが思い浮かぶが、アラベスクなどたくさんの彫刻をつくっていて、日本で大規模な展示は難しいだろう。それに、そもそも近代絵画、印象派以降、スーラなど新印象派、ゴッホなどのフォービズム、そしピカソ以降と印象派の後ヨーロッパ画壇でどう展開していったのかを知るには、このようにまとめて見る必要がある。マネが火をつけた革新的画壇=印象派の先達、ルノワール、モネ、ドガ、をセザンヌが後に続く者を生み出し、フォービズムのゴッホやゴーギャン、キュビズムのピカソ、ブラックを経て、シュルレアリズムに至るまでの流れは、ある程度作品がそろっていないと理解しがたい。その意味でセザンヌとマチスのコレクションは重要である。水浴画ですでにフォルムとしての絵画論を完成していたセザンヌは、山を描くときも、人を描くときも同じように対象分析=分解を終えていた。自然を円筒形と球と円錐形で捉えよといったセザンヌは、色彩についても少なくとも彼が考える無駄な色を排せよとした。シュルレアリズムはその一つの到達点であり、シュルレアリズムというと抽象的な無機質との思い込みを、見る側の想像力を刺激してやまない豊かなフォルムとカラーを生み出した。それはマチスを見ればさらに明らかになる。なぜ、このような簡単なドローイングで、乏しい色数でこのような華やか、豊かな表現が可能であるのか。それは、印象派以前、非現実的な歴史絵巻を主にしていたアカデミズム画壇が「見せる」絵画を念頭に置いていたのに対し、印象派は描く自らが「見る」絵画を追求したからではないか。自分がどう見るかは、へたをすると唯我独尊になる危険は大きいが、セザンヌがモネを賞賛して発した「モネは眼に過ぎない。しかし、なんという眼だ」に端的に表れている。
自ら「見る」にこだわった印象派の面々は、やさしい女性(少女)や家族像を繰り返し描いたルノワール、バレエという現実に動いている者を止まった状態で表わしたドガ、ロマン主義を排したところで田園を想起させたピサロなどを見れば、印象派が絵画の世界を変えたと知るには十分である。
アメリカは美術の世界をも変えようとした。それは財であり、ともすれば旧いキリスト教美術の価値よりも、後世に力を持つであろう(実際、そうであった)印象派の作品に価値を見、買い漁ったアメリカの富豪のすばらしき成金趣味の証として現在の私たちの眼福に寄与しているのは紛れもない事実である。(セザンヌ The Large Bathers)
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