kenroのミニコミ

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ジェンダーの視点も必要  でも見てほしい「うまれる」

2010-12-24 | 映画
ずいぶん昔に出産のビデオを見たことがある。感動した。そのビデオは、子どもの成長期における様々な問題、困難についてカウンセリングの用法で親にアドバイスしたり、子どもに接するクリニックを運営する東さんが中・高校生などに見せるため制作したもの。ふだんふてくされて「命の大切さ」(これも紋切り型ではあるが)など興味を示さない中高生らがこのビデオを見て涙流すという。
今回「うまれる」は出産そのものを取り上げたものではなくて、出産することあるいは出産しなかったこと、できないことも含めて「うまれる」とはどういうことかを4組のカップルを通して描くドキュメンタリーである。母親に虐待を受け、自分が子どもを持つことに自信を持てない助産師の女性と、同じく親と折り合いの悪かったその夫、子どもが18トリソミー欠落という先天性で治療法がなく、長くは生きられない障がいを持っても生まれることを選んだカップル、出産予定日に胎児が死んでしまったカップル、そして長きにわたる不妊治療の末、子どもを持たない生き方を受け入れたカップル。
どの人たちも自分たちの、女性は生む、生まない、生めないを、まさに自分自身の体、心と葛藤し、選択し、受け入れていく様が丹念に描かれていく。一方男性は、パートナーが妊娠あるいは不妊の期間を通して、自ら「父」になっていく、なる準備をする、あるいは父にならないことを自覚していく過程が綴られていく。
出産はすばらしいとか、命をどれも平等であるとか、分かりやすい「落としどころ」に頼らない描き方がよい。そして、登場するカップルたちはいずれも子どもが生まれる、生まれないことについて真摯でクレバーな生き方を実践しているように見える。
物語の筋となっている最初の助産師婦夫が新しい命を育むまで、第一子を失った婦夫が妊娠が分かるまでを描き、また、18トリソミーの赤ん坊が1年生き抜いた映像で終わる。いずれのカップルも、また、女性、男性一人ひとりが構えずに、等身大に語っているところも好感が持てる。
とここまで持ち上げたところでひねくれ者の苦言を。今回本作で取り上げられたカップルはいずれも「正式な」結婚、すなわち法律上の婚姻をしているカップルであり、事実婚はいない。また、シングルマザーもいない。あるいは最初から子どもを望まない人も出てこない。本作の指向とは違うのかもしれないけれど、子どもは「正式な」カップルから生まれてくるとは限らないし、父親がいるとは限らない。けれど子どもは「正式」だろうが、そうでなかろうが「生まれる」ことについて一種の畏敬が感じられることに変わりはないし、子どもができない悩みは「正式」とは関係がない。
筆者の古い友人で、事実婚のカップルがいた。不妊治療もしたが、養子を考えていたとき、事実婚には養子は斡旋できないと言われて涙したことを語ってくれたことがあった。じゃあ、「正式な」結婚をすればいいじゃない、という問題ではない。彼女にしてみれば、パートナーとの関わりの中で事実婚を選択したのは、言うなれば、子どもを持つか否かと同じくらいに悩んだ末での選択であったのだ。もう20年以上も前の話だ。
事実婚で生まれた子どもは「非嫡出子」となり、嫡出子の相続分の半分である。「非嫡出子」という表記や相続差別をめぐって裁判が提起されているが、最高裁はいずれも差別ではないとして訴えを斥けている。
子どもは親を選べない。だから、虐待もおこるし、悲惨な親子関係も現出する。しかし、子どもは親を選べないという科学的、合理的事実に真っ向から反対する非科学的、不合理な事実を押しつけるのが、本作で描かれる「子どもが生まれてくる親を選んで生まれてきた」とするファンタジーである。出産予定日に胎児が死んでしまった悲しいカップルの例では、その子に名前を付けて、その子が「あなたを選んだ」という語りかける絵本で、自責の念から解き放たれた、癒されたとするのに異議を唱えるつもりはさらさらない。そして、死産という体験を「あなたを選びました」という子どもからの声を聞いたと思うことで生きる力を得られるならばファンタジーでもなんでもありであると思う。
しかし、非嫡出子のように国から「あなたは正式に生まれてきたのではない」と法律的にも意識的にも決めつけられる存在は、「あなたを選んで生まれてきました」というファンタジーでは、差別はなくならないし、子どもの間の差別の解消にはなんの解決にもならない。
本作の問題点は「正式な」カップルだけを取り上げることによって、「正式」でないカップルや、その他一人で育てることになるシングルマザーや子どもを持つことを肯えない人は描かれないとである。もちろん監督の意図するところとは別に、そのような人が映画に出てくれなかっただけかもしれない。けれど、婦夫、とわざと表記したのは「夫婦」ではあまりにも「夫唱婦随」の感じがかいま見えたから、であるが、本作に出てくるカップルはいずれも夫が先、妻が後追い、「旦那さん」と「奥さん」であるからである。中には妻の方が年上であるのに、主人公である女性が夫の後に紹介されていたりする(ラストクレジットの登場人物が夫の姓、夫の名前、妻の名前だけという順番もひどい。)。
セクシュアルの問題はジェンダーと不可分である。ジェンダーバイアスを越えられないところで、「うまれる」という大事な現象を女性だけではなく男性や、子どものいない世代や感性にまで訴えることはできないのではないか。ジェンダーセンシティヴもまた、次の世代を期待する、「うまれる」に必要な意識と思うのだが、どうだろうか。

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