kenroのミニコミ

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スペイン・ポルトガル美術紀行2012(5)

2012-03-08 | 美術
今回、スペインに再び行こうと思ったのはここに来たかったから。バルセロナからフランス国境近くまで2時間半。思ったより都会だったが、帰りの道は迷ってしまい地元の人が行き交う青空市場は周れず仕舞。それでもここまで来てよかったと思わせる何かがある。カタルーニャが生んだ奇才ダリの劇場美術館があるからである。
サルバドール・ダリ。シュルレアリズムの巨匠と呼ぶか、近代絵画のディスコンストラクションかの評価はさておき、ダリの絵は、発想は人を惹きつける。別にダリにとても興味があったわけではないし、ダリの一つひとつの作品が好きであった訳ではない。ぐにゃりとした時計とか、なんなのかよく分からない物体の連続とか、ダリの絵は別に美しくはない。美しいとはきわめて主観的感想なので、絵画に限らずダリの作業そのものが美しいか、そうでないかと問われると難しいが、少なくともダリの作品群たる劇場は面白い。
劇場というくらいであるからここは美術館ではなくダリの劇場である。ダリが愛した一番は妻であるガラ。そして奇妙に思えるかもしれないがキリスト教。当時パリの画壇を詩人の妻でありながらエルンストと愛人関係をつくっていたガラが10歳年下のダリを夢中にさせる。そして、ダリと結婚し、若い愛人を渡り歩いたのにガラは生涯ダリのもとを去らなかった。ダリにとってインスピレーションの源であったガラは、言わばダリにとってのミューズであり、聖母。マリアに模した肖像画や昇天するさまを描いた絵も多い。興味深いのは、ダリがガラを聖母視していたためかどうかは分からないが、あれだけ猥雑な作品を遺したのに、性器をフィーチャーしたり、あからさまにセックスを想起させるようなものは少ないということだ。もちろん、人間とも実際には存在しない怪物とも見える異形の生き物が自らを引き延ばし、苦痛にもだえるあの有名な作品(たしかポンピドゥーセンター蔵)は性衝動の快感とも解釈できるが、ピカソなどキュビズム(期)の画家が、ときに性器を誇張したのに比べ、ずいぶん保守的である。とはいえ、ダリのディスコンストラクションは自らが持っていた信仰キリスト教にも及ぶ。繰り返し描かれるガラは聖母、磔刑像に違いないと思える彫刻、最後の審判で阿鼻叫喚を示すさまざまな群像(彫刻あるいはレリーフ)。ダリ自身は自分の信仰について詳しく語ったとことはないとされる割には戦後カソリックに帰依し、シュルレアリズムの激烈な紹介者アンドレ・ブルトンと袂を分かったあとは、フィゲラスの地でガラが中心の生活を静かに過ごしたことからも分かるように、表現の珍奇さとは裏腹にある意味保守的な人であったのかもしれない。
ダリの画業は「劇場」である。その劇場を構成する要素と、アイデアにあふれていたからこそ劇場が完成したのであり、ときに、唯我独尊、独りよがりとまみえるダリの世界は、ここフィゲラスでこの美術館まで来なければ味わえない代物でもある。筆者が訪れた際には、結構高校生くらいの若い人たちが学習のために?来ていた。超現実主義とは「現実」があってこそ理解できる「主義」であるならば、ダリを見据えて「超」が以外に身近に感じられるダリ劇場美術館なのである。(卵でおなじみのダリ劇場美術館) この項おわり






コメント (2)
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